71.マスティマの年末
年は暮れ行く。元旦まであと三日をのこすばかり。
マスティマの今年最後の任務も昨日で無事終了したらしい。
その内容は、誘拐された某国の政府高官の救出だったとのこと。
私はコックでしかないので詳細は知らせてもらえない。任務が終わった後に最小限の情報を耳にするだけだ。知らなくてもいいことには触れない方がいいというわけだ。
マスティマとは、ロンドンに本社を置くディケンズ警備会社の影に潜む存在。
公的社会に害をなすものを狩ることを使命とする組織。もっとも実際の仕事の多くは、裏社会の秩序を崩さないためのものだ。
私がこの組織を知ることになったのも任務中の彼らに出会ったからだ。十年前、マフィアの抗争に巻き込まれた私と父を救ってくれた。
その時も穏健派のマフィアのボスを守るためにやってきたのだ。武闘派が彼を倒せば、闇の勢力図も大きく変わるとの判断だったのだろう。
大きな変化には動乱がつきものだ。罪人は増え、死者も多く出る。
犯罪の根絶など、そもそも不可能なことだ。世界が善人で満ちた天国にならない限りは。
そんなことは、マスティマはもちろん、どんな組織でもなしえないことだ。
ならば、どうやって犯罪の絶対件数を減らしていくか。
ここに、この組織を結成したというディケンズ警備会社創設者の意図がある。マスティマがうまく働けば、警備の仕事も最小限で済むということらしい。
一言で言って際どい存在だ。警察、軍隊、政府だけでなく、マフィアなどの犯罪組織そのものにもパイプを持ちながら独立性を保っている。
何処からも干渉を許さず、何者も留めることはできない。
それこそがマスティマの隊員たち全ての誇りであり、ボスの誇りであるように思う。
マスティマのアジトである古城で過ごして早半年、私は深くを知り始めていた。
雪がちらついている。
葉のないむき出しの木の枝が震えていた。風もあるようだ。
厚い灰色の雲が空一面を覆っている。午後の日差しは期待できそうにない。
窓ガラスに息を吹きかけるとすぐに白くなった。外はかなり冷えてきている。
もっとも暖房の効いた室内では寒さも感じられない。コックの証である七部袖の白衣で快適に過ごせる。
触れた窓ガラスから外気を感じとる。
見下ろすと、黒い上着の襟をかき合わせた隊員が背を丸めるようにして歩いていた。警備の人だ。こんな寒い中、ご苦労様と心の中でねぎらう。
カレンダーなんて関係ないマスティマも、さすがに今日からは休みモードに突入。任務も昨日で終了したし、警備の人員も減り、城の中はすかすかだ。
仕事を終えた隊員たちは城からどんどん離れていった。それぞれの家族の元で年始を迎えるのだろう。
私も今までは何処にいようと舞い戻り、イタリアの実家で過ごしていた。だが、今回は違う。母、そして何よりも祖母に諦めてもらうのにどれほど言葉を尽くしただろう。
上司であるアビゲイルの言葉なら、一言で終わるのに。
「新入りが他の隊員を差し置いて、クリスマス休暇だなんて、うちでは考えられないわ」
こんなこと、祖母には到底聞かせられない。
ディケンズ警備会社という世界的な一流会社に入ったはずなのに、クリスマス休暇はおろか、ニューイヤー休暇がないなんておかしい。彼女は電話口でそう繰り返していた。
実際に私がいるのは、ディケンズ警備会社の裏組織であるマスティマだ。
しかも性別を偽ってコックとして勤めている。私の正体を知るのは、ボスとアビゲイルだけだ。
そんなことは、さすがに伝えられない。そんな怪しくて危険な組織に、唯一人の孫が属していると知ったなら、年も年だ。卒倒しかねない。
そこで私が用意した言い訳はこうだった。
「警備は正月だろうと関係ないから。会社に出てくる人のために食事を用意する人が必要なの」
警備をマスティマに、会社に出てくる人を城にいる人に変換すれば、本当の理由完成だ。
それでも祖母は文句が尽きないようだったが、後で改めて休みを取ることを約束して、納得してもらった。
「お婆ちゃんのおせち食べたかったな」
溜め息混じりに呟く。
諦めが悪いとは思うが、正月恒例の祖母のおせちが食べられないのは寂しい。日本人である祖母は、私に日本料理の基礎を教えてくれた人でもある。
私自身、日本でも修業をしたことがあるが、彼女の作る料理はいっぱしの料亭にも匹敵する美味しさだと思う。
それでも、ぐっとこらえなければ。城に残る人のために。
そう、幹部がいるのだから。
もっとも一人はすでに城にはいない。医師にして経理担当である私の直属の上司、アビゲイル。
彼女は娘のプリシラ、夫のオスカーと共に今朝城を発った。ケンブリッジにあるというオスカーの実家が目的地。
日ごろ、幹部たちの食事の面倒を見ているアビゲイルがいないのだ。そのうえ、この時期は閉めている飲食店だって多くなる。
幹部の食事は私にかかっているのだ。私はコックとしての責任を噛みしめる。
そんな時、外が騒がしいことに気付いた。
真下にあたる玄関口に黒い人だかりができていた。まだ城に残っている隊員たちが集まっているようだ。
ガラス越しに空気が震えたのを感じた。最初は雷かと思ったが、すぐに違うと分かる。これは大型バイクのエンジンを吹かす音だ。
チェスナット色の革のライダージャケットから覗く、長く赤い巻き毛。インディゴのジーンズ姿の青年がバイクに跨っている。彼は取り巻く人たちの前でバイクを反転させた。
「ジャズ隊長!」
私は外の寒さも忘れて、窓を開けて声をはり上げた。
バイクの上の人は、顔を上げると白い歯を見せた。満面の笑顔のこの青年は、マスティマでナンバーツー、実行部隊を仕切るジャザナイア隊長だ。
「おっ、マイケル。見送りありがとさん」
見送りって、この人もどこかへ出かけるつもりなのだ。
作る食事の量にも関わってくるから、いつ戻るかを聞いておかなければ。だが、その前に彼は私に向かって片手を上げた。
「お前もいい年をな」
そう言うなり、バイクを発進させる。エンジンが低い唸り声を上げて加速していく。
そうして、あっという間に門を抜け、小さくなってしまった。
第2部始まりました。
第1部完からおよそ6年以上の歳月がたってしまいました。お待ちいただいた方には、謝罪と感謝の言葉をおくりたいと思います。
また「運命のマスティマ」によろしくお付き合いください。
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