7.初日の事件
グレイの呼びかけて集まってきたのは五人。いずれも黒いジャケットを身に着けている。
袖にエンブレムもあり、マスティマの制服だと分かる。皆体格もいい。
お陰で掃除はあっという間に済んだ。
綺麗になった食堂を見て思わず笑顔になる。やっぱり食事をするところは清潔でないと。
あとは厨房だが、ここ最近使われた形跡はなく、埃を取るだけで済みそうだ。
お礼を言おうと食堂に戻ると、グレイが棚の奥からなにやら引っ張り出していた。
「あんた、美味いコーヒーは入れられるか?」
目の前に置かれたのはコーヒーメーカーとコーヒー豆の缶。
「お好みの味かどうか。味見していってもらえませんか。皆さんも一緒に」
掃除を手伝ってくれた、せめてものねぎらいに。
グレイは頷き、男達は顔を輝かせた。コーヒーでこんなに喜んでもらえるなんて、料理のしがいがありそうだ。
豆をひいたり、ミルクや砂糖を捜したり、コーヒーカップを用意したり、皆協力してくれた。
食堂に香りが広がる。コーヒーが溜まっていくサーバーに熱い視線が集まる。皆の期待が高まるのが分かった。
その時だった。爆発音が遠くに聞こえ、振動が伝わってきた。
グレイが舌打ちをする。男達を見ると彼らは明らかに動揺していた。
「何事ですか?」
私が問うと彼は一度手首のブレスレットを見やって、それから笑顔を向けた。
「なんでもない。まあ気にすんな」
なんでもない……なんて訳がない。何かの事故か、敵襲か、どちらかだろう。
開け放しの扉の向こうを苛立ちを口にしながら駆けていくアビゲイルの姿が見えた。
私は彼女の後を追った。グレイの止める声が聞こえような気がしたが構わなかった。
向こうはハイヒールだというのに、悲しいかな足の長さの違いか、私よりずっと早い。引き離されそうになりながらも必死に走る。
そして、立ち止まった彼女を見つけたとき、その足元に人がいるのが見えた。
廊下の壁に寄りかかるようにして座り込んでいる。黒いジャケット、この人もマスティマの人だ。
「下手をやったわね」
手早く上着をはだけさせ、シャツの胸に手を当て触診しながら、彼女は半ば呆れたように言う。
「僕は……決済を伺いに来ただけで。サインをもらいに」
その若い男は喘ぎながら言った。ボードに挟んだ書類を握り締めている。
男の顔が一瞬引きつる。大きな音を耳にして、思わず振り向くと、彼の正面の扉が閉まったところだった。
遅れてアビゲイルもそれを見やった。
「今近寄るなんて自殺行為……」
言いかけて私の存在に気付く。
「あら、マイケル。何をしてるの、こんな所で」
心なしか声が殺気立っているような。
私が言葉を返そうとしたとき、後ろから腕を取られた。
「ちょっと気になっただけだよな。今からコーヒー入れてくれるんだよな」
現れたのはグレイだった。慌てたように私を後ろに引っ張っていく。
「コーヒーができた頃だ。さあ、行こうぜ」
私の意向など関係なしだ。有無を言わさず引っ張られ、食堂まで連れ戻される。
扉を閉めると、彼は深い溜め息をついた。
「無茶をするな、あんた。初日からあんなのに巻き込まれたいのか」
「でもあの音、ただごとじゃないですよ」
私の言葉にグレイは苦笑を浮かべる。
そして、自分の手首のブレスレットを外すと私に押し付けた。
「緊急連絡用だ。付けてろ。メッセージと色で連絡が来る。赤でEコードは敵。数字五段階で敵の規模を表して五が最大。黄色が召集。青色が業務連絡だ。今のは何も出なかったから、事故でも敵襲でもない」
だったら何だというのだろう。
答えを待つも彼はそれ以上何も言わなかった。私の疑問など無視して、サーバーからカップにコーヒーを注ぎだす。男達はもういなかった。仕事に戻らせたと彼は言った。
「あんた、ボスに会ってみてどうだった?」
ブレスレットを付けていると、彼はコーヒーを口に含みながら問う。ずっとあんたと言われっぱなしだ。なんだか居心地が悪い。
「わ……僕の名前はマイケルですよ。グレイさん」
「グレイでいいよ。んで、どうだったんだ、ミック?」
いきなり呼び方愛称だ。でも先輩だから仕方ないか。
私は廊下で会ったボスの微笑みを思い出した。
「優しそうな方だと。まだちゃんとお話はしていないので分からないですけど」
その答えにグレイはコーヒーを噴き出した。
「大丈夫ですか?」
気管に入ったようで咳き込んでいる。彼は涙目になりながら私を見た。顔をしかめながらも唇は笑っている。
「面白れーの。最高だな、ミック」
何が最高なのか分からないが、とりあえずは褒め言葉なのだろう。
私は催促する彼に二杯目のコーヒーを注いだ。これも気に入ってもらえたようだ。
結局、他の人たちに用意した分全てを飲み干してから、彼は上機嫌で食堂から出て行った。
あんなにカフェインを摂って眠れるのだろうか。もう深夜だというのに。
私もゆっくりとは眠れそうにない。明日の夕刻からが契約開始だとしても。
やることは沢山ある。まずは食材の確認。それから厨房の掃除だ。
廊下を通りかかった人にアビゲイルの連絡先を聞いて、厨房の電話からかける。
彼女は食材については心配ない、明日正午までには色々と届けるように指示しているからと教えてくれた。
調理器具を使いやすいように並べなおし、包丁を研ぐ。手に馴染まず、満足のいく道具ではないが、とりあえずは私の物が届くまでの辛抱だ。
全てを終えて、道順を書いたのメモを見ながら自分の部屋に戻った頃には、三時を回っていた。
服を脱ぎ、サポーターを外し、ようやくほっとする。
Tシャツに下着だけとは心もとないが、着替えもないし、スーツを皺だらけにするわけにもいかない。私はベッドに潜り込み、明日(正確には今日だが)のことを考えた。
なんだかまだ実感がわかないが、今自分はマスティマにいるのだ。仮契約ではあるが念願だったマスティマのコックになれたのだ。
興奮に眠気が訪れることはなく、やっと眠りに付いたのは日が昇り始めた頃だった。
そして、私は夢の中でもマスティマのコックとして働いていていた。
次回予告:仮契約の日を迎えて働き始めるミシェル。マスティマの隊員たちの期待に応えようとする。
第8話「マスティマのコック」