65.セオ(後編)
落ち着いて考えよう。まずは一回深呼吸。
総取締役の英語の綴りを頭に描く。確か、Chief Executive Officer。略してCEOだ。
本社の女の人たちが言っていた、ボスが一目置いているという人物。それがこの人だったとは。
そうか。だからCEOなのか。勝手に苗字か名前の一部かと思っていた。
「健康状態は良好のようだ。そうでなければ、最後の手段に出るつもりだったが……」
彼の視線は私からアビゲイルへ。彼女は頷いた。
「ボスも懲りたんでしょう。本社に呼びつけられて訓告を受けるなんて、もうご免だと思ってるはずよ」
「三度目だよ」
アーロンは何処か憮然とした調子で言った。
「一度目の注意は無視。彼女が倒れての二度目の注意も同じ調子だったから、来てもらったんだ」
この人こそがボスが口にしていた“あいつ”だったのだ。私は確信する。
「勤めを果たして、あいつを黙らせろ」「あいつに首を突っ込ませるな」
どちらも苛立ったような言いようだった。ようやく話が繋がる。
ボスの性格だ。外から茶々を入れられたのでは、お冠になる気持ちも分かる。
アーロンの瞳は変わらなかった。眼鏡の奥で柔らかい光に溢れていた。この人の言うことにボスが耳を傾けるなんて、いまいち実感がわかない。
アビゲイルとアーロン。二人の視線が集まるのを感じて、私は身を硬くした。
「どうするの。予定通りこの子を連れて行くの?」
「いや」
言いざまに体を反らしたせいで、彼の眼鏡に銀色の光が差した。
何かを思いついのか、思い出したかしたようだ。唇に微笑みが広がる。すっかりお馴染みになった笑顔で彼は再び腰をかがめた。
「ミシェル、君の料理は本社でも有名だ。マスティマの隊員からの話が広がってね。社員達も興味津々。特にお菓子は絶品だと聞いているよ。そこでだ」
内緒話をするかのように声を落とした。
「ビスコッティを焼いてもらいたいんだ。うちは来客が多いしね。茶請けに出したいんだが。もちろん社員にも食べさせてやりたいからたくさんね」
「……それは構いませんけど」
彼は笑顔のまま「決まりだ」と言った。
机の脇に置いていたアタッシュケースを取り、私へと渡す。よくビジネスマンが持っているジュラルミン製の銀色のケースだ。
この中に入れてくれと彼は言う。とてもじゃないけど、お菓子の入れ物には見えない。
「明日の午後二時、遣いの者を送る。それまでに用意できるかな。場所はここのヘリポート。他の者には内緒で頼むよ。複雑にはしたくないのでね」
ビスコッティで複雑なことってなんだろうか。
分からなかったが頷いた。理由を尋ねたりしたら、それこそ煩わしいことになりそうだ。
アーロンは「そろそろ戻らなければ」と口にした。
当然出口に向っていくだろうとの予想に反し、彼は部屋の奥へ歩いていく。白いついたての向こうの患者用ベッドが置かれている方へ。
ベッドフレームの鉄の支柱に触れる。すると、驚いたことにベッドが折りたたまれ、床に穴が出現した。ライトが自動で点り、下へと続く螺旋階段が見える。隠し通路だ。
「そうだ、アビゲイル。カルテのチェックが途中になってしまった。本社にデータを回してくれ」
「了解。あとで送っておくわ」
アーロンは頷くと、私の傍までやってきて頭に手を乗せた。
「クリスマスパーティの準備だからといって、無理は禁物だからね」
子供にやるような仕草で撫でる。不思議と不快な気分にならない、優しさに満ちた触れ方。
「張り切るのはいいけれど、また倒れるようなことになったら……」
「分かっています。これ以上ボスに迷惑はかけません」
私は本心からそう言った。イライラするボスも嫌だが、奇妙に優しいボスもなんだか落ち着かない。
アーロンはにっこり笑うと、踵を返して階段を下って行った。
彼の背中が遠ざかると自動で床が塞がり、ベッドが元の位置に戻る。
私の背後からアビゲイルが肩を掴んで顔を覗きこんでくる。
「それにしてもユニコーンの乙女ねぇ」
アーロンが口にした言葉を繰り返す。気になって尋ねてみた。
「それって、どういう意味ですか?」
「例え話ね。ユニコーンは乙女の前ではおとなしくなる、彼女の膝を枕にして眠ってしまうっていう伝承があるから」
もしかして、ユニコーンってボスのことだろうか? まったく印象が合致しない。そんな優美な伝説の生き物のイメージとはちょっと違うと思う。
私が乙女っていうのも微妙だ。何といってもマスティマでは男で通ってるし、ボスに膝枕だってもちろんしたことないし。……と思って、はっとする。
まさか、私がボスにそんなことをしていると誤解してるなんてことは……。
「面白い例えだわ」
アビゲイル納得したように頷きながら言っている。私は奇妙な想像を頭から必死で追い出そうとしていた。
「それにしてもセオ自ら動くなんて。気に入られているのね。自分が推したものだからほっとけないんだわ」
「あの方もお医者様なんですか?」
少し焦り気味に尋ねる。こういうときは別のことを考えるに限る。
そういえば、彼はカルテがどうのと言っていた。確かに、あの人はドクターっぽい。白衣や聴診器が似合いそうだ。
となれば、彼の私への関心は職業病みたいなもので、健康状態に不安があるからじゃないだろうか。コックである私が痛みやすい素材に気を使うみたいに。
「セオの専門は精神科だけどね。内科や外科にも通じていて、腕の立つ医師だわ。私の師でもあるのよ。彼はマスティマどころかディケンズ警備会社、全社員のカルテに目を通しているの。五千を超えるっていうのに見るって聞かなくってね」
凄い数だ。ディケンズは世界規模の警備会社だから、社員数もそれくらいになるのだろう。
「それよりよかったわね。明日の午後はボスが不在だし。うまく立ち回ればセオが来たこともばれずにいけるわよ」
「それも秘密なんですか?」
「当たり前でしょ。ボスは彼のことをあまり良く思ってないもの。城に来たなんて知っただけで気分を害すわ」
玄関から出て行かずに秘密通路を使った理由を知る。それに渡されたジュラルミンケースも。内緒ということか。それにしても手間のかかることだ。
ケースを見下ろして息をつく。
ビスコッティをこんなものに入れるなんて、あまり気が進まない。入れ物として不適切というだけではない。後で分かることになるのだが、それは多分虫の知らせだったのだ。
午後の日差しを遮る厚い雲。ヘリコプターの色が空に溶け込んでいく。
これで守らなければいけない秘密も去っていった。私はほっととした思いでそれを見送っていた。
「おい、マイケル。今のはなんだ?」
突然、後ろから声をかけられて驚く。
振り向くと、そこにあったのは、天を仰ぎながら近付いてくるジャザナイア隊長の姿だった。
私はアーロンの内緒だという言葉を思い出す。うまく切り返さなければと考えたが、すぐには出てこない。
代わりに隊長の耳に届いたのは、胸ポケットに収まった小型無線機の声だった。
「フライトスケジュールには記録ありません。未登録のヘリです」
隊長が城へと目をやる。ここからでは姿を見ることはできないが、屋上にいる監視員からの連絡だろう。
「よし、横っ面にかましてやれ」
無線機への応答に慌てる。
「ジャズ隊長」
声をかけるも、止めることなど遅すぎた。
城の屋上から白煙の尾を噴き出しながら、何かが打ち出された。方向を定めて進むヘリの脇を掠めるようにして飛んでいく。あれはロケットランチャーから撃ち出されたものだ。
「隊長、あのヘリは……」
「げぇ!」
押し潰れたその声と私の声は殆ど同時だった。
彼は折りたたみ式の簡易スコープを手にしていた。目を離して肉眼で確認して、また覗き込む仕草を繰り返している。
「本社の機体じゃねぇか。何で言わねぇんだ、マイケル」
そんなことを言ったって、私の言葉なんて待ってくれなかったのに。
「まいったな、こりゃ。先に本社に謝っとくしかねぇな」
ぶつぶつ呟きながら背を向ける。頭をかきかき、歩いていってしまった。
嵐のようにやってきて、過ぎ去っていく。そういうところはよく知っているものの、いまだに付いていけない。
というか、まともに張り合えるのは、もう一つの大嵐の元であるボスくらいなものだろう。
そして、それは間もなく実証されることなった。
次回予告:ボスにヘリを威嚇砲撃した報告をするジャザナイア隊長。その言い訳にミシェルはひとり焦るばかりで……。
第66話「未確認飛行物体」
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