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運命のマスティマ  作者: 鏡 香夜
(5) Christmastide クリスマス・シーズン
66/112

64.セオ(前編)

 巻き起こる風の中を私は歩いている。

 足元に広がる四角い石を敷き詰めた地面。白衣の上に着たマスティマの制服である上着がはためく。手には銀色のジュラルミン製のアタッシュケース。

 空には厚い雲が流れている。それをかき混ぜているのは騒々しく音を立てるプロペラ。地面から五十センチほどでホバリングして、一機の灰色のヘリコプターが待っていた。

「確かに預かった」

 開いたヘリの扉から手を伸ばしたのは、サングラスをかけたスーツの男だった。彼はアタッシュケースを引き込むと、操縦士に合図をした。

 後ろ向きに距離をとる目の前で、扉を閉めたヘリコプターが上昇を始める。

 塀の内側の植え木がざわめく。私の短い髪の毛も掻き乱される。

 背後には朽ちかけの様相を呈する城。大きく周りを取り囲む石塀。ここはマスティマのヘリポートだ。

 そして、この闇世界の取引を思わせる出来事。始まりを語るには少し時間をさかのぼらなければならない。


 十二時間睡眠を取ってから最初の朝食。

 いつものボスにほっとする。目を合わせるのは食堂に入ってきて、私が挨拶の声をかけたときの一度きり。

 食器を扱う音だけが小さく聞こえる、沈黙のうちの食事。

 これこそが平和というものだ。この人が口を開くときは、ろくなことがないのだし。

 アビゲイルの姿はなかった。本採用になってからは、それが殆どのことだ。後で医務室に向うつもりだった。

 彼女なら知っているはずだ。ボスがボスらしからぬ行動をした理由。それが分からないうちは落ち着かなくて仕方ない。

 朝食の食器を片付けることもそこそこに医務室に向う。

「アビゲイル」

 名前を呼びながら、ドアを勢いよく開けた。

 最初に飛び込んできたのは確かに彼女の白衣姿。デスク近くの薬品棚の前に立っている。

 だが、それだけではない。予想外に他にも人がいた。こんな朝早くだから彼女しかいないと踏んでいたのに。

 デスクの椅子に腰掛け、パソコンの画面に顔を向けている男の人の姿。黒髪に黒ぶちの眼鏡。身に着けているのは上品なヘリンボーン柄のツイードのスーツ。

 椅子を回してこちらを向いたのは見覚えのある壮年の男性。ディケンズ本社で私の仮採用を決めたアーロンという名の人だ。

「やあ、おはよう」

 彼は立ち上がり、深く温かみのある声で挨拶する。

「おはようございます」

 反射的にそう返したが、不審はぬぐえなかった。何故この人が今こんな所に。

 デスクに届く前に私の足は止まっていた。彼がこちらに近付いてきたからだ。

 眼鏡の端を指で押し上げ、じっと私を見つめる。

「体重が落ちたかな。顔も少しやつれているね。だけど顔色は悪くない。髪の艶も爪の色もいいね」

 腰を折った彼は私の手を取って見る。

 じっと観察されている。居心地の悪くなった私は体をもぞもぞと動かす。

「睡眠はちゃんととっているかい?」

「昨日は十二時間も寝てしまいました」

 その答えに彼は短い笑い声を上げた。楽しげな声だ。

「眠れることはいい事だけどね。寝溜めなんて意味がないから、毎日の睡眠が大事なんだが、いつもそれくらい眠っているのかね」

「まさか」

 今度は私が笑う番だった。彼は微笑んで私の肩に手を乗せる。親しみの持てる不快でない仕草。

「ディヴィッドも少しは気を遣っているようだね。絞った甲斐があったかな」

 続く言葉にほぐれていた気分が一気に覆される。

 私はあっけに取られた。ディヴィッド……ボスを絞った? 確かにそう聞こえたけれど、この人が?

 くだけた笑顔はそのままだ。ボスに太刀打ちできそうには到底思えない。マスティマの人事に関わっている人だとしても、例え年上だろうと関係ないはずだ。ボスが黙って、こんな柔そうな人の言うことを聞くなんて。

「まるでユニコーンの乙女だね」

 彼は自らの呟きにふっと笑いをもらすと、尋ねた。

「夜の勤めは減ってるね?」

「……どうしてそんなことまで」

 アビゲイルが話したんだろうか。愕然と彼女を見やる。

 いまだ薬品棚の前で腕を組んだまま立っている。傍観者を決め込んでいるようだ。動く気配もない。

 私は後退りした。彼の手は追ってこなかった。

 どうすればいいのだろう。うろたえる私の思考は混乱する。

 頭の芯がかっと熱くなり、不安が押しせまってくる。本社にまで私が女だと知られるなんて。もし、そのことがボスの耳に入ったら……。

「何も心配する必要はないよ、ミシェル。私は君の味方だ。最初からね」

 変わりのない穏やかな彼の語り口。

 口惜しいことに言葉はまだ出てこない。何を言っていいのか分からないほど心乱れていた。

 彼は、初めから私が女であることを知っていながらマスティマへと案内した。それだけは分かった。

 そういえば、城を前にして言っていた。健康診断は必要ないと。アビゲイルはその言葉をヒントに私を女ではと疑った。そう言っていたではないか。

 自分の愚かさに今さらながらに驚く。彼が私の正体を気付いた理由。最初の時点で気付くべきだったのだ。

「それはブルーノさんが……」

「彼は君の性別については一切触れなかった。私自身の判断さ」

 私は唇を噛みしめた。束の間とは言え、ブルーノさんを疑ってしまうなんて、どうかしている。

 アーロンは歩み寄ってきて私の顔を覗きこんだ。再び唇に笑みが浮かぶ。

「ディヴィッドがなんと言おうと、君をマスティマのコックから外す気はないよ。君がそれを願っている限り……」

「何を言ってるんですか。あなたにそんなことが」

 遮って言葉が飛び出す。それが失礼だと考えることもできなかった。

 ボスが決めたこと覆すだなんて、いくら本社でも不可能なはずだ。マスティマのボスは一人なのだから。

「それができるのよ。セオなら」

 アビゲイルが初めて口をはさんだ。アーロンの傍に歩み寄る。

「彼はボスのただ一人の上司。本社の(C)取締(E)(O)なんだから」

 その言葉に混乱は深まるばかりだった。

次回予告: アーロンはディケンズ警備会社の総取締役だった。本社用に菓子を作って欲しいとの彼の提案を受け入れたミシェルだったが、思わぬ事態に……。

第65話「セオ(後編)」


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