63.リフレイン
クリスマス・パーティの日まで、あと五日を残すばかりとなった。
やることは山積みだ。
部屋に戻ってからはレシピ本を読み、次の日、仕事の合間に試作品を作る。
頭に叩き込んだ情報の確認作業。その繰り返し。
まさに未知との遭遇。見たこともない料理は感じたこともない味に出来上がったりして、なかなか難しい。調味料を加減して納得できるものに仕上げていく。
普段の仕事も怠れないが、パーティの準備も手を抜くことはできない。
夜のお勤めを減らしてもらっていて良かった。今の状況では前と変わらない。
ベッドの脇でボスに本を読み聞かせながら、眠りかけること数回。そして、またクッションを食堂に持参して空き時間に眠ることもあった。
体調を崩して倒れたときと同じようなことを繰り返している。そうは分かっていたが、あと何日か。パーティが終わってしまえば、またゆとりある生活に戻れる。それまでの辛抱だから大丈夫だと思っていた。
ところが事件は起こった。
昼食の時間が終わり、人のいなくなった食堂。片付けを終えて、束の間の休息に入るところだった。
クッションをテーブルの上にセットして、肘の位置を確認。頭をつけて、さあ眠ろうとしたとき、ボスが部屋に入って来た。
横向きに目にする意外な人物の登場に飛び起きる。どうしてボスがこんな所に。
彼は無言のまま、私の腕を取ると立ち上がらせ、廊下へ向って歩き出した。
「一体何なんですか?」
問いにも答えようとしない。前を向いたまま、どんどん歩いていくので、私は仕方なく小走りで付いていく。悲しいかなこれはコンパスの差だ。
目的の場所に着けば理由を教えてくれるはず。そう期待していた。
扉を開き、執務室を抜けて、着いた先はボスの私室のリビングだ。彼はソファに私を突き飛ばした。
「何をするんですか!」
埋まりこんだクッションから顔を上げて抗議する。訳が分からない上にこんなことをされて、私は怒り始めていた。
「寝ろ」
ボスは命ずる。起き上がろうとする私の頭を押さえつけて。
一体何だって言うんだろう。柔らかいソファの革に顔が埋まって窒息しそうになる。この人、こうやって私を永遠の眠りに着かせようとしているんじゃないだろうか。
「いいから寝ろ」
繰り返される言葉。
こんな風にして、私が「はい、眠ります」なんて言うとでも思ってるんだろうか。物事には順序というものがあるのだ。私は半ば呆れて言った。
「こんな所で寝るなんてできませんよ」
「ソファに縛り付けるぞ」
ボスはコートのポケットから取り出した紐を両手でぴんと張る。本気でやる気だ。私がこれ以上抗うなら。
「……なんだか、ちょっと眠くなってきました」
思わずそう返す。縛られるなんてアビゲイルにされた一件でこりごりだ。
紐をポケットに戻し、ボスは肘掛に寄りかかる私を見下ろした。
「今から打ち合わせに出る。一時間後には戻る。その時にまだ起きていたら……」
言葉を途中にして背を向ける。あとは想像してみろということだろう。
私はぞっとして、目蓋をぎゅっと閉じた。こんな風に体中に力が入った状態で眠れるわけもないが、少しでも努力している姿を見せるしかない。
「これ以上、あいつに首を突っ込ませるな。二度目の本社呼び出しなどありえねえぞ」
言葉を置き去りにして去っていく。あいつというのが誰のことで、本社の呼び出しが何のことか説明なんてなしだ。
扉の閉まる音を確認してから目を開ける。
何のことだか分からないが、今回のことが本社と関わりがあるなら、アビゲイルに聞けば何か分かるかもしれない。すぐにも尋ねたいところだが、今この部屋から出るのはやめたほうがいいだろう。
ボスに知られたら、それこそ何をされるか分かったものではない。
私は溜め息をついた。窓を見やる。午後の日差しは遮られている。厚いカーテンの縁に沿って光の線が見えるだけだ。
一時間あれば、料理の手順書だって作れるのに。
だけど、どのみち食堂にいたって十五分くらいは眠るつもりだったのだ。四十五分はボスにあげたと思って、休ませて貰おう。私は割り切った。
頭の中でパーティの料理の組み合わせを考えながら、ソファに横になる。
いいソファだ。憎たらしくなるくらいの心地良さ。私のベッドより上等かもしれない。
出来上がった料理が私の頭の中を巡り始める。やがて、それが想像の物であるのか、夢であるのか境目なんてなくなっていった。
薄暗い部屋の中で私は目覚めた。
見慣れない天井にソファの背を見やって思い出す。ここはボスの部屋だ。
視線をさ迷わせて、マントルピースの上の置時計を見つける。ちょうどLの形、三時だ。眠ってから、きっかり一時間ほどだ。
ちゃんと休んだのに、なんだか体が重い。体を起こして、かけられたブランケットに気付く。そして私を見つめる視線にも。
驚いて声を上げかけて、慌てて手で口を塞ぐ。
そこにいるのは寛いだ様子のボスだ。上着を脱ぎ、ネクタイもなく、ショルダーホルスターも外した姿。一人掛けのソファに腰掛け、ワイングラスを片手にしている。
「会議、もう終わったんですか?」
返ってきたのはふんという鼻息だけ。彼はグラスを傾け、赤ワインを喉に流し込んだ。
「休ませていただいて、ありがとうございます。毛布までかけて下さって。夕食の準備がありますので、これで失礼します」
立ち上がった私はそそくさとブランケットを畳む。少しでも早くこの場から離れたかった。
「そんなもん必要ねえ。何時だと思ってんだ」
ボスの言葉にぎくりとして手を止める。改めて時計を見て、閉じられたカーテンで覆われた窓を見やる。光がない。カーテンの影が暗く縁取っているだけだ。
まさか……私が見た時計の三時って、午前三時のこと?
「十二時間も寝てたなんて」
「正確には十二時間三十五分だ」
ショックで呟く私にボスの言葉が追い討ちをかける。
「起こしてくれればよかったのに」
今さらな悪あがきだと分かっていたけれど、そうもらしてしまう。
「俺もさっき外から帰ってきたところだ。まだいるとは思ってなかったがな。今さら起こしても何の足しにもならねえ」
確かにそうだろう。食事を作らないコックなんて役立たずだ。ゴミ箱に入れても邪魔になるような粗大ゴミも真っ青な代物だ。
「長々とお邪魔しました。部屋に戻ります」
がっくりと肩を落としながら、挨拶をする。
「また倒れるようなことをするなら、先に撃ってベッドから動けなくするぞ」
彼はグラスを置くと、テーブルに置いていた銃を手に、ちらつかせた。
「これだけ休んだんです。過労で倒れたりとかありえませんよ」
私は力ない笑いをもらす。あまりの自己嫌悪に恐怖も感じなくなっている。いっそ撃って、この思いを吹き飛ばしてくれるなら、それでもいいとさえ思ってしまう。
寝すぎで腰と腹筋が痛い。それに頭も重い。こんな感覚は久しぶりだ。
ボスに暇乞いをして廊下へと出る。
つくのは溜め息ばかりだ。十二時間あれば試作が何品作れるだろう。
それにあの人の前で無防備に眠っていた自分に腹が立つ。もちろん、早々に起こしてくれなかったボスにも。
私が起きるまで待って、その上ブランケットまでかけてくれていた。
いつものボスからは考えられないことだ。やっぱり本社の何かが引っかかっているのだろう。でなければ、外から戻ってきた時点で叩き起こされているはずだ。
そういえば、本社から戻るヘリで一緒になったとき、様子が変だった。二度目の呼び出しはとか言っていたから、おそらくあれが一度目の呼び出しだったんだろう。
本社とボスとの間のことが私にまで関わってくるなんて。
「訳分かんない」
人気のない廊下で声を上げる。考えても結論なんて出ないし。
朝、アビゲイルに尋ねることを心に決めて、私は廊下を歩く足を早めた。
次回予告: アビゲイルからセオと呼ばれる、本社のアーロン。ミシェルをマスティマのコックとして採用を決めたこの人は……。
第64話「セオ(前編)」
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