57.フェアリーテイル
マスティマのコックの仕事は緊張の連続だ。トップがトップだけに気を抜けないことばかりだ。
だから、時には息抜きも必要。そうでなければ、とても続かないだろう。
リラックスできる場所。そういう隠れた、とっておきの場所を私は見つけた。
それは夜を迎えた城の屋根の上。
よじ登るには踏み台が必要だ。食堂からパイプ椅子を持ちだしてくる。そして、床にすえて高い位置にある窓から外へ出る。普通の建物なら五、六階になろうかという高さだ。
とても綺麗とは言えない屋根の上。白衣に汚れが付かないように、気を配らなければならない。
窓から出て、内側からこぼれる光を頼りに、傾斜のある屋根の上をそろそろと進む。
マスティマの城の内部はきちんと整備されたもの。だが、外側に至ってはそれも怪しいようだ。体重をかけようとすると、しなる場所がある。
前にアビゲイルから聞いた、対衝撃仕様になっているはずの天井。それは内側からの衝撃のことなのだろう。外からを想定した対策なら、天井より屋根に特別仕様を組み込むはずだし。
この薄い明かりの中でも所々痛んでるのが分かる。踏み抜いて下の部屋の床まで落下するなんてことも十分ありえそうだ。
最適な位置を確保。ポケットから、折りたたんだ茶色の包装紙を取り出して広げる。その上に寝そべり、見上げる空には満天の星。
イギリスの天気は不安定で、晴れであることは多くない。だからこそ、貴重で大事にしたい時間なのだ。
遮るもののないこの場所。星に手が届きそうだ。宇宙の一部になった気分だ。嫌なことがあってもここでなら、全て忘れてしまえる。そんな所なのだ。
世界は広い。私なんてちっぽけな存在だ。私の悩みもまた小さいものだ。心を曇らせる必要なんてない。
そんな風に自分の世界に浸りきっていた私を突然、呼び戻すものがいた。
「そんな所で何してんだ?」
窓から覗く一つの顔。私は飛び起きた。ボスではないか。
慌てる私の足元がずるりと滑った。壊れた欠片が斜面を転がっていく。
反射的に掴んだのは下敷きにしていた包装紙。何の頼りにもならない。
私は悲鳴を上げた。甲高い、もろに女の悲鳴だ。
屋根を二メートルほど滑り落ちてやっと止まる。足を伸ばせば端に届くくらいの位置だ。
きっと落ちたものが誰かにあたったのだろう。下のほうから「痛い」と声が響いてきた。
私はそれどころではなく、変な汗をかき続けていた。ゆっくりと四つん這いでボスのいる窓へと戻る。彼は床へと降りてくる私を奇妙なものでも見る目つきで見つめていた。
「ここ、絶好の夜空展望ポイントなんですよ」
私は埃をはたきながら言う。
彼の訝しげな顔つきは変わらず、私と窓の外を交互に見ている。
「他の人には言わないでください。本当は秘密にしておきたかったんです」
「変な奴だな」
変な奴って。そんな言葉で切り捨てられる私って一体。
肩を落とす私に背を向けて、ボスは去っていった。何の用事もないのなら、ほっといてくれたらよかったのに。
おもむろに落下物の被害者を思い出す。大きな怪我になっていないといいけれど。
私は、その場へ向うべく駆け出していた。
現場にたどり着く前に、騒ぎが広がっていることを知った。
私の悲鳴は静かな夜を打ち破り、辺り一面に響き渡ったらしい。城の玄関口であるロビーには人だかり。皆口々に喋っている。
奇妙な声を聞いたとか。それも女の声。でもアビー姐さんのものじゃないらしい。だったら誰の声なんだ。ボスの愛人か。いや、さっきボスが廊下を歩いていたから愛人は来ていない筈だとか。
「何か面白れーことがあったのか?」
背を向けたソファの肘置きから二本の腕が伸びた。欠伸混じりの声。グレイだ。
彼は体を起こしながら、半分潰れた目で辺りを見渡した。
隊員たちの説明に、また欠伸を一つ。
「幻聴じゃねーのか。オレは聞いてねーぞ」
ソファの背に顎を乗せ、気だるげに言う。
それはきっとあなたが寝ていたからだと思う。皆も同意見のようで、彼の言葉は空気のごとくスルーされた。
「何の騒ぎだ、皆集まって」
とうとうジャザナイア隊長まで出てきた。
皆はさっきの話を繰り返し訴える。隊長は頭を掻きながら、話を聞いていた。
「女の悲鳴? それって幽霊とか」
隊長の言葉にしんと皆が静まり返る。
この頃になってグレイは完全に目が覚めたようだ。にやっと笑いを浮かべている。
「そうそう、よくも私を捨てたわねって。隊長を恨んでる女の生霊かもしれねー」
「よせよ、グレイ」
そう言うジャズ隊長の顔は引きつっている。どうも心当たりがありそうな感じだ。
「女が潜んでいるのかもしれん。徹底的に城の中を調べてだな……」
まっとうなことを言い出したのは、後からやってきたレイバンだ。だが、そんなことをされては困る。もし、女であることがばれるようなことになれば、ボスはきっと私を首にするだろう。
「そんなことは無意味よ」
そう言って、私の後ろから現れたのはアビゲイルだ。こちらに目配せする。悲鳴の主が私だと分かってくれているようだ。彼女の助け舟にほっとする。
「ねえ、聞いたことない? 古い城には妖精が棲むって話。バンシーって言ってね、奇声を上げて人を驚かすの」
隊長の幽霊話とあまり変わらない。だが、皆は信じようとしている。
イギリスは妖精の宝庫でもある。姿のない女の悲鳴なんてあまりに不可解だ。分からないものにはそれなりにでも答えを求めるもの。それに言っているのは科学者でもあるはずの医師、それもアビゲイルだ。
「そのバンシーというのは物も投げるのか」
真顔で頭を撫でながら、彼女に尋ねているのはレイバンだ。よく見ると彼の頭には小さなたんこぶができているではないか。
私の全身から冷や汗が噴出した。よりにもよって彼に当たるなんて。
心の中で両手を組み合わせて詫びる。それにしても大きな怪我になっていなくて良かった。
レイバンのこぶを覗き込んだアビゲイルは、手をひらひらさせて笑ってごまかしている。冷やして安静にしていたほうが良いと、医者らしいことを言って話をはぐらかす。
ああ、心臓に悪い。私は解散する人たちに混じって、ロビーを後にした。
それもこれもボスのせいだ。急に声をかけたりするから。私の怒りは彼へと向く。
バンシーの正体はボスに苛められた女ですとでも言ってやりたいくらいだ。
次回予告:ミシェルのとっておきの場所。彼女の聖域を脅かすのは、やっぱりこの人で……?
第58話「リノベーション」
お話を気に入っていただけましたら、下のランキングの文字をポチッとお願いします (ランキングの表示はPCのみです)