54.シークレットなサービス
アビゲイル一家のうちは、私の仕事場である厨房と同じニ階で、医務室のすぐ傍にあった。
家族仕様で私の部屋よりずっと広い。中庭に面したリビングとダイニングの窓は、大きくて日当たりもいい。
部屋数もあって、私にも一室あててくれた。こぢんまりとしたベッドルームで、とても落ち着く。
「オスカーのいない間はコックのマイケルじゃなくて、ミシェルとして過ごすのよ。余計なことは考える必要はないんだから。羽を伸ばして頂戴。食事も私が用意するから、手伝いも無しよ。あなたはお客様なんだから」
アビゲイルの気遣いをありがたく思う。
「あ、そうそう。御飯は少し遅めでもいい?」
その言葉にも不満はなかった。
コックの仕事をしているときも皆の分が終わってからだった。何の問題もないことだ。
「部屋から出るときには少しだけ気をつけてね。うちは出入りが多いし」
彼女の言葉に頷く。自分の部屋で休んでいたって、注意しなければいけないのは一緒だ。
私は言葉に甘えて、ミシェルとして過ごすことにした。
胸に巻くサポーターからの開放。一言で言って楽だ。声のトーンにも気を遣わなくていいし。
自分らしく過ごすって、こういうことを言うんだろうか。自然体は気持ちばかりでなく体の力も抜ける。医師であるアビゲイルが勧めたわけを知る。
周りにいるのは本当の私を知るアビゲイルとプリシラだけ。
プリシラにとっては白衣で胸もなくて声も低めなマイケルも、今の私も同じのようだ。まったく気にしている様子がない。大人と違って先入観がないせいだろうか。子供のキャパシティーには驚かされる。
彼女の作るパズルに付き合っていると、気が付いたら夕食の時間。食卓を三人で囲む。
美味しい。もちろん、アビゲイルの料理の腕もある。それ以上に誰かと食事を共にするということが私の心を満たした。
あっという間にその日は暮れていき、夜は明けて朝の八時ごろ。
身支度を済ませた私は部屋を出る。コットンのシャツにジーンズのラフな格好だ。
廊下を歩いていると、突き当たりのキッチンにアビゲイルの姿が見えた。エプロンをしている。朝食の準備中のようだ。
こちらに気付いた彼女は、一瞬顔を固まらせた。下げた片方の掌をこちらに向けて、来ては駄目だと示す。立ち止まると、知った声が聞こえてきた。
「いただき!」
この声、ジャザナイア隊長だ。
キッチンに飛び込んできた彼はフライパンの上のベーコンに手を伸ばした。摘み上げて、そのまま口へ放る。
熱かったようだ。小さく悲鳴を上げて掌に吐き出した。
「ちょっと。行儀が悪いわよ」
「ジャズおじちゃん、汚ーい」
プリシラの声。姉どころか姪っ子までに突っ込まれている。すると彼は息を吹きかけて冷ました後、再び口へ放り込んだ。
「汚くねぇぞ」
口をもぐもぐさせながら答える。アビゲイルは無言で布巾を彼に手渡した。指がベーコンの油でぎとぎとになっていたようだ。彼はぬぐった手で決まり悪そうに頭を掻いた。
「それよりマイケルは? 一緒に食うんじゃねぇのか」
「病み上がりには気詰まりよ。あなた達と一緒じゃ。別に食べてもらうわ」
アビゲイルは自然な様子で廊下に通じる扉を閉めた。シャツ姿の隊長の背中が見えなくなった。それでも私は扉を見つめたまま動けずにいた。
あなた達? さっきアビゲイルは確かにそう言ったけど。それって……。
突然、何かが割れる音がした。
私の左側。壁を隔てた向こう。ダイニングからだ。続いて床に響く重い音。思わず壁に耳を押し当てる。
「レイバン、何やってるの」
アビゲイルが呆れた調子で言っている。
「こんな所に植木があるとは……」
焦った声のレイバンだ。どうも植木鉢でもひっくり返したようだ。
「そんな大きな体で、窓から入ろうなんて無理があんだよー」
この声はグレイだ。隊長にレイバンにグレイ。次々の登場に驚く。壁を背にして落ちつかない胸を押さえる。
「グレイ、いつの間に。どこから入ったのだ?」
「オレはちゃんと扉からだぜ。普通が一番目立たねーんだよ」
ボスを除いた幹部勢ぞろい。朝から慌しいことこの上無しだ。
「ちゃっちゃと食べちゃって。今日の後片付けの当番は?」
アビゲイルが急かす。
「自分だ」
「くまちゃん、お皿洗えるの?」
プリシラの声だ。レイバンに尋ねているようだ。これは大きな出世というべきか。お化けから熊への華麗なる転身だろうか。
「自分は熊ではないぞ。レイバンだ」
「怖えぇ顔近づけんなって。心の傷になったらどうすんだ」
ジャズ隊長がプリシラをかばっているようだ。可愛い姪っ子とはいえ、あんまりな言い様だ。
「くまちゃん……」
プリシラの萎んだ声。
「そーだな、プリ。そっくりだ」
グレイが声を殺して笑っている。プリシラが何かを見せているようだ。
「何を笑っているのだ、グレイ」
「確かに頭の毛が逆立ってるところとか。いいな、レイバン。グリズリーに似てるなんて」
ジャズ隊長の声は本当に羨ましそうだ。グリズリーってアラスカとかに生息する巨大な灰色熊のことだ。
グレイが我慢できずに噴き出した。
「もう。片付かないでしょ。早く食べて頂戴」
とうとうアビゲイルの一喝が入る。
ようやく皆が席に着いて食事が始まったようだ。壁の向こうが静かになった。
「びっくりしたでしょ」
皆が去った後のこと。私の朝食を用意しながら、アビゲイルは困ったような微笑みを浮かべた。
「ちょっとだけ。皆ここで御飯食べていたんですね」
ずっと気になっていた疑問が一つ解決。しかし、こういうことだったとは。
幹部達が食事目当てで食堂に姿を現すことはなかった。グレイがコーヒーを飲みに来るのとレイバンが菓子目当てに来るのを別にして。
食事のデリバリーの注文も毎日のことではない。以前のボスのように、外に出かけているんだろうとぼんやり思っていた。
「始めはジャズだけだったんだけど、後輩だってグレイを連れてくるようになって。そのうち、グレイにくっついてレイバンまで来るようになったのよ。まあ、一人、二人増えようと手間は同じだけどね」
「大変ですね」
「大丈夫よ。オスカーがいるときは彼が作ってくれるし」
アビゲイルの旦那さん、技術情報部長のオスカー。確かにあの人ならやってくれそうだ。物腰が柔らかくて優しい感じだし。笑顔でキッチンに立っている姿が想像できる。エプロンも似合いそうだ。
それはさておき。
私はダイニングの窓に目をやった。窓辺のポトスが収まり悪く傾いたまま植わっている。鉢の周りを新聞紙で囲まれて。あれがきっとレイバンがひっくり返したものだ。
「……でも、窓から入って来るなんて」
「レイバンのこと? あれはね、ある意味仕方ないのよ。ずっと前から他には秘密だし。いくらなんでも隊員全員の面倒までは見られないから」
コック不在の時期が長かったせいだろう。幹部の食事はアビゲイルが用意していたという。確かに彼女やオスカーだけで、隊全員の食事の面倒を見るなんて無理がある。
だからといっても、レイバンの行動は腑に落ちない。
グレイの言葉を思い出す。あんな大きい人が窓から入ろうとするなんてどう考えても目立ちすぎじゃないだろうか。屋上から降りてくるにしても一階から登るしても。
外から見た、壁に貼り付いた絵を思い描いてしまう。プリシラの表現を借りるなら、蜂蜜大好き、木登り熊さんのイメージだ。
テーブルの隅に置かれた絵本を見つけて、笑いがもれてしまう。そこには「蜂蜜がない」と両手を挙げて駄々をこねている、可愛らしい灰色熊の絵が描いてあった。
「どうぞ召し上がれ」
声と同じくして、私の前に置かれた皿。
まだ湯気の立つベーコンエッグ。焼き目のついたトースト。みずみずしいサラダに絞りたてのオレンジジュース。美味しそうだ。
フォークを手にとって、はたと思いつく。
「アビゲイル、ボスは……」
「気になる?」
アビゲイルは華やかな笑顔で応えた。
「あの人は放っておいて大丈夫よ。あとたった四日間よ。なんとかするでしょ。それに、あなたのありがたみを知ってもらうには良い機会だわ」
家に迎えたのはそのためもあると彼女は付け足した。ここにいれば、ボスも無理は言わないはずだと。
アビゲイルが隊の皆から姐さんと呼ばれている所以が分かった。腕を組んだ彼女の笑みが不敵なものに見えてくる。姉御の笑みだ。
「だいたい、ご飯だって誘ってるのに断ってるのよ」
ああ、それって想像できる。多分こんな感じで言ったんだろう。
「あいつらと飯まで一緒に食えるかって、ですか?」
「そう。分かってるじゃない。それにプリシラもいるから」
落ち着かないということか。それは少しだけ分かる気がする。
「ほら、冷めないうちに」
アビゲイルの言葉ではっとする。作りたての美味さを逃す手はない。ありがたいことに今私は食べる専門なのだし。
私は急いで、だが、しっかりと美味しい朝食を味わった。
次回予告:休養を終えて明日から仕事復帰。ミシェルを憂鬱にする、ボスへの挨拶。思い立って、彼の部屋へ向ったのはいいものの……。
第55話「ボスとミシェル(前編)」
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