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運命のマスティマ  作者: 鏡 香夜
(4) Vigil もう一つの仕事
52/112

51.過労の末に

 疲れというものはある一線を越えてしまうと、自分では認識できなくなるもののようだ。

 感覚は蛇口の下に置いた鍋に似ている。いっぱいに溜まった鍋。注ぎ込む水に目をつぶれば、どれほどの量がこぼれているか分からないのだから。

 これはもうランニング・ハイならぬワーキング・ハイというべきか。手一杯なのに、新たな仕事を見つけてきてやろうとするなんて。自分イジメもいいところだ。

 アビゲイルとの話し合いの時間を取り、食事の栄養に気を配る。療養中の者ばかりか、幹部の食事を提供しようとする。

 少なくとも客観的な視点を欠いていたことは確かだ。冷静な判断ができなくなっていたのだろう。

 疲れすぎると誰もがこうなってしまうのか。それは分からないが私の場合はそうだった。

 グレイは何度か私の顔を覗きこんでいた。

「何言ってんのか分かんねー、熱でもあんのか」と問われたこともあった。

 レイバンからきたのはお菓子の苦情。シュークリームについてだった。

 なんと私が皿に並べていたのは、カスタードクリームなしのただのシュー。最初に口にしたレイバンの表情は一生忘れられないだろう。目を白黒させてシューの中を覗き込んでいた。

 他の隊員たちも、時として料理の味付けがいつもと違うと口にするようになった。

 やったはずのことが、やったつもりになっていく。記憶の欠落と混乱。恐ろしいのは、それがついにボスの料理に飛び火したことだ。

 ボスの皿から出てきたのは異様な物体。具沢山のミネストローネのスープからだ。

 無言で目の前に突き出されたスプーン。随分大き目のにんじんが乗っているな、切り方にでも文句があるんだろうと思っていた。

 だが、よく見るとそれは香辛料のプラスチックの赤い外蓋だった。どこで入ってしまったのか記憶がなかった。気付いたらなくなっていて、床にでも落ちてどこかの隙間に入り込んでしまったものと思い込んでいた。

 ボスからは大目玉を食らったのは言うまでもない。これは仕方ないことだ。

 気付かずに、喉に引っかけたりしなくて良かった。今回ばかりは、もっともな彼の怒りを私は黙って受け止めた。

 さすがに疲れているとは自分でも気付いていた。時間があれば部屋に戻って休んでいたのだが、それさえ億劫になっていた。食堂で、椅子を並べてその上で眠ったり、持参したクッションに顔をうずめて座ったまま寝たりしていた。

 隊員たちは心配してくれたが、私の都合で解決できる問題でもない。それに、失敗は時折あるが、何とかやっていけているのだ。これからもやれるはずだ。そう思っていた。

 だが、ある時。朝から酷い頭痛に悩まされていた日、その信念も崩れ去った。

 はっきりと覚えているのは、昼食の準備をしていたということだ。食べやすい大きさに切ったバゲットとホワイトソースを使った野菜たっぷりのシチュー。上々の出来上がりだ。匂いにつられたように食堂に隊員たちが訪れる。

 さあ、あとは注げばいいだけ。片手で皿を取る。

 すると皿が手から滑り落ちていった。それも真下でなく斜めに。地球の重力が変わってしまったのか、或いはなにか超自然的な力が働いたのか。

 何のことはない。私もまた倒れようとしていたに過ぎなかった。

 反射的に伸ばした手に積まれた皿が触れる。

 床で次々と砕けていく音が遠くに聞こえた。それなのに異変に気付いて駆けつけてくる人たちの声ははっきりと聞き取れた。

 視界が萎んでブラックアウトした状態だ。体が重くて指一本動かせない。

「大丈夫か、マイケル?」

「おい誰か、早くアビーねえさんを呼んできてくれ」

 皆が騒いでいる。

「触るなよ、お前ら。脳の方だったら動かすとやべーからな」

 この声はグレイだ。コーヒーを目当てに来ていたのだろう。

 大丈夫だと言いたいが、声を出すこともできない。本当に脳の病気でこんなことになってしまったのだろうか。

 やがてアビゲイルが駆けつけたようだ。

「感染症の危険性があるわ。皆部屋から出て頂戴。処置をするから」

 彼女は今までに聞いたこともない緊張感のある声で言っている。どよめきが起き、皆の足音が遠ざかっていった。

 脳の疾患ではなくて感染症? それも人を近づけさせないということは、バイオハザード級? 空気感染でもする新種の細菌やウィルスとかだろうか。

 話が大きくなってきた。周り人たちも危ういということなのだろうか。

 彼女はがさごそと調理器具の置き場所辺りを探っている。

 そして、彼女の手が私の白衣のボタンを外しだした。Tシャツを体から浮かすと、なにやら高い音がニ、三度して胸元が涼しくなった。

「ミシェル、悪いけどこれ取らせてもらうわね。血流の妨げになるから」

 胸に巻いているサポーターのことだ。

 彼女は伸縮包帯のようなそれを体から離しては、さっき聞いたのと同じような高い音を立てた。多分、これはハサミの音だ。それも調理用のハサミだろう。

 こんなものを切っていたら、切れ味が悪くなってしまう。こんなときだというのに心配をしてしまう。

 全て切り落としたようだ。

 調理台にハサミを置く音と重なって聞こえてきたのは、扉の開く音だった。

「入っては駄目だってさっきも……」

 アビゲイルは苛立った声で言った。だが、それ以上声は続かなかった。

 扉の閉まる音。低い足音が近付いてくる。

「ボ……」

 彼女は何か言いかけたが、それから先は聞こえなかった。楽になった呼吸。胸にすっと入ってきた空気を吸い込むと、体の力が一気に抜けた。そして、次第に意識もまた暗闇の中に沈んでいった。


 夢見ていたのは幼い頃。

 父と母、祖母に私と四人で囲んだ夕食後の和やかな語らい。

 ソファで眠ってしまった私をベッドまで抱いて運んでくれた父。心地よい浮遊感と揺れ。その腕の中で感じた幸福。

 私は無意識に父の胸に顔を摺り寄せる。

 嗅ぎ覚えのある良い香り。だが、それは思い出の父のものとは違っていた。

次回予告:厨房で倒れたミシェルは医務室のベッドに運ばれた。そこで、彼女は自らの胸の内を語るのだが……。

第52話「ここにいる理由(前編)」


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