48.冬のボス
隊員たちのために格闘技のコーチになってくれないか。
ある日、ジャザナイア隊長から打診された。どうも射撃場でのボスとの対決の噂が耳に入ったらしい。噂につきものの尾ひれが、隊長の判断を狂わせたようだ。
私の拳法は誰かに教えられるものではないと思う。
道場でいつも注意されていたっけ。ムラが多すぎるって。気合のムラ、スピードのムラ、攻撃力のムラ。板きれ一枚割れないときもあれば、厚い鉄板を凹ませても平気なときもあったし。あんまりムラムラ言われすぎて、ムラの意味が分からなくなったくらいだ。
自分の仕事が手いっぱいで時間が取れないというのもある。こういうものは継続的な訓練が必要になってくるから、指導者としては致命的とも言える。
そして、最大の問題は、実戦でどれほど役に立つか私自身が分からないことだ。
そんな中途半端なものを人に伝えるわけにはいかない。プロ集団でなければならない、マスティマの隊員の足元をすくうことになりかねない。
私は丁重にお断りした。理解を示してくれたジャズ隊長にほっとする。
「お前もなんか最近お疲れみたいだもんな」
去り際の隊長の言葉にぎくりとする。顔に出ているんだろうか。一応「そんなことないですよ」とごまかしてみる。彼は笑顔を浮かべただけだった。
「最近寒さが厳しくなってきたし、体壊さねぇようにな」と私の肩を叩いて、隊長は厨房から出て行った。
心遣いにじんとくる。
私よりも外に出ることの多い隊長たちのほうが大変なはずなのに。こんな言葉をかけてくれるなんて、誰かさんとは大違いだ。
厨房が仕事場の私には、暑さ寒さは問題にならない。マスティマの城には空調が完備されているからだ。温度、湿度がオートでコントロールされ、場所によって最適な環境に保たれている。
たとえ、外で雪が降ろうが、風が強かろうが、城の中にいればまったく関係はない。
……そのはずだった。
「ボス、寒いんですけど」
「俺は丁度いい」
何回目のやりとりだろう。同じ言葉の繰り返しにボスは不機嫌になりかけている。
だって寒いんだもの。我慢や根性で乗り切るなんて無理だ。
ここはボスの寝室だ。当人はふかふかのベッドの中なんだから寒さなんて関係ない。むしろ暑くなるからとヒーターの電源を切ってしまった。私がいることなんてお構い無しだ。
最初はそれほどでもなかった。部屋が冷えてくるまでは。厚着をしてくれば良かったと思うも後の祭りだ。だいたい城の中でそんな装備が必要なんて考えもしないし。
我慢していたけれど、それも限界になって訴える。その答えが最初のボスの言葉。
風邪をひいてしまいそうだ。だけど、ヒーターを入れることは許されない。こうなったらボスに早めに寝てもらって、さっさとこの部屋を出るしかない。
私は片手で腕をさすりながら、膝の上の本のページをめくった。
眠っていても寒さは感じるものだ。
手を伸ばして、足に触れる肌触りのいいブランケットを引っ張った。
眠くて目は潰れているが、引き寄せることは出来る。それで体を覆うと、うん、温かい。電気毛布っていうのだろうか。温もりが心地良い。
これでやっと温かくして眠れる。
私がより深い眠りに引き込まれる瞬間、それを狙っていたかのように声が聞こえてきた。
「おい、起きろ」
うるさいなあ。今が一番気持ちのいいときなのに。邪魔するなんていけずな人だ。
「おい」
声が大きくなって、頬をはたかれる。
私ははっと目を開けた。目の前にはボスの顔。彼は不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。
何が起こっているのか分からない。それに頬がじんじんする。
「布団を返せ」
その一言でようやく状況が見えてきた。椅子で眠っていた私がボスの布団を握りしめていたのだ。彼の元にあるのは端っこだけ。私が殆どを奪っている。
謝りながら、慌ててベッドに布団を戻す。
だが、すぐに体が冷えてくる。夜も更けてきたからだろう。寒さが増しているようだ。
眠気も酷くなってくる。冬山で遭難して凍死してしまう人ってこんな感じだろうか。
本の字が霞む。読む声は寒さと睡魔で震えながら途切れ途切れ。ボスもとうとう根負けしたようだ。
「上着を貸してやる。向こうからとって来い。明かりは付けるなよ」
電気は私の手元を照らすものだけだ。寝室の隅にあるウォーク・イン・クローゼットの中まではとても届かない。
立ち上がるとめまいさえ感じる。ふらふらと歩いていって、手探りで上着を捜した。分からないから適当でいいや。
早速袖を通すと温かい。ぜんぜん違う。長い丈の上着の裾を持ち上げながら歩く。足もすっぽり覆われるから快適だ。
私はベッドの中で目をつぶっているボスのそばまで戻った。
「最初から読め」
目を閉じたままの命令。
私は憂鬱になりながらも本を開く。そして、半分眠りながら本を朗読し始めた。ポテトとトマトが置き換わろうが、アンデスがアンデルセンになろうが、もう勘弁してもらうしかない。
運良くもボスはそれから目覚めることはなかった。
私は自分の部屋に戻る。静かに音を立てずに。
そして温かい部屋でベッドに沈むようにして眠り込む。極楽だ。
また着替えもせず、シャワーも浴びないままだが、全ては明日だ。もう起きる力なんて残っていない。
束の間の休息。
私を叩き起こしたのは、目覚ましのベルではなく、何度も鳴り続ける電話のベルだった。
這うようにして受話器を掴む。
耳に押し当てても相手の声は遥か彼方だ。まさかあの世からの電話とか。私はまだ眠っている頭で考える。
「聞いてんのか」
小さく聞こえる声に耳を澄ます。この声はボスではないか。
瞬時に覚醒した。私の部屋にボスが直接電話をかけてくるなんてただ事ではない。
声が遠いのは当たり前だ。受話器を逆さに持っていたのだ。持ち替えて耳に当てると、ボスの怒りの声が鼓膜を打った。
「俺の制服のコート、どこにやった?」
制服なんて知るわけがない。そんなもの触ってもいないし……と、考えてはっとする。私が借りた上着ってまさか。
不安的中だ。私が着ているのは王様のマントのように床に引きずったコート。ボスの背丈に合わせているのだから、合わないのは当然だ。裾のほうは汚れて白っぽくなっている。
部屋に戻ってくるときには殆ど眠りながら歩いていたから、気にしていなかった。
おまけに着たまま寝たのでしわくちゃだ。かっこいい皺加工なんて程遠い、ただの不細工な皺だ。
「すみません、ボス。汚れて皺々になってます」
「なんだと?」
ボスは激昂した。朝から本社に出向く予定があったらしい。
アビゲイルを通じて、クリーニングに出した他のコートを何とか用意しろと命令された。出発が遅れたらどうなるか分かってるんだろうなとの脅しつきだ。
破壊音と共に電話がぶっつりと切れた。おそらく床に投げつけでもしたのだろう。
私はすぐにアビゲイルに電話をかけて、指示を仰いだ。
彼女はことの次第に驚いたものの、すぐに手を打ってくれた。
ディケンズ本社経由に出されたクリーニング。契約店はロンドンだ。ロンドンにボスが着いてからすぐにコートを届けてもらうよう手配をしたのだ。
「ヒーターを切らなければ良かったのに。自分の責任でもあるって分かってくれたら良いのだけどね」
落ち込む私に彼女はそう言ってくれたが、あの人がそんなことを思うはずがない。
寒いって言うから上着を貸してやったのに、確かめもせず、汚してしわくちゃにした。チビコックの失態だ。そう彼は確信しているに違いない。
ああもう、いっとき帰ってこないで欲しい。
飛び立つヘリを見送りながら、私はボスの怒りを思って憂鬱になった。
次回予告:レイバンの元へ食事を届けることになったミシェル。そこには彼を慕う小さな守護者がいて……。
第49話「医食同源」
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