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運命のマスティマ  作者: 鏡 香夜
(4) Vigil もう一つの仕事
47/112

46.F分の一

 射撃場での一件の後、夜のボスの相手は気まずいなんてものじゃなかった。

 枕を頭の上に乗せて布団の中に隠れてしまいたかった。

 もっともそんなことできるわけがない。今晩の朗読場所は寝室。ベッドの中にいるのはボスで眠る気満々だ。今日はパジャマ姿だし。放られたナイトガウンを畳みながら、溜め息をつく。

 彼の目が私を捉える。早く始めろと言っている。

 ベッドの横に据えられた椅子にしぶしぶ腰掛ける。不満は満載だ。

 だいたいベッドからして大きすぎる。キングサイズだろうか。今まで見たこともないから分からないけれど。私なら四人いても十分な広さ。

 ……そうか。この人は一人で寝るとは限らないんだ。

 妄想へと進みそうな頭を切り替えるべく、慌てて手元の本へと目をやる。『世界の料理とその起源』のページを開く。

 丸く照らし出すのは小さなスポットライト。それ以外の電気は消された。ボスは本来真っ暗でないと寝られない人らしい。

 どっちにしたって寝ないんだから、電気を付けてくれたらいいのにと反発を込めて思う。

 私は小さい明かりがないと寝られない質だ。それに真っ暗闇は嫌いだ。

 はい、そんなに睨まなくても分かっています、ボス。

 私は本を読み始めた。長い夜の始まりだった。


 一日おきでの夜のボスの相手。

 殆ど眠れないのだから、終わった頃には精も根も尽き果てる。

 翌日のコックとしての仕事にも集中できない。自ずとミスも増えてくる。火の調節を忘れたり、計量スプーンが何杯目か確信がもてなくなったり。

 容器に入れて振った自家製ドレッシングを厨房に撒き散らしたこともあった。蓋をするのを忘れていたのだ。

 反対に蓋を外しすぎて、鍋の中にコショウを盛ったこともあった。

 すぐにフォローはできたが、致命的なミスを犯すのも時間の問題の気がする。

 両方の仕事をこなす覚悟はしていたが、体力が付いていかない。次第に溜まっていく、どんよりとした疲れ。慣れれば、ましになるかと思ったが、その見通しも甘いようだ。

 たまりかねた私はアビゲイルに相談した。事情を知っているのは彼女だけなのだから、頼りになるのはこの人しかいない。

 ありがたいことに彼女は秘密を守ってくれていた。ボスに関することを口外するほど、愚かではないというのは彼女自身の言葉だ。

「あなたの声でボスは眠れるのよね」

 二人っきりの医務室で、アビゲイルは考え込む。

 なんだか不眠症の患者の相談に来た、その家族のようだ。私は疲れが抜けず、よく回らない頭で一生懸命考えていた。

「薬を渡すとか、治療は出来ないんですか?」

 私の言葉に首を横に振る。

「私も何度も言ってるのよ。でも聞いてくれないの。薬での眠りの質が嫌なんですって。何かあった時にすぐ対応できないからって。そう言われちゃあ、こっちも無理強いは出来ないわ。それに……」

「何です?」

 言葉を止めて、じっと私を見つめる緑色の瞳に焦って問いかける。

「もっと良い方法を見つけたって思っているに違いないもの。なおさら治療なんて受けないわよ」

 彼女の言葉に、そのとおりだと思いながらも落ち込む。それって逃げようがないってことなんじゃないだろうか。

 私の肩の落としように彼女は慌てたようだった。

「オスカーにも相談してみるわ。彼は技術屋だから、私たちとは別の観点で解決方法を見つけてくれるかもしれないし」

 私はその申し出に乗った。二人で考えても良い案が出なかったのだし。他の人の知恵を借りるしかない。私が女であることと相手がボスであることは内緒で、彼の協力を願うことにした。


 技術情報部の前の廊下で、アビゲイルと口裏を合わせる。

 不眠症なのはイタリアにいる家族、祖母の設定。私の声を聞いていたときにはよく眠れていたのを思い出して、私に戻ってきて欲しいと願っているということにして。

 矛盾した不自然な部分がないことを確認してから、扉をくぐる。

 連絡を受けていたオスカーは私たちを待っていた。

 彼がまず始めたのは音声解析。何が眠りを招くのかを調べるべきだとの意見だった。

「女の子みたいな声だね」

 ヘッドフォンをしたオスカーは呟く。録音した音声を機械にかけて分析しながらの言葉に、私とアビゲイルはぎくりとする。

「きっ……緊張したので」

「そうそう。緊張すると声のトーンが上がっちゃうものよね」

 二人で視線を交わして合わせる。掌にじわっと汗が滲んでくる。

 オスカーの興味は、すでにそのことにはないようだ。

「そうだね」と笑みながらも、真剣な眼差しでグラフを刻む画面を見つめたままだ。

 分析が完了した結果、ある二つのことが分かった。

 一つ目はF分の一のゆらぎを持った特別な声であること。二つ目は、それは朗読の際のみに発生しているものであること。それがアルファー波を減少させ、睡眠を促しているのだろうと彼は推論した。

「CDを作ったらどうだろう。そうすれば君自身がいなくても大丈夫だと思うけど」

 オスカーは、機材の前の椅子を回して私たちを振り返る。

 そうか。そうすればいつでも聞けるし、ボスだってわざわざ私を招くこともないから、満足してくれるに違いない。

 さすが技術情報部の部長だ。頼りになる人だ。今日の彼はこの前見たときとは大違いだし。

 糊のきいたシャツにサスペンダー、エンジ色のネクタイ。髭はなく、くせのない金髪はきちんと整えられ、瓶底眼鏡もかけていない。

 だけど、当たりの柔らかい印象はこの前以上だ。始終浮かぶ笑みには余裕が見え、精気に溢れている。別人のようだ。

 ……って、これはこの人にもアビゲイルにも失礼かもしれないが。

「是非お願いします」

 私は喜んで彼の提案を受け入れた。

 決まってしまえば、あとは早いもの。オスカーの仕事の速さには舌を巻くほどだった。

 技術情報部の部屋に入ってから二時間かからず、CDは完成した。

「だけど不眠症か。うちのボスもそうだったよね。彼にもこれを渡してみたらどうだろう」

 にこにこと笑いながらのオスカーの言葉。冗談だったのだろうが、私にとってはそうではなかった。

「やーね」

 やっといった感じで笑い返しながらも、アビゲイルの顔も引きつっていた。

 礼もそこそこ、技術情報部を後にする。

 アビゲイルが私の背中をどんどん押してくるからだ。部屋を出てから私たちはほっと息をついた。

 すぐに彼女は再生用のCDプレイヤーを用意してくれた。

 私にとっては、これからが正念場だ。ボスに渡さなければならない。だけど、それを乗り越えれば、今日からでもあの辛い仕事にさよならできる。

 大きな期待と不安を胸に、ボスがいるはずの執務室へと足を向けた。  

次回予告:CDを手にボスの元へ向うミシェル。これで、夜の仕事から解放されることができるのか。その結末は……。

第47話「希望の行方」


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