44.射撃訓練
コックはとてもやりがいのある仕事だ。
成果がすぐに出る。食事をした人の笑顔がなによりもの報酬だ。また頑張ろうと気持ちも新たになる。
だから、一品一品に心を込めたい。誰が口にするかは関わらず。
そんな思いが変わったわけじゃない。ただ今日はあまりに疲れているのだ。
「目が死んでる」と何人に言われただろう。料理人が目利きする魚なら論外の言葉だ。食材としてはふさわしくない。もちろん、コックとしてもだ。
体調や気分は味覚にも関わる。そうすると料理の味も変わってくる。ダメダメだ。
時間を調整して、休憩を入れることにしよう。ボスと隊員たちのランチタイムが終わったら、部屋に戻って入浴と仮眠の時間を取る。そう決めた私は、スケジュールを考えて、はっと思い出す。
今日って、午後に何か予定が入っていたような。アビゲイルが前に話していたっけ。
肩の荷が重くなるが、気を落としていたって仕方ない。実行あるのみだ。
そして、私は午後の貴重な休憩時間を手に入れた。
部屋に戻る途中、廊下でアビゲイルに出会った。
彼女にまで言われてしまった。「ゾンビみたいよ」と。
「目が死んでる」とどっちがましだろう。はあ、本当に生ける屍の気分だ。
彼女は虫の知らせでも感じたのか、丁寧に今日の予定の念を押した。それから、手にしていた紙袋をくれる。ディケンズ本社経由で送られてきた郵便物だ。
イタリアの実家から。それも母からの荷物。だけど心当たりがない。
部屋に入ってから中身を確認する。紙袋の中に紙袋が入っていた。これってマトリョーシカ? さらに中から紙袋が……なんてことはなかった。
メモ紙のような小さな紙がはらりと落ちる。それを拾ってみると、見慣れたイタリア語が並んでいた。
『多分あなた宛の荷物なので転送します。母さんに見つからないよう、こっそりとね。出会いの多いあなたが羨ましいわ』
母の筆跡。らしい言葉の羅列だ。
多分なんかで送らないで欲しい。それに出会いが多いって、そりゃマスティマは言ってみれば逆ハー状態。異性ばかりだけど、一応私も男としているわけで。
……まあ、いいか。目の前にいるわけじゃないのに、突っ込むのもなんだかしんどいし。
祖母には、ディケンズ警備会社のコックとして勤めていると伝えている。もちろん本当の性別で。
母が私宛に荷物を送るなんて知ったら、面倒なことになるに違いない。あれも入れろ、これも入れろと。
自家製梅干やら味噌やら、果てにはお腹を冷やさないように腹巻とか、毛糸のパンツとか。心遣いは嬉しいが、困るものまで詰め込んでくるのだ。祖母に内緒にしてくれたのは、この手紙で唯一評価できる点だ。
さて、肝心な紙袋はというと、宛名書きはすべて漢字だ。これは多分中国語だろう。
話し言葉なら理解できるが、書いている物は分からない。だけど、送り主はぴんときた。紙袋の中身を見て確信する。
中国の師匠からだ。送られた物は男物の黒いカンフー着。サイズ特小。
最近、仕事にも慣れて時間配分もできるようになってきた。だから、ご無沙汰にしていた鍛錬もできるんじゃないかと思った。
師匠に近況報告も兼ねて、そんな電話をしたのが約一ヶ月前。マスティマの事情も知っている師匠だけに、家に送ってくれたのだろう。
気持ちは嬉しい。だけど、今やゆとりある時間は奪われた。誰かさんのせいだ。残念ながら、もう鍛錬なんて言っている場合ではないけれど。
まずはお風呂、そして仮眠。その後にお礼状を書いておこう。
私はカンフー着を袋に戻して、机の上に置くとバスルームに向った。
アビゲイルの第六感は当たっていた。お礼状なんて書く暇はなかった。
起きてみたら時間ぎりぎり。大急ぎで支度を済ませて部屋を飛び出る。
すると、目の前の廊下で彼女が待っていた。
「あと一分待って出てこなかったら、部屋に入るところよ」
そう言って、マスターキーをちらつかせている。
謝る私に彼女は微笑んだ。
「似合ってるわよ。サイズもぴったりね」
「そうですか?」
彼女の笑顔に頬を熱くしながらも、自信なく答える。
とりあえず着てしまえで出てきた。鏡なんて、とても見る暇はなかったのだ。
今、私が袖を通しているのは、いつもの白衣ではない。マスティマの制服だ。他の隊員たちと同じ黒いジャケットにズボン、黒い靴。
アビゲイルが背中を向けて歩き出す。
続く私の足が重いのは、疲れのせいでも制服のせいでもない。実際、この服はすこぶる快適だ。軽くて伸縮性があって動きやすいし。
初めて着るので、緊張しているからというわけでもない。
アビゲイルを追って階段を下る。地下へと伸びる道。向っている先が問題だった。
だいたい地下室があったこと自体も知らなかった。それだけマスティマの城は広く、私の行動範囲は狭いということなのだろう。
たどり着いた廊下の先の扉。途中で立ち止まった私をアビゲイルは振り返り、諭した。
「マスティマの隊員として必要なことよ」
彼女はそう言うが、私は納得してはいなかった。それでも戻ってきた彼女に手を引かれても、抵抗しなかった。
扉を開けた途端、耳障りな音が聞こえてきた。
幾つもの銃声。並んだブースにイヤーマフをつけた隊員たちの背中が見える。その向こうには標的。
射撃場だ。拳銃が標準装備となっているマスティマでは必要な設備だ。それは分かっている。だが、私は銃そのものはもちろん、その発砲音も好きじゃない。
ただ引き金を引く、それだけで命を奪ってしまう凶器。使い手によるのだ、例え、そうと知っていても。
女が男に勝てる唯一確実な手段だと、ブルーノさんからも技術の習得を促されたことがある。父親代わりをしてくれた人の言葉ではあるが、受け入れられなかった。
アビゲイルが振り返る。
私がまた途中で止まってしまったからだ。足が床に張り付いたように動かない。彼女の困った顔に気持ちだけが焦る。そんなところに声をかけられた。
「制服決まってんな。いよいよお前も練習か、ミック」
銀色の頭からイヤーマフを外しながら、近付いてきたのはグレイだ。
白いシャツ姿の彼の腰には、黒い革のホルスターがある。丁度、コートを着ていれば見えない位置だ。
味方を得たと思ったのだろう、アビゲイルは笑顔を見せた。
「グレイも言ってやって。マスティマの隊員である以上、コックとはいっても自己防衛の手段が必要だって」
「オレたちには敵も多いし。非常時訓練じゃねーけど、あーいうことの可能性はゼロじゃねーもんな」
二人の言葉は良く分かる。だけど、理屈なんかじゃ、どうにもならない。そんなものを持つなんて。まして撃つなんて考えられない。私が他に手段を求めたのも自然の流れなのだ。
グレイが差し出してくる拳銃を前に、拳をぎゅっと握り締める。私の体は強張るばかりだ。
そんな時、会場の空気が急変した。
次回予告:射撃なんて嫌。銃なんて持ちたくない。そんなミシェルに射撃場に現れた人物は……。
第45話「シューティング・スター」
お話を気に入っていただけましたら、下のランキングの文字をポチッとお願いします (ランキングの表示はPCのみです)