43.疲労困憊
目覚めたときから気分は最悪。
五回目のベルでやっと目が覚めた。ぎりぎりセーフだ。
ほっとしたせいか二度寝をしかかり、これではいけないと飛び起きる。予定よりも大分遅れてベッドから抜け出した。
遅番の警備の人たちへの食事、それからボスの朝食の用意をしなければ。
まずはバスルームに飛び込む。ワンピースを脱ぎ、シャワーを洗面台まで寄せて頭と顔を一気に洗う。化粧のせいで顔は二度洗い。時間がないのにと焦る。
髪のタオルドライ完了。あとは自然乾燥だ。短いから、あっという間に乾く。
体も洗いたいところだが、とても間に合いそうにない。時間が空いたときを見つけて、部屋に戻ってくるしかないだろう。
手早くサポーターを胸に巻きつけ、黒いTシャツを身に着ける。それからいつもの白衣に袖を通した。
厨房に駆けつけて、準備をしていると、アビゲイルが顔を覗かせた。
「おはよう。昨日はお疲れ様」
昨日は……って、私にとってはほんの一時間ほど前のことだ。いろいろ思うところがあるが、挨拶は人間関係の基本だ。返しておこう。まだ声は本調子でない。
食堂との仕切りのカウンターに手を付き、彼女は微笑んでいた。
「うまくいったみたいね。ボスからのお咎めはなしよ。さっき会ってきたの。今日の日程の打ち合わせと見せかけて様子見にね」
様子見って、もしボスが怒っていたらどうするつもりだったんだろう。でも彼女のことだ。きっと何か対策があったに違いないけれど。
厨房に入ってくるアビゲイルをよそに、私は朝食用に刻んでいるキャベツに目を戻した。彼女が傍に来たことをちらりと確認して、深呼吸してから尋ねる。
「ボスは何か言ってました?」
「あなたが女だったってこと? いいえ。でもご機嫌だったみたいよ。私が挨拶したら、おうって言葉を返してきたわ」
何も言わないのと「おう」の一言。それで機嫌が良いかどうかの目安になるところがあの人らしい。
アビゲイルは私に顔を寄せた。
「ボスに可愛がってもらったんでしょ。良かったじゃない。これでコックの座は安泰ね」
こっそりと言う。
私は手にしている包丁を落としそうになった。
アビゲイルは明らかに誤解している。昨日の晩の私とあの人のことを。
「ボスとはそんな関係じゃありません」
大きくなりそうな声を抑えて、包丁を握り締めて震えを殺す。続けてキャベツを切る。アビゲイルの声は不思議そうだった。
「あら、ならどんな関係? 朝まで一緒だったんでしょ。レイバンが話してたわよ。廊下でボスの新しい愛人とすれ違ったって」
「本を読んでただけです。僕の声を聞いていると眠れるみたいで」
私は顔を上げることもせずに、切り続ける。刻んだ山がだんだん大きくなっていく。
「そうなの? でも、いいんじゃない。愛人より続きやすい関係かもよ」
続きやすいってどういう意味だろう。手を止めて、アビゲイルを見やった。彼女は私の気持ちに気付いたようで、両掌を見せて肩をすくめた。
「あなたには月の半分来てもらうって言ってたもの」
月の半分? あんなことを二日に一回も? 無理だ。絶対無理だ。血の気の引いた私の顔色に、アビゲイルは申し訳なさそうに言う。
「決定権はボスにあるから。直接言って頂戴。私としては、あの人の機嫌が良くなって、人件費もかからなくなるんだから、これ以上良いことはないんだけど」
おそらく愛人三人のうち一人か二人を首にするつもりなんだろう。彼女は微笑んでいる。
それは経理の担当だから、気持ちは分からなくもない。だけど、自分の身に降りかかってくるとなると話は別だ。
私は青ざめたまま、まな板に目を戻した。そして、一心不乱にキャベツを刻み始める。
これはもうボスに直接陳情するしかない。
頑張ってと言葉を残して、アビゲイルは去っていった。
結局勢いに任せて五玉もキャベツを刻んでしまった。残ったのはキャベツの千切りの大山。
これは朝昼晩とキャベツ尽くし決定だ。皆に頑張って食べてもらおう。
おかしくもないのに笑い出している自分に気付く。
変なテンションだ。睡眠不足と疲労のダブルパンチを受けて。こうなってしまったら、とことん笑ってしまえ。
朝の厨房に響いたのは奇妙に高揚した不気味な笑い声だった。
「菜っ葉ばっかだな」
朝食の席でボスは言い出す。
スープにもサラダにももちろん、オムレツにも刻みキャベツたっぷりだ。だが、味はボスの舌に合わせてある。今朝の厨房でのやりとりを知らない彼は、それ以上何も言わなかった。
食事を終えて、席を立つ彼に思い切って声をかける。
「あのボス、お話があるんですけど」
お馴染みの迫力のある視線が飛んできた。それでも言葉を続ける。一度止めてしまったら負けの気がする。
「昨日の晩のことなんですけど……」
「一日おきに来い。次は明日だ。時間は昨日と同じでいい」
私の言葉など、はなから聞いていない。ハンガースタンドにかけていた制服のコートを取り、袖を通すと出て行こうとする。
「そんなの無理です。それに私はコックで、そんなことのためにいるわけじゃ……」
ボスは足を止めた。振り返った彼の目が言っている。何か文句があるかと。
ここでくじけてなるものかと、私は目をそらさないよう頑張った。彼は私の前に戻ってくると、襟首を掴んだ。
「できなきゃ首だ。マスティマの隊員が私なんか使うんじゃねえ」
乱暴な言いようだ。だが、弱みを握られている。返す言葉が見つからず、悔しさに唇を噛んだ。
「お前はあくまで表向きは俺の愛人だ。女らしい格好をして来い。他の奴にばれないようにな。口外は無用だ」
まるで筋が通っていない。夜は女の格好で、コックとしては男でいろなんて。
それにもうアビゲイルに話してしまった。今さら口外無用と言われても無理だ。
黙っている私に話はついたと思ったのだろう。彼は手を離すと、踵を返して食堂から出て行った。
私はテーブルにがっくりと片手を付く。
頭がうまく働かない。疲れと寝不足のせいでもあるが、それ以上に私は混乱していた。
どうしていいのか分からない。はっきりしているのは、ボスの言うとおりにしなければ、ここには居られなくなるということだけだ。
マスティマのコックの仕事を奪われるなんて、考えられない。最初は命を救ってくれた恩返しのつもりで来たけれど、今はそれだけじゃない。最初に見た食堂の惨状が頭を掠める。皆があんな食事に逆戻りなんて、あってはならないことだ。
条件を呑むしかないのだろう。理不尽な理由で人の言いなりになるのは本当に悔しい。
あの人がボスだから。ここのトップだから仕方のないことなのだ。私は自分をそう説得する。それにあの人は幼い私を救ってくれた恩人なのだと。
大きく息を吐き、心を決めた。できるだけのことはやろう。泣き言や文句はそれから言っても遅くはない。
辞めることなら、いつだってできるのだし。その時は、あの人の目の前で大声で宣言してやろう。
そう心を決めると、もやもやしていたものは次第に収まっていった。
そして、自分の置かれた状況もまた少し違って見える気がした。
次回予告:マスティマ隊員として必要な技術、射撃の訓練。前日の騒動で疲労のミシェルもかりだされて……。
第44話「射撃訓練」
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