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運命のマスティマ  作者: 鏡 香夜
(4) Vigil もう一つの仕事
44/112

43.疲労困憊

 目覚めたときから気分は最悪。

 五回目のベルでやっと目が覚めた。ぎりぎりセーフだ。

 ほっとしたせいか二度寝をしかかり、これではいけないと飛び起きる。予定よりも大分遅れてベッドから抜け出した。

 遅番の警備の人たちへの食事、それからボスの朝食の用意をしなければ。

 まずはバスルームに飛び込む。ワンピースを脱ぎ、シャワーを洗面台まで寄せて頭と顔を一気に洗う。化粧のせいで顔は二度洗い。時間がないのにと焦る。

 髪のタオルドライ完了。あとは自然乾燥だ。短いから、あっという間に乾く。

 体も洗いたいところだが、とても間に合いそうにない。時間が空いたときを見つけて、部屋に戻ってくるしかないだろう。

 手早くサポーターを胸に巻きつけ、黒いTシャツを身に着ける。それからいつもの白衣に袖を通した。

 厨房に駆けつけて、準備をしていると、アビゲイルが顔を覗かせた。

「おはよう。昨日はお疲れ様」

 昨日は……って、私にとってはほんの一時間ほど前のことだ。いろいろ思うところがあるが、挨拶は人間関係の基本だ。返しておこう。まだ声は本調子でない。

 食堂との仕切りのカウンターに手を付き、彼女は微笑んでいた。

「うまくいったみたいね。ボスからのお咎めはなしよ。さっき会ってきたの。今日の日程の打ち合わせと見せかけて様子見にね」

 様子見って、もしボスが怒っていたらどうするつもりだったんだろう。でも彼女のことだ。きっと何か対策があったに違いないけれど。

 厨房に入ってくるアビゲイルをよそに、私は朝食用に刻んでいるキャベツに目を戻した。彼女が傍に来たことをちらりと確認して、深呼吸してから尋ねる。

「ボスは何か言ってました?」

「あなたが女だったってこと? いいえ。でもご機嫌だったみたいよ。私が挨拶したら、おうって言葉を返してきたわ」

 何も言わないのと「おう」の一言。それで機嫌が良いかどうかの目安になるところがあの人らしい。

 アビゲイルは私に顔を寄せた。

「ボスに可愛がってもらったんでしょ。良かったじゃない。これでコックの座は安泰ね」

 こっそりと言う。

 私は手にしている包丁を落としそうになった。

 アビゲイルは明らかに誤解している。昨日の晩の私とあの人のことを。

「ボスとはそんな関係じゃありません」

 大きくなりそうな声を抑えて、包丁を握り締めて震えを殺す。続けてキャベツを切る。アビゲイルの声は不思議そうだった。

「あら、ならどんな関係? 朝まで一緒だったんでしょ。レイバンが話してたわよ。廊下でボスの新しい愛人とすれ違ったって」

「本を読んでただけです。僕の声を聞いていると眠れるみたいで」

 私は顔を上げることもせずに、切り続ける。刻んだ山がだんだん大きくなっていく。

「そうなの? でも、いいんじゃない。愛人より続きやすい関係かもよ」

 続きやすいってどういう意味だろう。手を止めて、アビゲイルを見やった。彼女は私の気持ちに気付いたようで、両掌を見せて肩をすくめた。

「あなたには月の半分来てもらうって言ってたもの」

 月の半分? あんなことを二日に一回も? 無理だ。絶対無理だ。血の気の引いた私の顔色に、アビゲイルは申し訳なさそうに言う。

「決定権はボスにあるから。直接言って頂戴。私としては、あの人の機嫌が良くなって、人件費もかからなくなるんだから、これ以上良いことはないんだけど」

 おそらく愛人三人のうち一人か二人を首にするつもりなんだろう。彼女は微笑んでいる。

 それは経理の担当だから、気持ちは分からなくもない。だけど、自分の身に降りかかってくるとなると話は別だ。

 私は青ざめたまま、まな板に目を戻した。そして、一心不乱にキャベツを刻み始める。

 これはもうボスに直接陳情するしかない。

 頑張ってと言葉を残して、アビゲイルは去っていった。

 結局勢いに任せて五玉もキャベツを刻んでしまった。残ったのはキャベツの千切りの大山。

 これは朝昼晩とキャベツ尽くし決定だ。皆に頑張って食べてもらおう。

 おかしくもないのに笑い出している自分に気付く。

 変なテンションだ。睡眠不足と疲労のダブルパンチを受けて。こうなってしまったら、とことん笑ってしまえ。

 朝の厨房に響いたのは奇妙に高揚した不気味な笑い声だった。


「菜っ葉ばっかだな」

 朝食の席でボスは言い出す。

 スープにもサラダにももちろん、オムレツにも刻みキャベツたっぷりだ。だが、味はボスの舌に合わせてある。今朝の厨房でのやりとりを知らない彼は、それ以上何も言わなかった。

 食事を終えて、席を立つ彼に思い切って声をかける。

「あのボス、お話があるんですけど」

 お馴染みの迫力のある視線が飛んできた。それでも言葉を続ける。一度止めてしまったら負けの気がする。

「昨日の晩のことなんですけど……」

「一日おきに来い。次は明日だ。時間は昨日と同じでいい」

 私の言葉など、はなから聞いていない。ハンガースタンドにかけていた制服のコートを取り、袖を通すと出て行こうとする。

「そんなの無理です。それに私はコックで、そんなことのためにいるわけじゃ……」

 ボスは足を止めた。振り返った彼の目が言っている。何か文句があるかと。

 ここでくじけてなるものかと、私は目をそらさないよう頑張った。彼は私の前に戻ってくると、襟首を掴んだ。

「できなきゃ首だ。マスティマの隊員が私なんか使うんじゃねえ」

 乱暴な言いようだ。だが、弱みを握られている。返す言葉が見つからず、悔しさに唇を噛んだ。

「お前はあくまで表向きは俺の愛人だ。女らしい格好をして来い。他の奴にばれないようにな。口外は無用だ」

 まるで筋が通っていない。夜は女の格好で、コックとしては男でいろなんて。

 それにもうアビゲイルに話してしまった。今さら口外無用と言われても無理だ。

 黙っている私に話はついたと思ったのだろう。彼は手を離すと、踵を返して食堂から出て行った。

 私はテーブルにがっくりと片手を付く。

 頭がうまく働かない。疲れと寝不足のせいでもあるが、それ以上に私は混乱していた。

 どうしていいのか分からない。はっきりしているのは、ボスの言うとおりにしなければ、ここには居られなくなるということだけだ。

 マスティマのコックの仕事を奪われるなんて、考えられない。最初は命を救ってくれた恩返しのつもりで来たけれど、今はそれだけじゃない。最初に見た食堂の惨状が頭を掠める。皆があんな食事に逆戻りなんて、あってはならないことだ。

 条件を呑むしかないのだろう。理不尽な理由で人の言いなりになるのは本当に悔しい。

 あの人がボスだから。ここのトップだから仕方のないことなのだ。私は自分をそう説得する。それにあの人は幼い私を救ってくれた恩人なのだと。

 大きく息を吐き、心を決めた。できるだけのことはやろう。泣き言や文句はそれから言っても遅くはない。

 辞めることなら、いつだってできるのだし。その時は、あの人の目の前で大声で宣言してやろう。

 そう心を決めると、もやもやしていたものは次第に収まっていった。

 そして、自分の置かれた状況もまた少し違って見える気がした。 

次回予告:マスティマ隊員として必要な技術、射撃の訓練。前日の騒動で疲労のミシェルもかりだされて……。

第44話「射撃訓練」


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