35.ボスの秘密
マスティマには、女はアビゲイルしかいないことになっている。
私も女だが、働いているのは男としてだ。控えめな胸を伸縮性のあるサポーターでぐるぐる巻きにして。それから、髪は常に短く刈り、声も低めに落とす。
変えられるのなら背丈も欲しいところだ。なんといってもマスティマで一番背が低いのだから。体格のいい隊員たちの中に混じると、余計にそれを感じる。
女であることを理由にもできない。アビゲイルと比べたって差がある。日本人である祖母の血を濃く引いてしまったのだろう。イタリア人女性の平均を下回る、百五十八センチが私の身長。成長期を過ぎた今、これ以上伸びる可能性はゼロに均しい。
この話をすると、気分が重くなるので話を戻そう。
マスティマに入る時の第一条件、それが男であることだった。女が男の真似をするのだ。少々の犠牲や努力もやむをえない。そう思っていた。
だから、初めてアビゲイルとは別の女の人を見かけたとき、とても驚いた。
それも夜遅く。城の廊下で。
一日の仕事を終えて、部屋に戻るときだった。ジャザナイア隊長のお酒とつまみを用意してから上がったから、午後十時は過ぎていた頃だ。
ミニスカートに網タイツ、上着も胸が大きく開いたもの。私と同じくらいの年頃の人だった。
ハイヒールを鳴らしながら廊下を歩いている。赤く塗られた唇やふくよかな胸にかかる長い砂色の髪が艶めかしさを強調している。
合いそうになった視線を慌てて外す。不自然極まりないだろうが、うまく誤魔化す余裕さえなかった。
くすりと笑い声が聞こえる。私は廊下の隅に寄り、頭を下げて彼女をやり過ごした。
顔が熱い。それにひどく胸がドキドキしていた。なにか見てはならないものを見てしまったような気がした。
翌日、アビゲイルに尋ねたとき、その感覚は間違っていないことを知った。
「それはボスの愛人の一人よ」
こともなげに言う。
彼女の仕事場である医務室で、私たちは向かい合って座っていた。もっとも医者と患者としてではない。彼女の娘、プリシラのために作ったお菓子を届けようと持ってきただけだ。
「恋人じゃなくて? それもその一人って……」
私は言葉に詰まる。
「恋愛関係にはないから。シェリー、アーリヤ、ミリアム、三人いるわ。あなたが見たのはアーリヤね」
指を折る彼女に目を見張る。愛人という言葉も信じられないのに三人もいるなんて。何でそんなに必要なんだろう。それが普通なんだろうか。
そういう話に疎い方だと自覚はあるが、三人なんて人数、とても常識的だとは思えない。
それに恋愛関係にない愛人って一体……。
言葉の意味を悟るのに数秒は要したはずだ。
私はきっと瀕死の金魚みたいな顔をしていたのだと思う。アビゲイルは笑みを漏らした。
「考えられないわよね、普通。あの人は好みがうるさいし、集めてくるのも大変なのよ。頭の悪い女は嫌いだとか、喋りすぎる女も嫌だとか文句が多いんだから。だいたい皆長く続かないし。だから、いざという時のための三人なんだけど」
私の思考の域を完全に脱している。ボスを見る目が変ってしまいそうだ。しかも、集めてくるって、どういうことなんだろう。
「もしかして、アビゲイルが捜してくるんですか?」
まさかと思いながら尋ねる。すると彼女は肩をすくめた。
「相手をするのはマスティマのボスよ。変なのが紛れていたら困るじゃない。暗殺者とかスパイだとか。だから、私が身元まで洗ってお願いするのよ。もう大変なんだから」
同性に頼まれる愛人の気持ちってどんなだろう。私には想像もつかない。
「誰がどれくらい深い関係かなんて分からないんだけどね。どうも彼女達に諜報活動をさせてることもあるようだし。チャーリーズ・エンジェルみたいよね」
アビゲイルの言葉に頭をひねって思い出す。
それって見たことがある。ありえない美女三人がスパイ活動みたいなことをやって大活躍する映画だ。
ディヴィッズ・エンジェルか。語呂がちょっと悪い気がするけど。
「まあ、あなたには関係ないことね。すれ違ったら挨拶でもしとけば良いんじゃない?」
アビゲイルはさらっとそう言うが、次に会ったとき出来るだろうか。不安になってくる。
だって、愛人ってことは、深くも浅くもボスとはそういう関係なんだろうし。ああ、もう想像どころか妄想の領域だ。
気が付くと、アビゲイルが私の顔を覗きこんで、微笑んでいた。
「あなたも若いものね。彼女でも作ったら? 何なら私が紹介してあげるわよ」
「結構ですっ。失礼します」
慌てて立ち上がったせいで、丸椅子がくるくると回った。
乱れた足音を残して部屋を後にする私を、驚いたように見つめているアビゲイルがいた。
歩き方までぎこちない。自分でも分かる。右手と右足が一緒に出てるんじゃないだろうか。目を落として確認してみるが、さすがにそれはなかった。
廊下に出てほっとする。力が抜けると共に不自然さも消えていった。
彼女を紹介って私、女だし。
ああもう、ボスの愛人なんて見つけるんじゃなかった。
頭に当てた手で髪をかき乱した。
分からないし、考えたくもない。あの人のことで頭を悩ませるなんてごめんだ。私は想像したボスに八つ当たりしながら、廊下を足早に歩いて行った。
次回予告:なんだかいつもと違う今日のマスティマの昼食時風景。その原因はボス? グレイが言う、聖なる日の意味とは……。
第36話「聖なる日」
お話を気に入っていただけましたら、下のランキングの文字をポチッとお願いします