32.髪は男の命です
その日の午後、私は厨房で焼き上がって間もないマドレーヌを皿に並べていた。
いい感じの仕上がりだ。粗熱が取れたばかりで甘い香りをまとっている。
それをワゴンに乗せる。コーヒーカップやソーサー、スプーンもだ。
特に甘党のレイバンがたくさん使うミルクは大型のピッチャー入り。砂糖のポットも大きい物を用意した。それから保温機能付きコーヒーサーバー。
準備は万端。
今日は本社から来ている情報管理部の人との合同の会議。ボスを始めとして幹部皆が出席している。
本来ならボスは出席しないものだが、今回は特別らしい。統括長とかいう肩書きの人が一緒だからだそうだ。
腕時計を見やる。間もなく十五時。予定ではそろそろ休憩の時間になる。
ワゴンを押して会議室へと向う。
通い慣れたルートだ。目をつぶってだってたどり着ける。
すでに扉は目と鼻の先。あと十歩足らずの所まで来ていた。
突然、凄まじい悲鳴が聞こえてくる。この方向、間違いなく会議室からだ。
足を早めようとしたところへ扉が内側からばたんと開いた。
「しっ、失礼しましたー」
そう言いながら、男二人が飛び出してきた。
禿げかかった頭の太目で年配の人と痩せ型の若い人。スーツを着ているから本社の人たちだ。無造作に資料を抱えて、慌てふためいた様子だ。
「あの、今コーヒーが……」
呼びかけに、びくりと振り返った彼らは私に目をとめて、若干気を緩めたようだった。
だが、それも一瞬のことだった。
続く扉の開く音に、後ろを振り返ることもせず、二人は駆け出した。
「ご馳走様でしたー」
紙の資料を撒き散らしながら走り去っていく。ご馳走様ってまだ何も出していないのに。
続いて会議室から出てきた存在を知って、彼らの慌てようの意味を知った。
今度は私が焦る番だ。
「本社の犬が」
低い声で罵りながら、小さくなっていく二人の背中を睨みつけるのはボスだ。
彼は私を一瞥しただけで、存在しないものと決め込んだようだ。
横を通り過ぎていくボスを見ないようにする。怒りの炎がオーラのように燃え上がっているのを感じる。こんなときは関わらないほうがいい。
マスティマのコックとなって獲得した、もっとも役立つ知恵だ。
足音に耳を澄ませながら、角を曲がったことを確認する。
それから、会議室の扉を開いた。
テーブルにうずたかく積まれた資料の山。だが、席には誰もいなかった。
用意したコーヒーと菓子が無駄になってしまったのではと思う前、続きの小部屋の扉が開いていることに気付いた。
そっと中を覗く。傍にレイバンの大きな背中があった。邪魔になって部屋の中を見渡せない。だが、アビゲイルの声を聞き取ることができた。
「しっかりしなさい。気を確かにして」
ボスの被害者がいるようだ。
さっきの本社の人たちはボスの怒りを目の当たりにして、逃げ出したのだろう。
「どうしたんですか」
足音を忍ばせて中に入ると、レイバンに尋ねる。
彼の視線の先、床にいる人物を見つけて私は思わず声を上げた。
「ジャズ隊長!」
まるで尺取虫のようだ。
頬を床につけ、腰を宙に浮かして、膝を付くという器用というか無理な姿勢。
ジャザナイア隊長はアビゲイルの声に反応していない。唇は半開き、目は虚ろ。魂はどこかに行ってしまった、抜け殻のようだ。
「哀れだ」
レイバンが神妙な顔つきで呟いた。
床が赤色に染まっている。傷を負っているのかとぎくりとするが、そうでないことはすぐに分かった。
「大丈夫だって、隊長。髪なんかすぐに伸びるって」
腰を落とし、力づけているのはグレイだ。
そう、散らばっているのは赤い髪の毛だった。隊長の髪が無残に刈られていた。肩甲骨ほどまであった巻き髪は、今や首の辺りの長さだ。
レイバンの言葉どおり、哀れを誘うばらばらの髪。こんなことを誰がやるって答えは決まっている。
「オレが格好よく揃えてやっから」
グレイが鋏を手に取った。
さっきまで床に転がっていたものだ。髪を刈るためのものではない。あれは文具の鋏だ。
ボスが使ったものだろう。会議室に常備している文房具の一つだ。
ようやく隊長は起き上がった。肩を震わせながら、皆の視線を振り切って会議室のほうへ歩いていく。
私の横を通り過ぎる顔は、俯いたままで青白い。
彼は戸口の前に立つと背を向けたまま立ち止まった。涙をこらえるかのように顔を上に向ける。
「隊則第二章第一項。心に刻めよ、お前たち」
言葉だけではない。猛烈に背中で語っている。
そうして隊長は去っていった。
次回予告:全ての始まりはアンチマスティマの姑息な陰謀? アビゲイル、グレイ、レイバンが語る、ジャザナイア隊長がボスに髪を切られたわけとは……。
第33話:「アンチマスティマ」
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