31.迫り来る敵(後編)
「技術部、照明!」
男の低く鋭い声が響く。そして、同時に何かが潰れたような音も。
辺りの照明が一気に回復した。
私は眩しさに目をしばたきながらも、グレイの姿を捜す。
彼は床に倒れこんでいた。体をくの字に曲げて呻き声を上げている。押さえているのは右胸。にじみ出てくるのは血だ。だけど、なんだか様子がおかしい。掌を汚している色って……。
「なんだ、これは!」
後ろから聞こえる男の怒声。でも、なんだかこの声は聞き覚えがある。恐る恐る振り返ってみると、やっぱりだ。
そこにいたのはボスだった。
いつもの黒いロングコートのボタンを全てとめて、小型無線機と思われるものを耳につけている。
私は混乱する。何が起こっているか分からない。ボスがグレイを撃った。何がどうなっているんだろう。
しかも、ボスの黒い髪にはどろっとした物がかかっている。彼はそれを掴んで見る。革手袋の指の間から垂れ落ちていくのを目にして、その手がわなわなと震えだした。
私は心の中で声にならない悲鳴を上げる。
見なくても分かっている。それは消費期限切れの卵だ。廃棄処分する予定のものだった。
ボスがこちらを睨みつける。突き刺すような視線が痛い。私はなんとか彼の目から逃れようと、再びグレイに目を向ける。
「くっそー、また負けた」
グレイは後ろ手を付いて、半身を起こした。
「一発ハンデもあるっていうのに」
悔しそう床を掌で叩いている。
その肩には赤い色、胸には黄色が付いていた。ペイント弾だ。食堂の壁に付いている赤い色、放ちながらも標的に当たらなかったものと同じものだ。
「それにしてもボスの弾は痛ーんだよ」
そう言いながら、食堂を振り返ったグレイは言葉を無くした。
怒りをくすぶらせているボスと目が合ってしまったのだろう。彼は小さく呻いて、腰を床につけたまま、後退りした。
「おいお前、さっさと出て来い。何のつもりか言え」
ボスの声は殺気立っている。
ここでじっとしていても仕方ない。時間が経てば経つほど彼の怒りは増していくだけだろう。私はゆっくりと立ち上がり、食堂へと出た。
と、廊下が騒がしい。
「どっちが勝ったんだ?」
「それはボスに決まっている」
食堂の入り口に現れたのは、ジャザナイア隊長とレイバンだった。
彼らもまたペイント弾をその身に受けていた。
ノーネクタイでシャツ姿のジャザナイア隊長。その胸に付いた黄色、腹の赤色が鮮やかだ。レイバンの広い額は、二色混じったオレンジ色に染まっている。
彼らは、生卵弾の洗礼を受けたボスを見て一瞬声を失った。
「ボス、それはどうされたんです。何があったんですか」
最初に金縛りを解いて近付いたのはレイバンだった。ボスは彼を一睨みするなり、横蹴りを食らわせた。
「うるせえ」
とんだとばっちりだ。膝を付いたレイバンは、腹を押さえて呻いている。
ジャズ隊長はというと、ボスの頭を指差してこぼれ出る笑いをこらえていた。ボスの殺気に満ちた視線が向く。
「るせえぞ」
隊長は口を押さえて、分かった分かったと、もう片方の手を押し出している。
「申し訳ありません」
私はボスの前に踏み出した。
これ以上、他にボスの犠牲者を出すわけには行かない。私が投げた卵のせいなのだから。
「ボスが敵に扮しているなんて知らなくて。こんなゲームみたいなのがあってるなんて」
「ゲームじゃねえ。非常時訓練だ」
前に立っているだけでも怖い。凄く腹を立てている。
それはそうだろう。私は何度もこういう目に合っているけれど、ボスはおそらく初めてだろう。しかも部下にこんなことされるなんて、夢にも思わなかったはずだ。
私は怒りを受け止めるつもりで、首を垂れた。
「まあまあ。非常時の訓練なんだから、ある意味なんでもアリだろ。銃を持っている相手に、こんなもので応戦するなんて大した勇気じゃねぇか」
「お前は黙ってろ」
ジャザナイア隊長の言葉にも、もちろん聞く耳を持っていない。
ボスは傍までやって来た。ちょっと手を伸ばせば、簡単に捕まってしまう位置だ。怒りを帯びた声が上から降ってくる。
「おい、落とし前はどう付ける気だ?」
「僕は……」
私はうなだれたままだった。
「オレはボスも悪りーと思うけどなー」
突然、思わぬところから助け舟が来た。グレイだ。
彼はいつものコートのポケットに両手を突っ込んだ姿で、ボスの傍に近寄った。
「なんだと?」
凄んだボスにも動じない。
「この非常時訓練のこと、発表したのは彼の辞令交付の日だったよね。部屋に入ってくるくらいに隊長が言っていて、ボスが後から伝えるって言ってたのを覚えてるよ。あれ、ちゃんとこの子に話してんの?」
ボスは沈黙した。
話していないのが故意なのかそうでないのかは分からない。だが、ここで突っ込まれるとは思っていなかったようだ。
「だから、部下の失敗は上の責任で……」
ジャズ隊長がいつか聞いたフレーズを繰り返す。
ボスの睨みは彼に移った。私は細い溜め息をつく。
「ボスは何も悪くない」
その時ぼそりと呟いたのは、床にうずくまるレイバンだった。
「ボスこそ全てなのだ。ボスは偉大なのだ。誰もボスに逆らうなど許されんのだ!」
「うるせえんだよ」
腹を押さえながら膝立ちになり、叫ぶレイバンを後ろからボスの足が押し倒す。肩の辺りを直撃している。足の長いボスだからこそなせる業だ。
レイバンは床に前のめりに崩れた。二度もとばっちりを食らうなんて、つくづく不運な人だ。
ボスは踵を返して、廊下へと向かった。
「ボス」
私は追いすがる。こんな禍根のようなものを残して、終わりにしたくなどなかった。
ボスは腕で払いのけた。もろに食らった私はバランスを崩し、背後にあった丸椅子を道連れに倒れこんだ。
「次の訓練の時には覚悟しておけ」
頭まで打ってしまったのか、くらくらしているところへボスの捨て台詞。
私はもう止めることなどできず、頭を押さえたまま、座り込んでいた。
「大丈夫か?」
グレイが覗き込んでくる。
私は頭を抱えながらも、大丈夫だと答えようとするが、できなかった。
乱れた息に涙が滲んで視界がぼやけた。その上、ぶつけた腰が痛い。手でさすっている間に、なんとか過呼吸もおさまってきた。
「次の訓練は半年後だ。それまでにあいつの機嫌が直るか、忘れるかどちらか祈るしかねぇな」
ジャズ隊長の言葉に、妙な汗が噴き出す。半年後って、もしかして年二回もあるってことなんだろうか。
「ボスは忘れはせん。自分も忘れんぞ」
レイバンが呻きながらそう言った。腹に手をやったまま、やっとという感じで立ち上がる。それから廊下を目指して足取りも怪しく歩いていった。
「あー、やっとうぜーのがいなくなったぜ」
それはちょっと、グレイは言い過ぎなのではと思う。
レイバンのあのボスへの忠誠心には驚くと共に少し羨ましく思う。あれだけ心に決めた人がいてそれを貫けるなんて。彼の律儀さには頭が下がる。
「立てるか。アビーに来てもらうか?」
ジャザナイア隊長の言葉に、私は立ち上がりながら大丈夫だと答えた。ここで彼女を呼んだら、また心配させてしまうに違いない。
散々な一日の終わりだった。
皆が帰っていった食堂で、色の付いた壁の掃除をしながら、打ち身で痛む腰をさする。
今さらながら半年後が怖い。
だけど、きっとここはジャズ隊長のように、「そん時が来れば何とかなるさ」で行くしかない。あの人の楽天的なところは学ぶべきところも多いのかもしれない。
とりあえず明日のことをだけを考えて、私は片づけを続けた。
次回予告:本社との合同会議のため、休憩用のコーヒーを用意するミシェル。会議室から聞こえてきた悲鳴。何事かと驚く彼女が目にした、倒れた人物とは……。
第32話:「髪は男の命です」
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