30.迫り来る敵(前編)
その夜、私は厨房で晩御飯の片付けをしていた。
流しに置いた食器を洗う。その中にはボスのものも含まれていた。今夜は幸いにも欠けた皿はなく、私自身も無事に帰って来られた。
洗剤で汚れを落とした後、水洗いする。水切りのトレイにおいていき、あとは拭いて食器棚に戻すと終わりだ。
今夜はジャザナイア隊長からの酒のつまみの催促もない。あとでボスのワインを用意するだけの予定だ。いつもよりは少し早く上がれそうだ。
布巾を手にして皿を取ったときだった。
一瞬のうちに照明が消え、辺りが暗闇に包まれた。停電らしい。
私は皿を置いて手探りで、食堂へ出て廊下を覗いた。だが、何処まで見ても暗かった。窓から月明かりが入ってくるだけだ。
しばらくすると、非常用の電源に切り替わったようで、足元を照らす淡い照明だけが点った。ほっとする間もなく、遠くから人の悲鳴が聞こえ、発砲音がした。
ボスがまた誰かに怒りをぶつけているのだろうか。
聞き耳を立てていると、廊下を走り回る足音と、叫んでいる声、さらに重なった銃声が聞こえてくる。
誰かが、それも何人もが銃を撃ち合っている。
私は廊下へと踏み出し、何が起こっているのか見極めようと、歩いていこうとした。
すると、誰か人影がこちらへよろめきながら走ってくるのが見えた。その人は後ろから銃弾を受けたようで、音と共に床に倒れ伏した。制服の黒い背中は、艶のある液体で濡れている。ぼんやりとした光でよくは見えなかったが、あれは血だ。
「ちょっと……」
大丈夫ですか、そう言って男の元へ駆け寄ろうとする。手を動かしているから、まだ意識はあるはずだ。
だが、走りだす前に私の肩を背後から掴むものがいた。
「よせ」
振り返ると、そこにいたのはグレイだった。彼は私の腕を掴むと食堂に引っ張って行った。
「何があったんですか。あの人は……」
「動けない奴はあれ以上攻撃は受けない。大丈夫だ」
彼は壁に背をつけて、荒い息で言った。
「グレイ、あなた……」
私ははっとする。
彼が自らの右肩に乗せている手は濃い色に染まっていた。黒いコートと薄暗さのせいでよく見えないが、傷を負っているようだ。
「それよりもっと奥へ。敵が来るぞ」
私を急かし、厨房まで下がる。
流し台の前に座り込んで、彼は悪態をついた。
「トラップも全て回避か。かかってたのは別の奴。意味ねーし」
右肩に触れていた手にぎゅっと力が入る。呻き声を漏らし、顔をしかめた。
「こんなに痛てーとはな。面白れーなんて言ってらんねー。腕がいいとこうなるってか」
「大丈夫ですか」
「ああ」
返ってきたのは唸りにも似た低い相槌。
「一体何が起こっているんですか?」
躊躇いながらの問いに、彼は不審げに顔を見上げた。
「知らねーのか?」
何も知らない。緊急連絡用のブレスレットにだって何の反応もないし。
また蚊帳の外ということだろうか。仮契約時ならともかく、私はもう正真正銘マスティマの隊員のはずなのに。
「そうか、これはな……」
彼が説明を始めようとした時だった。銃声が近くに聞こえた。誰かの悲鳴も。
乱れた足音。ほんのすぐ傍。そこの廊下ぐらいだ。
「くそ、もう来たか」
グレイは左手で上着の下から銃を取り出す。カウンターに仕切られて廊下までは見えないが、一つだけクリアな足音が響く。
どうか通り過ぎて行ってくれますようにとの願いも、むなしく終わる。次第にこちらに近付いてくる。
肘と膝を付いて、グレイは静かに食堂のほうへ這って行く。私も腰を落として彼の後に続いた。
物陰から食堂に入ってきた侵入者を見つけた。
足元を照らす非常灯の光しかないため、この距離で見えるのはシルエットくらいなもの。目を細めて見極めようとする。相手は背の高い男だ。
こちらへと歩きながら、男は下していた右手を上げた。鈍い光に銀色に煌くものが握られている。あれはおそらく拳銃だ。
これほど薄暗くて視界が悪い場所では、武器のない私にはどうすることもできない。傷を負ったグレイに頼ってしまうことになるのが腹立たしい。
当のグレイはさすがの落ち着きを見せている。長い前髪から覗く左目がじっと男を見つめる。相手の出方を考え、自分との距離を測っているようだ。
射程範囲内に入ったと判断したらしい。カウンターが途切れた場所から、床を転がりながら発砲する。
駄目だ、外れた。男は避けてもいない。銃を構えると、グレイへと狙いを定めている。
やらせてはならない。
私は床に置いていたビニールをかぶせたダンボールを引き寄せた。そこからつかみ出したものを投げつける。
男は唸り声を上げた。腕でそれらを叩き落す。
床に落ちたのは、野菜の切れ端、傷んだ林檎だ。それを見下ろした男は、さらに怒りを高まらせたようだった。足を早めてこちらに近付いてくる。
グレイが銃をいじっているのが聞こえた。装填が完了したようだ。
男が狙いを定めるべく上げたのは先ほどとは違う手。もう一挺の銃だ。装備は向こうのほうが上だ。
私はダンボールの中を探った。こんなものでは痛手は与えられないが、相手の気を少しでもそらすことができれば、上出来だ。あとはグレイがきっとうまくやってくれる。
取り出したのは更なる手榴弾。手の感触からしてまさにそう呼ぶにふさわしいものだ。
グレイが中腰になって、カウンターの向こうに置かれている棚を相手に向かって倒した。
後退する男に向かって銃を向ける。私も手の内の物を投げつけた。
銃声に応えて、相手もまた銃を撃った。倒れる棚の間をすり抜けた弾が、グレイの胸に吸い込まれる。
「グレイ!」
私は叫んでいた。
次回予告:厨房に隠れる二人に迫る敵。応戦するグレイに加勢しようとするミシェル。やがて復旧した明かりに照らし出されたものの正体は……。
第31話「迫り来る敵(後編)」
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