3.ディケンズ警備会社
指定時間の午後八時を前にして、ロンドンの空港からタクシーに乗り、たどり着いた。
緯度の高いこの地ではまだ空も薄っすらと明るい。
ここは企業のビルが立ち並ぶオフィス街。ディケンズ警備会社はその一画にあった。
建物を前にして身なりを整える。
今までにないほど短くなった髪は手櫛でも簡単に梳ける。もともと扱いにくいクセのある髪だが、それさえも気にならないほどだ。風通しが良くなったせいで首筋が涼しいが、すぐに慣れるだろう。
いつ慣れるか分からないのは紺色のパンツスーツだ。首を絞めつけるネクタイ。
よく男の人はこんな息苦しいものを毎日着けていられるものだ。
いや、苦しい思いをするのはこの服のせいだけではない。
胸に手を置く。もともとそう大きくはない胸だが、巻きつけたサポーターのお陰でほとんど分からない。
おかしいのか悲しいのか分からない気分で、私は俯いた。
そして、顔を上げて建物を見やる。天を突く高層のビル。世界にその名を轟かす一流の会社にふさわしい外観だ。
明かりがいくつもの窓からもれている。色を深めていく空がいつもより遠くに感じられる。
車寄せに刻まれたディケンズ警備会社の文字。植え込みから覗くライトが建物を照らし出している。
意を決して、エントランスへと入り、広いロビーに出る。
明度を落とした照明の下、人は誰もおらず、受付のカウンターにも姿はない。
どうすればいいのか決めかねて立ちすくんでいると、背後から声をかけられた。
「マイケル?」
ミシェル改め、今日からの私の名前。
呼ばれて振り向くと、黒髪のグレーのスーツを着た男が歩み寄ってきた。書類が入っていると思われる茶封筒を片手に、微笑みを浮かべている。
「面接担当のアーロンだ。よろしく」
年のころ四十歳くらいだろうか。
細い黒ぶち眼鏡の奥の瞳が細まる。目の脇に浮かぶ笑い皺。気さくな感じを醸し出している。
「よろしくお願いします」
私はほっとした思いで、差し出された彼の手を握り返した。
彼はロビーのソファへと私を案内した。
茶封筒から書類を取り出す。先に送っていた履歴書だ。彼はそれに一度目を落としただけだった。
渡したブルーノさんが書いてくれた推薦状にも目を通そうとはせず、履歴書ともども封筒にしまった。
「ブルーノとは昨日電話で話したんだが、もし君が来ても採用を断ってくれと言われたんだ。君には向いていない仕事だと。社会の裏側をわざわざ見せる必要はないとね」
私は膝上で拳を握り締めた。昨日といえば、私が屋敷を訪れる前の話だ。
「彼の気持ちも分かる。我々警備では踏み込めない暗闇に挑むものがマスティマだからね。そんな陰の組織に属すれば、見たくないものだって目にすることになるかもしれない」
その声はどこまでも落ち着いたものだった。俯いてしまった私を慰めるような響きがあった。
ブルーノさんの気持ちは、私だとてよく分かっていた。彼は友人であった父を死なせた上、その娘まで危険にさらすことになるのではないかと恐れていたのだ。
だが、彼は分かってくれた。これでもう気兼ねなく私は私の道を貫ける。
顔を上げてアーロンを見たとき、彼は微笑みを浮かべていた。
「決心は固いようだね。マスティマのコック、勤務は大変だが君には頑張ってもらいたい」
「……それって、採用ってことですか?」
言葉の意味が分かるのに数秒を要した。
アーロンは頷いた。
「まだ仮だがね。詳しいことは……そうだな、あっちの人事に聞いたほうがいいな」
私の混乱をよそに、アーロンは上着のポケットから取り出した携帯電話で何かを話し始めた。
ディケンズ警備会社の裏組織であるマスティマ。採用は厳しいものだと聞いていた。試験自体も難しく、倍率もかなりのもので、おいそれとは入れないと。
だが、仮とはいえ、これほど簡単に採用を言い渡されるとは。
アーロンの行動は早かった。私をエレベーターに押し込み、屋上を目指す。
扉が開くとともに耳を覆いたくなるような騒音が襲った。プロペラを回転させながらヘリコプターが待機していた。
状況についていけない私を引っ張るようにして、彼は座席に乗り込んだ。
私のシートベルトの世話までして、操縦士に行き先を告げる。
マスティマへ。
機体を前に傾けて飛び立つヘリの中で悲鳴を押し殺す。
「仕事は住み込みだから。荷物は後で送ればいいからね」
騒音に負けじとアーロンは大声で告げる。
座席にしがみつきながら、これは拉致に近いものだと確信していた。
次回予告:アーロンと共にマスティマの本拠地へ向ったミシェル。扉の奥から現れたのは総務担当だというアビゲイル。彼女の案内でミシェルはマスティマの内部へ入り込むこととなる。
第4話「マスティマの城」