27.怒りのボス(後編)
私は横倒しになったワゴンを見やった。
ようやく立ち上がったのはボスの犠牲者である若い男だ。まだ顔色は悪いから無理しないように、気分が悪くなったらすぐに医務室に来るようにとアビゲイルが声をかけていた。
彼ももちろん可哀想だが、二度も蹴りを入れられたこのワゴンも被害者だ。
しゃがんで傷に触れる。脇のアルミの板がぼっこり凹んでいる。修理に出さなくちゃいけない。
「大丈夫よ、マイケル。技術情報部に頼んでおくから。明日の朝には直って返ってくるわ」
アビゲイルはそう言ってくれたけれど。
私はこの時ほど強くなりたいと思ったことはなかった。ボスをつまみ出したというあのアンナさんのように。
彼女から学ぶべきだったのは料理などではなくて、ボスに対抗できる強さだったのではないだろうか。
私は立ち上がり、ワゴンを起こした。今はできることをするしかない。
「僕、出してきます。技術情報部って何処ですか」
お願いして急いで直してもらうのに、人づてで頼むのはおかしいだろう。
私は場所を聞いて、ワゴンを押して部屋を出た。タイヤの軸もおかしくなっているのか、なかなか真っ直ぐには進んでくれなくて、大変だったけれど。
技術情報部には今まで出入りしたことはない。それは西棟端の一階にあった。
まさに外れと言って過言ではない場所。廊下のカーペットはくすんだ色をしていたし、壁紙も古ぼけている。窓ガラスまで曇って見えた。
部署として名前は耳にしたことはある。あの不吉なボスの武器、衝撃銃ことショック・パルス・ランチャーの話のときだ。
それから、ワゴンに保温機能をつけてくれたのも確か技術情報部だ。アビゲイルを通してだったので詳しくは分からないけど。
もっとも、それ以外は何も知らなかったし、他に耳にすることもなかった。
考えてみれば、ジャザナイア隊長が率いているのは実行部隊なのだから、他に部があってもおかしくはない。
だけど、これだけ話題に上らないということは、秘密の部署ということだろうか。或いは単なる開かずの間だったりして。
目的の入り口であろう扉を見つけて、立ち止まる。両開きのドアだ。
ノックしようと拳を上げる。だが、そうする前に片方の扉が脇にスライドした。自動ドアだ。ノブのあるそのデザインからは想像もできなかったが。
照明のある廊下よりも薄暗い室内。いくつもの光が点滅している。
不意に扉の縁に白い指が現れた。
内側から出てきたのは男だった。足元はふらつき、怪しげだ。ちょっとつっつけば倒れそうな感じだ。
襟に届くほどの金髪はぼさぼさに乱れている。ボタンを三個ほど外して前を開いた、しわくちゃのシャツにサスペンダー。背が高く痩せ気味で、顎と鼻の下には薄っすらと無精ひげ。
目をしょぼしょぼさせながら、私に近寄ってきた。顔を寄せてきて、しばたくこと三回。
「ああ来たね。コックのマイケルだっけ?」
疲れているのか、地声なのか。男の声はかすれていた。
胸ポケットに突っ込んだ丸眼鏡を取り出してかける。瓶底並の厚さだ。それでも目の下のくままでは隠しきれていない。
彼はもつれた金髪を掻いた。まだ若そうなのに、かなり老けて見える。
「アビーから聞いてるよ。ちょっと待ってて。おい、工具箱とってくれ」
肩越しに室内に声をかける。
部屋の中には何人もいるようだ。彼より若い青白い顔をした男が、金属の長細いボックスを持ってきて差し出す。
両袖をたくし上げた彼は、早速修理にとりかかった。ワゴンを横に倒して、板を止めている螺子をドライバーで外し始める。
「プリシラがお世話になったそうだね。ありがとう」
彼は作業を続けながら言う。
私は話についていけず、固まる。
プリシラはアビゲイルの娘だ。お世話になったそうだねって、そんな言葉をかけるとしたら。
「あなたはアビゲイルの……」
「アビーは僕の妻だよ、マイケル。僕はオスカー。技術情報部の部長だ」
丁度螺子を外し終えた彼は、下がってきた眼鏡を押しやった。それから右手を差し出す。私は慌てて彼の手を握った。
「こちらこそ、彼女にはとてもお世話になっています」
私の言葉に笑顔を返す。疲れ切った顔に束の間精気が戻る。優しげで気持ちがほんわりとする笑みだ。
「君のことは聞いてるよ。頑張り屋だって。彼女は君を気に入っているみたいだ」
それは嬉しい言葉だけど。
手元に目を戻した彼は作業を続ける。アルミ板を取り外し、内側からハンマーで叩いて凹みを伸ばす。実に手際がいい。車軸の歪みまで直して、元通りになるには十五分くらいで足りた。
私は前後にワゴンを揺らして確認する。完璧な仕事だ。
「ありがとうございます。おかげで助かります」
「いや大したことではないよ。それより、君のコーヒーをうちの奴らにも届けてもらえないかな。ここ三日ずっとこもりっぱなしで徹夜なんだ」
それでこの人はこんな風貌なのだと納得する。そういえば、工具を持ってきた人も若いのになんだか元気がなかった。
「部長、本社からデータが転送されました。解析始めます」
扉から顔を覗かせて、さっきの男が言う。
手を上げてそれに答えたオスカーは、私に背を向けると部屋に入って行った。
「コーヒー、すぐにお届けしますから」
私のその声に振り返ってにっこりと笑う。彼の笑みは心に染み渡る感じがする。きっとアビゲイルもこの笑顔で彼を選んだのだと思う。
自動扉が閉まると、私は大急ぎで厨房に戻った。
煮立ったコーヒーを捨て、新しく入れなおす。そして、出来上がったコーヒーを保温用サーバーに入れ、作り置きしていたクッキーと一緒にワゴンに載せた。
それからもと来た道を引き返す。技術情報部の人たちは喜んで受け取ってくれた。
次回予告:仮契約から三ヶ月経過し、いよいよ本採用に。ミシェルの胸は高鳴る。だが、言い渡されたのは予想外の辞令。彼女の決断は……。
第28話「辞令交付」
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