25.ボスの気に入り
次の街までは、ほぼ二時間かかった。
地図にすれば、マスティマの城とさっきのレストランとこれから向かう店は三角形の位置になるらしい。
さすがにまだお腹は減っていない。
こういうことなら、もっとゆっくりとドライブに浸ればいいと思うのだが、アビゲイルにはそんなつもりはさらさらないようだった。
「すっきりするわ」
輝くような笑顔で言う。彼女もそうとうストレスを溜めているのかもしれない。まあ、上司があんなのでは仕方ないか。
はっと気付く。またボスのことを考えてしまった。なんだか時間を損した気分だ。
気を取り直してまた街を巡る。さっきの街とは違い、こぢんまりとしている。居心地がよさそうなところだ。こんなところにボスの行きつけがあるのだろうか。
私たちは住宅地に差しかかり、各家の庭の素晴らしさに見入る。イングリッシュ・ガーデンというやつだ。それぞれに個性があり、美しい。
アビゲイルは庭に出ていた奥さんに話しかけられ、バラを切り分けてもらっていた。
いいなあ。美人って得だと思いつつ見ていると、彼女は一輪手折り、私の上着の胸ポケットに入れてくれた。なんだか照れくさい。
そうして、私たちは時間を潰してから店へとやってきた。
「ここですか?」
思わずアビゲイルに問う。
そこは一軒の民家のようだった。店らしいものは何一つ見て取れない。もちろん看板もない。彼女は笑って頷いた。
「まさに隠れ家よね」
扉を開けながら言う。
中に入ると確かに店だった。テーブルと椅子が並べられ、中には数人の客がいた。程よく薄暗く、なんだか落ち着くところだ。そう広くないのもいい。
カウンターから太った中年の女が出てきた。かなり背丈もある。迫力からしてレイバンといい勝負じゃないだろうか。
エプロンを身に着けた彼女は、私たちを見て白い歯を見せた。
「久しぶりに会うじゃないか、嬢ちゃん」
アビゲイルを抱き寄せる。
「ええ、アンナ。本当に」
そう言う彼女は大きい体に包まれ、今にも押しつぶされそうだ。体を離してから店の女は周りを見回した。
「今日は目つきの悪い坊やは来てないのかい?」
「私たち二人だけよ」
「そうだよね。三日前にも来たばかりだもんねえ」
二人の会話は続いていくが、私は付いて行っていなかった。目つきの悪い坊やって……やっぱりボスのことなんだろうな。
女の視線を感じて、彼女を見やる。
「これまたちっこいのを連れてきたね」
「うちのコックよ。あなたの料理を習いに来たの」
アビゲイルの言葉に、彼女は私の肩を掴むと、じっと顔を覗きこんだ。
そして、豪快に笑い出す。
「うちから学ぶものなんて何もないよ」
「そんなことありません。お願いします」
私はそう言って食い下がる。ボスが通い続けるのには訳があるはずだ。あの人が満足のいかない料理を許すなんてわけがない。
彼女はぴたりと笑うのを止めた。
「あんたもあの目つき悪いのと同じで無理を言うね」
不機嫌そうに言う。
そうして、太い腕の中に私の肩を包み込み、意思に関係なく、カウンターの内側に引っ張っていった。
「あの坊やはね、初めてここに来たとき、随分無茶を言ったんだよ。だからつまみだしてやった。あんたもそうされたいかい?」
ものすごい迫力だ。体が大きいからだけじゃない。太い声のせいだけでもない。なんかこうオーラがあるのだ。それにボスをつまみ出したって? 只者じゃない。
「嫌です。教えていただくまでは」
彼女は私の顔を覗きこんだ。顔そのものもとても大きい。黒い髪に太い眉。目力もある。
「頑固だね。さてはあんたのせいだね、最近あの坊やがここへ来るのが減ったのは」
営業妨害だとか怒られるのだろうか。どうもそんな雰囲気だ。
私が縮こまると彼女は笑い出した。
「大したもんじゃないか」
私の背中を大きな手で叩く。あまりの痛さに飛び上がる。そんなことはお構い無しに、彼女は私の腕をとり、厨房へと引きずって行った。
「ご覧、あれがうちの秘密兵器だよ」
痛みからつぶっていた目を開ける前から、分かっていた。お腹を刺激するいい匂い。
目の前にあったのは丸いドーム型の石釜。これはピッツアの匂いだ。
「イタリアの職人に作ってもらったもんだ。うちの宝だよ」
腰に手を当て、彼女は得意げだ。
「もしかして、あなたもイタリアの方なんですか?」
「も……って、あんたもかい?」
私は自分のことを説明した。
私の父親はイギリス人だが、住んでいたのは母の実家であるイタリアであることを。
たった一つの共通点だったが、効果は大だった。彼女は一気に打ち解けてくれた。
「うちも旦那がイギリス人で、あたしがイタリア人なんだ。あんたの両親と同じだね」と。
また新たな共通点を見出し、彼女はにっと笑う。
石釜からピッツアを出してきて、味見までさせてくれた。
懐かしい味。とても美味しい。ソーセージからして違う。きっとトマトも。
案の定、彼女は特製のホールトマトを見せてくれた。やっぱりイタリア産のトマトだ。
使っているサラミもソーセージもイタリア製だ。嬉しくなってしまう。
「たくさんあるから持ってお行き」
袋に次々詰めてくれる。
ピザ生地の材料も分量まで細かく教えてくれた。生地を作るときの注意点も。企業秘密も何もない。
「あの坊やもイタリアにはゆかりがあるようだね」
初耳だった。思わずメモをとる手を止める。彼女の話は続いた。
「色々と詳しかったしね。だけど、うるさい子だよ。初めて来たとき、つまみ出したって話しただろう。このピッツアの味にいちゃもんをつけたんでね。うちにはうちのやり方がある、文句を言うなら帰れって言ってやったんだ」
両拳を腰に当てて笑う。全てが大きい人だが笑顔は可愛らしい。
「それでもう来ないと思ってたんだけど、一週間もしないうちに「来てやったぞ」って偉い顔なんだ。もう呆れてね。うちは味を変えたりしないよって言ってやった。最初は何かいろいろ文句を言っていたけど、聞いてる暇なんかないよ。うちはあたし一人できりもりしてて忙しいからね。そしたら、いつの間にか、ちゃっかり常連客さ」
彼女は本当に凄い人だ。
いろいろ文句を言っていたって、普通ならそこでボスの迫力に負けているはずだ。忙しいって袖にするなんてどうやってやったんだろう。
でも、知ったところで彼女にしか出来ないやり方なんだろうな、きっと。
「あの坊や相手に苦労してんだろう。でも大丈夫さ。あんたにはあたしと同じ、イタリアの血が流れてるんだから」
よく分からない励まされ方だ。また背中を叩かれた。今度は手加減して軽くだ。
なんだか腑には落ちないが、大いに元気はもらった。
重くなった袋をようやく持って席に戻ると、アビゲイルが他の客からパンとワインのおすそ分けに預かっていた。
「あんたたち、うちのピッツア食べていきな」
嬉しい。さっきはちょっとしか食べなかったし。ワインも頂いちゃおうかな。
私たちはアンナさんの極上ピッツアをしっかり堪能して、おいしいイタリアワインもゆっくりと味わった。
ああ、休日って最高。ずっとこんな日が続いたらいいのにと一瞬ではあるが、確実に思ってしまった。
次回予告:マスティマの城へ戻ったミシェルとアビゲイル。だが、そこには激昂する、いるはずのない人が。一体何故こんなことに……。
第26話「怒りのボス(前編)」
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