24.ボスの行きつけ
扉をくぐる前からいい匂いが通りに流れていた。
店の席に通された私たちの前に最初にやってきたのは、店の支配人と思われる白い上着を着た恰幅のいい中年の男だった。
「いつもご利用いただきありがとうございます。それで……」
彼の視線が席を見渡す。
「今日はあの人は来ないわ。ロンドンに出ているから」
アビゲイルの言葉にあからさまにほっとした表情。この人もきっとボスの被害者に違いない。
「この子はうちのコックなの。勉強をしたいというから連れてきたのよ。後で厨房を見せてくれないかしら」
男はぶしつけに私を見つめる。値踏みされているようだ。なんだか居心地が悪い。
「ほら、うちのコックの料理をボスが食べてくれるようになれば、ここに来るのも減るんじゃないかしら」
アビゲイルの一言は決定的だった。男は両手を合わせて握りしめると、何度も同意の言葉を口にした。
組織以外の人まで巻き込むなんてボスは罪深い。でも、このお店のお陰で私も助かっている部分があるのだし。複雑な思いでその人の背中を見送った。
やがてウェイターが現れて次々に料理を運んでくる。
ランチなのでそう沢山は出てこないと思っていたが、想像を超える量だ。
内容も何料理なのか判断の困る感じだ。ベースになっているのはフランス料理のようだが、色々な要素が入り混じっている。創作料理と言っていいのだろう。
味は最高。さすが五つ星を掲げているだけはある。だけど、ボスの嗜好とは違う気がする。あの人はもっと濃い味が好みのはずだ。
最後の料理を持ってきたのは、コック帽をかぶった白衣の背の高い男だった。
「まあ、アントン。また白髪が増えたわね」
アビゲイルが立ち上がる。男はテーブルに料理を置いて苦く笑った。
「君のボスのお陰さ、アビゲイル」
そう言う彼の頭には、なるほど白いものが目立っている。アビゲイルより少し年上くらいなのに。黒みがかった栗色の髪だ。余計目立つ。彼は私へと目をやった。
「味はどうかな、同業者」
「とても美味しいです。でも、ボスの好みとは……」
「ああ」
彼は笑いながら頷く。温かみのある笑顔だ。
「彼が来たときには調整している。なかなか加減が難しいがね。見極めるまで何度呼び出しをくらったり、厨房に押しかけられたりされたかしれない。遠慮なしに言わせてもらえるなら迷惑な客だ」
それはそうだろう。大いに同意だ。
「この店はディケンズ本社が出資していてね。断れない立場なのよ」
アビゲイルの耳打ちに納得する。五つ星を掲げるなら、本来であれば客を選ぶことだってできるはずだ。
「お世話をかけるわね、アントン」
すまなそうに彼女は詫びる。
「君のボスだから我慢してるんだよ」
彼の声はひどく真面目だ。この雰囲気はなんだか……。二人の間に微妙な空気が流れている。続く沈黙は耐えられないものだった。私は席から立ちあがった。
「あ、あの、厨房を見せてはもらえませんか」
申し出に彼は無言で私を振り返る。
「私からもお願いするわ」
アビゲイルの言葉に黙って頷く。そして「ついて来い」と背を向けた。
私は大急ぎで彼の背中を追った。
店の厨房は大きかった。彼はシェフであり、五人のコックをかかえていた。
解説つきで調理を見せてもらう。実に興味深かった。だが、実用となると疑問が残る。
料理そのものも彼が独自に作り上げたもので、私の料理とは殆ど接点がなかったこともある。そして、肝心な調味料の量については、彼は首を横に振るばかりだった。
「まったく同じ料理を作るなら教えてやれる。だけど、そうでないなら目安なんてないんだ。作るものによって違ってくるから。出来上がった味を想像して、加えていくしかない。彼と同じ舌を持ったつもりでね」
同じ物なんて作って、あの人が納得するだろうか。猿真似だなんてかえって怒りそうな気がする。メモを取らせてもらいながら、溜め息をつく。
「同じ料理じゃ気に入らないんじゃないか。それならうちに食べに来ればいいんだから」
アントンさんも同じことを言った。
やっぱりそうだよね。自分で探っていくしかないか。私はメモを閉じた。
コックたちに礼を言って、厨房を出る。
「アビゲイルによろしく言ってくれ。彼女の助けになればと思ったんだが」
最後に彼はそう言った。
二人の関係はどうも怪しい。テーブルに戻った私を待っていたアビゲイルは、彼が何か言っていなかったかと尋ねた。私は言われたとおりのことを答える。彼女は席を立ち上がった。
「あの人とはずっと昔にお付き合いしてたのよ。今はどちらとも別のパートナーを見つけたんだけどね」
別のパートナー? 私が感じた限り、あの人のほうは未練たらたらのようだったけれど。
なんて言葉を返していいか戸惑う私を置いて、彼女は歩いていく。
支配人に近付いてツケにしてくれと言うと、後ろを振り返りもしないで外に出た。
こんな時、なんて言えばいいのだろう。頭の中はぐるぐる回っているが、気のきいた言葉は出てこない。
「マイケル、次のお店に行きましょ」
遅れて店から出た私を笑顔で迎える。二人で肩を並べて駐車場を目指す。
いつものアビゲイルだ。表情を窺いながらもほっとする。
車を見て私は思い出した。またあのスピードと恐怖に耐えなければいけない。
横を見るとアビゲイルの姿はすでになく、意気揚々と車のシートに身を沈めるところだった。
次回予告:真打登場? 二件目の店でミシェルは確信する。この店の人にこそ学ぶべきことがあると。ボスの心を掴むその秘密とは……。
第25話「ボスの気に入り」
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