2.ミシェルの決意
住み慣れた、気兼ねない人たちのたくさんいる街。賑やかで温かい街。
南イタリアのこの街で私は生まれ育った。母の郷でもあるこの地は、父を亡くしてからも変らないものの一つだった。
周りの人たちは私たちを力づけてくれた。祖母、母、私と男手のいない我が家を何かと気遣ってくれた。
なによりもブルーノさんは。私の進学の相談に乗り、返済はいつになってもいいからと学費の肩代わりまでしてくれた。
お陰で無事に義務教育を終えて、希望通り、各地を巡っての料理の修業に打ち込むことができた。
私の唯一といってもいい才能を磨くための旅。そんなことができたのも、後ろ盾あってこそだ。
どれほど礼を尽くしても足りることはない。そんな人の心に背くことはしたくなかった。
だが、他にどうすればいいというのだろう。頼る人は他になく、彼の力添えなくしては私の目標に近付くことさえできないのだ。
チャンスを知らせる一本の電話。これを逃せば二度と巡っては来ないだろう。今までの努力はまったくの無駄になってしまうかもしれない。
料理の師匠に慌しく別れの挨拶をして、荷物をまとめると飛行機に飛び乗った。そして、故郷へ戻ってきたのだ。
私の足取りは重かった。
ブルーノさんの家は目の前にあった。
高い塀に囲まれた屋敷だ。両開きの門に手をかけると開いていた。無用心だと思いつつ、一応植木に隠された監視カメラに手を振ってみる。気付けば誰か出てくるはずだが、その様子はない。
私は仕方なく門を開けて入った。玄関を目指して歩いていると、二頭の犬が駆けてきた。黒と茶色の屈強なマスティフ犬だ。彼らは私に狙いを定めて飛びかかってきた。
バランスを崩し、座り込むと胸に両足をかけられた。荒い息がすぐ傍に聞こえる。
「もう、ネーロ、カフェラッテ、やめてよ」
言っている傍から顔をべろべろと舐められる。くすぐったい。
笑い声を上げながら、黒いネーロの顔を両手で挟んでもみくちゃにする。彼の顔の皺があちこちに動いて奇妙な形を作る。それがおかしくてさらなる笑いを誘う。
カフェラッテが負けじと顔を突っ込んでくるので、二頭の耳の後ろを掻いてやりながら、彼らの鼻先にキスをした。
「誰だ?」
声をかけられたのはその時だった。
屋敷から出てきたのだろう、男が上着の懐に手を入れたまま近付いてくる。
「こんにちは。お久しぶりです」
私の挨拶にも男は怪訝そうな顔をしている。まるで誰だか分からない感じだ。
唇を舐めてこようとする二頭をなだめながら、私は立ち上がった。
「ブルーノさん、いらっしゃいますか?」
「……お前、ミシェルか?」
男は困惑気味に指を差す。
頷いて笑い返すしかなかった。こんな格好では分かれって言うほうが無理なのかもしれない。
今の私は赤いカンフー着にボストンバッグを肩に提げ、大きな中華鍋を背負ってるんだから。
男はブルーノさんの部下だった。確かマルコと呼ばれていて、父のレストランにもよく訪れていた一人だった。あの十年前の事件のときも。
その頃は濃い灰色だった彼の髪にも、今は白いものが混じっている。
「ブルーノさんの所に連れて行ってください」
私の言葉に彼はぎょっとする。再び私の全身を見回す。奇妙な格好なのは分かっている。
「時間がそんなにないんです。お願いします」
彼は屋敷を見返し、窮屈そうにネクタイをいじった。
「分かった。来い」
それでもそう言ってくれた。
私は、名残惜しく垂らした尻尾をゆっくりと振る二頭を背にして、彼の後ろに付いていった。
玄関を抜け、廊下を歩いて、私たちは一つの扉の前に立ち止まる。
マルコはここで待つよう指示して、先に部屋に入ってしまった。
「会ってくださるそうだ」
しばらくして扉が開き、彼は顔を覗かせて言った。
荷物を抱えなおし、バッグの肩掛けを握り締めながら、私は部屋へと入った。
豪華な部屋だった。
壁には額縁に入った絵画やコレクションである銃やナイフのケースが掛けられている。東洋のものと思われる白磁気の花瓶に入った花。厚みのある艶のあるカーテンは飾り紐で止められ、窓際に押しやられている。
昼下がりの日差しを遮っているのはレースのカーテンだった。それを背にしてブルーノさんはいた。
白い髪に白い口ひげ。十年前と変ったのはそれだけではない。膝にはエンジ色のブランケットがかけられている。座っているのは車椅子だった。あの事件で受けた傷の後遺症のせいだ。
「やはり来たね。ミシェル」
変らない柔らかい物腰。ネクタイを締め、スーツを着た彼には威厳があった。マフィアのボスの座を退いて隠居の身の今でさえ。
「わしは正直言って、君に来てもらいたくはなかったのだがね」
渋い声。
「でも私は来ました。昨日連絡を頂いたから」
私は彼の前まで歩み寄った。彼は目を細めてじっと私を見つめた。
「君に頼まれていたからね。だが、面接は今晩だ。中国からでは時間がかかっただろう。間に合わなければ良かったのに」
「私はここにいます。面接だって間に合わせます」
私の言葉に、彼は車椅子の肘置きを節くれだった手で握り締めた。床を睨みつけている。
私はさらに彼に歩み寄った。腕を取り、留めようとするマルコの手を払う。
「お願いです。あなたの推薦状が必要なんです。そう教えてくださったのはあなたじゃないですか」
「君は何も分かっとらん」
ブルーノさんは厳しい口調で言った。私へと戻ってくる視線。彼の雰囲気ががらりと変わった。それはまさしく闇を治める男のものだった。
柔らかかった眼差しは鋭い光を放ち、同じ人物とは思えないほどだった。
私はバッグを床に置き、たすき掛けにした中華鍋の紐を解いた。バッグの上に鍋が落下する。
「マスティマはわしらと同じだ。闇に属するものだ。そんなところへ君を……」
ブルーノさんの声を物音が止めた。床の鳴る低い音だった。バッグに落ちた中華鍋の音。重さを受け止め切れなかったバッグは、ぺしゃんこに潰れている。
「どうおっしゃろうと私の決心は変わりません」
私の言葉に、彼の唇から深い溜め息が漏れた。
「だがね、ミシェル。マスティマに入れるのは男だけだと言っただろう。女の君に資格はない」
今度はなだめるような声。
私は唇を噛んだ。自分の技術が足らないから認められないというのなら分かる。だが、変えようのない性別で拒まれるなんて。
変えようのない……性別?
私は壁に目をやった。二人の視線を感じながらも、足は止まらなかった。
壁掛けのガラスケースから一番大きいナイフを取り出す。マルコが慌てたように駆け寄ってくるが、間に合うわけもなかった。
腰に届くお下げを前に寄せ、切り落とす。
「男になればいいんでしょう」
切り離した、茶色がかった金髪を握り締める。髪を伸ばしていたのは十年前からだ。願掛けのようなものだ。願いが叶ったときに切るつもりだったが、この際仕方ない。
「……無茶苦茶だ」
マルコが呆れたように言う。
ブルーノさんはというと、笑い出していた。彼は最後に溜め息と共に笑いを収め、肘かけを叩いた。
「降参だミシェル。推薦状は渡そう」
彼は懐から封筒を取り出した。
マルコが寄り、それを受け取ると私の前に持ってきた。
「最初は騙せたとしてもすぐにばれるぞ」
「その時はその時ですよ」
推薦状を受け取りながらの私の答えは、彼をさらに呆れさせたようだった。
「マルコ、彼女を君の行きつけの理髪店に連れて行っておあげ。その髪ではあんまりだ」
「……分かりました」
随分と歯切れの悪い返事。
私はブルーノさんの近くまで行って床に膝を付いた。
「ありがとうございます、ブルーノさん。本当に何から何までお世話になって」
彼は首を横に振り、私の頭に触れた。
「ミシェル、君はわしの娘同様だ。君のお父さんはいい友人だった。彼にそう誓ったのだから」
私の髪をなでる彼の手は、昔と変らず大きく優しかった。
「さあ行きなさい。面接の時間に遅れてはいけない」
彼は促した。私は頷いて立ち上がり、彼を後にした。
「幸運を。娘よ」
最後に振り返ったとき、彼は微笑んでいた。
心の中に温かい光が点ったように感じられ、私はそれに背を押されて屋敷を後にした。
次回予告:ブルーノより得た推薦状を手に、マスティマの本拠地イギリスへと発つミシェル。向った先は窓口である警備会社だった。
第3話「ディケンズ警備会社」




