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運命のマスティマ  作者: 鏡 香夜
(1) Road to the Mastema マスティマへの道のり
2/112

2.ミシェルの決意

 住み慣れた、気兼ねない人たちのたくさんいる街。賑やかで温かい街。

 南イタリアのこの街で私は生まれ育った。母の郷でもあるこの地は、父を亡くしてからも変らないものの一つだった。

 周りの人たちは私たちを力づけてくれた。祖母、母、私と男手のいない我が家を何かと気遣ってくれた。

 なによりもブルーノさんは。私の進学の相談に乗り、返済はいつになってもいいからと学費の肩代わりまでしてくれた。

 お陰で無事に義務教育を終えて、希望通り、各地を巡っての料理の修業に打ち込むことができた。

 私の唯一といってもいい才能を磨くための旅。そんなことができたのも、後ろ盾あってこそだ。

 どれほど礼を尽くしても足りることはない。そんな人の心に背くことはしたくなかった。

 だが、他にどうすればいいというのだろう。頼る人は他になく、彼の力添えなくしては私の目標に近付くことさえできないのだ。

 チャンスを知らせる一本の電話。これを逃せば二度と巡っては来ないだろう。今までの努力はまったくの無駄になってしまうかもしれない。

 料理の師匠に慌しく別れの挨拶をして、荷物をまとめると飛行機に飛び乗った。そして、故郷へ戻ってきたのだ。

 私の足取りは重かった。

 ブルーノさんの家は目の前にあった。

 高い塀に囲まれた屋敷だ。両開きの門に手をかけると開いていた。無用心だと思いつつ、一応植木に隠された監視カメラに手を振ってみる。気付けば誰か出てくるはずだが、その様子はない。

 私は仕方なく門を開けて入った。玄関を目指して歩いていると、二頭の犬が駆けてきた。黒と茶色の屈強なマスティフ犬だ。彼らは私に狙いを定めて飛びかかってきた。

 バランスを崩し、座り込むと胸に両足をかけられた。荒い息がすぐ傍に聞こえる。

「もう、ネーロ、カフェラッテ、やめてよ」

 言っている傍から顔をべろべろと舐められる。くすぐったい。

 笑い声を上げながら、黒いネーロの顔を両手で挟んでもみくちゃにする。彼の顔の皺があちこちに動いて奇妙な形を作る。それがおかしくてさらなる笑いを誘う。

 カフェラッテが負けじと顔を突っ込んでくるので、二頭の耳の後ろを掻いてやりながら、彼らの鼻先にキスをした。

「誰だ?」

 声をかけられたのはその時だった。

 屋敷から出てきたのだろう、男が上着の懐に手を入れたまま近付いてくる。

「こんにちは。お久しぶりです」

 私の挨拶にも男は怪訝そうな顔をしている。まるで誰だか分からない感じだ。

 唇を舐めてこようとする二頭をなだめながら、私は立ち上がった。

「ブルーノさん、いらっしゃいますか?」

「……お前、ミシェルか?」

 男は困惑気味に指を差す。

 頷いて笑い返すしかなかった。こんな格好では分かれって言うほうが無理なのかもしれない。

 今の私は赤いカンフー着にボストンバッグを肩に提げ、大きな中華鍋を背負ってるんだから。

 男はブルーノさんの部下だった。確かマルコと呼ばれていて、父のレストランにもよく訪れていた一人だった。あの十年前の事件のときも。

 その頃は濃い灰色だった彼の髪にも、今は白いものが混じっている。

「ブルーノさんの所に連れて行ってください」

 私の言葉に彼はぎょっとする。再び私の全身を見回す。奇妙な格好なのは分かっている。

「時間がそんなにないんです。お願いします」

 彼は屋敷を見返し、窮屈そうにネクタイをいじった。

「分かった。来い」

 それでもそう言ってくれた。

 私は、名残惜しく垂らした尻尾をゆっくりと振る二頭を背にして、彼の後ろに付いていった。


 玄関を抜け、廊下を歩いて、私たちは一つの扉の前に立ち止まる。

 マルコはここで待つよう指示して、先に部屋に入ってしまった。

「会ってくださるそうだ」

 しばらくして扉が開き、彼は顔を覗かせて言った。

 荷物を抱えなおし、バッグの肩掛けを握り締めながら、私は部屋へと入った。

 豪華な部屋だった。

 壁には額縁に入った絵画やコレクションである銃やナイフのケースが掛けられている。東洋のものと思われる白磁気の花瓶に入った花。厚みのある艶のあるカーテンは飾り紐で止められ、窓際に押しやられている。

 昼下がりの日差しを遮っているのはレースのカーテンだった。それを背にしてブルーノさんはいた。

 白い髪に白い口ひげ。十年前と変ったのはそれだけではない。膝にはエンジ色のブランケットがかけられている。座っているのは車椅子だった。あの事件で受けた傷の後遺症のせいだ。

「やはり来たね。ミシェル」

 変らない柔らかい物腰。ネクタイを締め、スーツを着た彼には威厳があった。マフィアのボスの座を退いて隠居の身の今でさえ。

「わしは正直言って、君に来てもらいたくはなかったのだがね」

 渋い声。

「でも私は来ました。昨日連絡を頂いたから」

 私は彼の前まで歩み寄った。彼は目を細めてじっと私を見つめた。

「君に頼まれていたからね。だが、面接は今晩だ。中国からでは時間がかかっただろう。間に合わなければ良かったのに」

「私はここにいます。面接だって間に合わせます」

 私の言葉に、彼は車椅子の肘置きを節くれだった手で握り締めた。床を睨みつけている。

 私はさらに彼に歩み寄った。腕を取り、留めようとするマルコの手を払う。

「お願いです。あなたの推薦状が必要なんです。そう教えてくださったのはあなたじゃないですか」

「君は何も分かっとらん」

 ブルーノさんは厳しい口調で言った。私へと戻ってくる視線。彼の雰囲気ががらりと変わった。それはまさしく闇を治める男のものだった。

 柔らかかった眼差しは鋭い光を放ち、同じ人物とは思えないほどだった。

 私はバッグを床に置き、たすき掛けにした中華鍋の紐を解いた。バッグの上に鍋が落下する。

「マスティマはわしらと同じだ。闇に属するものだ。そんなところへ君を……」 

 ブルーノさんの声を物音が止めた。床の鳴る低い音だった。バッグに落ちた中華鍋の音。重さを受け止め切れなかったバッグは、ぺしゃんこに潰れている。

「どうおっしゃろうと私の決心は変わりません」

 私の言葉に、彼の唇から深い溜め息が漏れた。

「だがね、ミシェル。マスティマに入れるのは男だけだと言っただろう。女の君に資格はない」

 今度はなだめるような声。

 私は唇を噛んだ。自分の技術が足らないから認められないというのなら分かる。だが、変えようのない性別で拒まれるなんて。

 変えようのない……性別?

 私は壁に目をやった。二人の視線を感じながらも、足は止まらなかった。

 壁掛けのガラスケースから一番大きいナイフを取り出す。マルコが慌てたように駆け寄ってくるが、間に合うわけもなかった。

 腰に届くお下げを前に寄せ、切り落とす。

「男になればいいんでしょう」

 切り離した、茶色がかった金髪を握り締める。髪を伸ばしていたのは十年前からだ。願掛けのようなものだ。願いが叶ったときに切るつもりだったが、この際仕方ない。

「……無茶苦茶だ」

 マルコが呆れたように言う。

 ブルーノさんはというと、笑い出していた。彼は最後に溜め息と共に笑いを収め、肘かけを叩いた。

「降参だミシェル。推薦状は渡そう」

 彼は懐から封筒を取り出した。

 マルコが寄り、それを受け取ると私の前に持ってきた。

「最初は騙せたとしてもすぐにばれるぞ」

「その時はその時ですよ」

 推薦状を受け取りながらの私の答えは、彼をさらに呆れさせたようだった。

「マルコ、彼女を君の行きつけの理髪店に連れて行っておあげ。その髪ではあんまりだ」

「……分かりました」

 随分と歯切れの悪い返事。

 私はブルーノさんの近くまで行って床に膝を付いた。

「ありがとうございます、ブルーノさん。本当に何から何までお世話になって」

 彼は首を横に振り、私の頭に触れた。

「ミシェル、君はわしの娘同様だ。君のお父さんはいい友人だった。彼にそう誓ったのだから」

 私の髪をなでる彼の手は、昔と変らず大きく優しかった。

「さあ行きなさい。面接の時間に遅れてはいけない」

 彼は促した。私は頷いて立ち上がり、彼を後にした。

「幸運を。娘よ」

 最後に振り返ったとき、彼は微笑んでいた。

 心の中に温かい光が点ったように感じられ、私はそれに背を押されて屋敷を後にした。

次回予告:ブルーノより得た推薦状を手に、マスティマの本拠地イギリスへと発つミシェル。向った先は窓口である警備会社だった。

第3話「ディケンズ警備会社」

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