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運命のマスティマ  作者: 鏡 香夜
(2) Probation 仮契約
11/112

11.天使と悪魔

 朝食作り。それは夕食以上に頭の痛い問題だった。

 昨日の夕食のことだけではない。何をどう作るか以前に大きな問題があった。それはボリュームだ。

 我が家の朝食はいつもしっかりとしたものだった。十年前までは父が、それ以降は祖母が作っていた。

 イギリス人と日本人。どちらもボリュームのある朝食を好む傾向があるらしい。周りのイタリアの友人に聞くとまったく違っていた。朝からベーコン、焼き魚と聞いて目を丸くしていた。

 もちろん、その国民の傾向だけではない。個人差も大きい。

 ボスが朝食に重きを置いているか否か、それが核心だ。

 アビゲイルに聞いてみるが、どちらとも言えないとの要領を得ない回答が返ってきた。

 コーヒーだけで済ますこともあるし、しっかり食べるときもあると言うのだ。

 一番たちが悪い。だけど、大は小を兼ねる。

 第一回目の朝食は代表的なイングリッシュ・ブレックファストに決めた。

 なんといっても、ここはイギリスだし。その国の例に沿ってみようではないか。


 ――失敗だった。

 料理に手をつけないのはもちろんのこと、最初に手にしたコーヒーで勝負は決まってしまった。

 一口飲んで、ボスは私を視線で突き刺した。

「これはなんだ?」

「……コーヒーです」

 凝視の拷問、約三秒。

 カップが宙で返された。足元に注がれるコーヒーに慌てふためく。絨毯に広がるシミに思わず手をさし伸ばす。

 コーヒーには届かなかったが、遅れて放られたカップはダイビングキャッチでなんとか受け止めた。

「エスプレッソじゃねえ」

 それは当たり前だ。エスプレッソメーカーで作ったコーヒーじゃないから。

 カップを両手で抱えたまま腹ばいで倒れる私の傍を通り抜け、ボスはさっさと出て行ってしまった。

 起き上がると絨毯のシミが私の白衣に思いっきり移っていた。

 朝のコーヒーはエスプレッソ。それがボスから学んだ最初の教訓だった。

 エスプレッソメーカーがボスの食堂にあることを教えてくれたのはアビゲイルだ。

 食器棚の下の段、木の扉に隠されたそれは、鎖を巻きつけられていた。鎖の先は棚の奥の板に螺子で固定されている。

 前に何度かグレイが無断で持ち出したという。それでこんな厳重になっているわけか。

 だけど、こんな動かせない状態じゃ使えない。まさに宝の持ち腐れだ。

 ドライバーを借りてきて、エスプレッソメーカーの解放に取り掛かりながら思った。これがコックの仕事なんだろうかと。

 今朝はコーヒーだけだったし。

 肝心な料理も一口も食べてもらわないければ話にならない。味だの量だの言っている場合ではない。

 もっとも、調理にしてもなんとかこなしているという状態だった。器具がとにかく扱いづらい。手にフィットしないし、バランスも悪い。重さもしっくりとこない。

 ここに着いた晩、すぐにイタリアの家に私の道具を送ってもらうように連絡した。だけど着くまでには時間がかかるだろう。

 万全の体制で挑みたいところだが、こればかりは仕方ない。

 やっとの思いでエスプレッソメーカーを棚から取り出して、ワゴンに移す。汗ばんだ額を手の甲でぬぐった。

 前途は多難だが、何とかするしかないのだ。


 驚いたことに、取り寄せた調理道具は夕方に届いた。

 ディケンズ本社が関わってくれたためだ。拉致同然に連れてきたあのアーロンという人の罪の意識もあったのかもしれない。

 特に皆の目を引いたのは大きな中華鍋だ。中国から持って帰ってきた、修行終了証明でもあるもの。

 あまりの大きさに風呂なのか、中で魚でも飼う気かと聞かれたほどだ。

 鍋を片手で扱う私を隊員たちのどよめきが包む。

 これで少しはましな料理が作れるはずだ。使い慣れた道具を使えば効率も上がるに違いない。

 だが、もちろん、それは甘い考えだった。

 ボスとの戦いは連敗が続いている。

「熱い」「不味い」「温い」「味がない」etc……。

 時として感想はくれるようになったが、結果は同じだった。

 皿を床に放られたこともあったし、足蹴りを食らってワゴンを道連れにひっくり返ったこともあった。

 料理は何度も投げつけられた。思わず受け止めたときなど「何受け止めてんだ」と二皿目が来た。

 ボスの住居は城の一画で執務室の奥にあるという話だった。だから、三食必要なのだ。

 日に三度の真剣勝負。コーヒーはクリアした朝食、そして昼食で突っ込まれるのは、味はもちろんのこと、主に盛り付けや焼き加減だった。

「こんなふやけてんの食えるか」「これは目玉焼きじゃねえ」「ハムが湿ってんぞ」

 これらを翻訳すると、スープのクルトンはカリカリでなければならない、目玉焼きは卵二つで両面焼き黄身半熟が常識だ、生野菜と焼いたハムは別の皿に入れろ……である。

 短くて説明なんかないボスの言葉。真意を推し測るだけでも大変だ。皿の数が少ない朝食、昼食でこれだ。夕食こそが本番だといっていい。

 救いなのはボスが城にいない日、そして夜があることだ。ヨーロッパを始めとして世界各地を股にかけ、夜間を主な活動時間とするマスティマの任務のお陰だ。

 最初の方こそ、仕事明けにも何か食べるべき、疲れている時こそ栄養ある食事をと用意していたが、すぐに考えを改めた。

 ミッション開けのボスには関わりたくなかった。いつも以上にご機嫌斜めなのだ。恐ろしくピリピリしている。

 声でもかけようものなら、とばっちりが来ることは身をもって知った。

 そんな目に合いながらも、食事を出し続ける私の奮闘振りは噂になったようだ。

 食堂に出入りする隊員たちは皆同情的だった。彼らも私と同じような、いやもっと酷い仕打ちを受けた者もいた。

「僕なんか決裁のサインをもらいに行っただけなのに」

 見覚えのある男は泣きそうな顔で言った。

 マスティマに着いて初日、爆発音を聞いて駆けつけたところに倒れていた男だった。

 あの夜の出来事、今なら何が起こったのか想像できる。止めたグレイの気持ちも。

 過去に私の命を救ってくれた人だということを差し引いたとしても、お釣りが来る。

 恐ろしいボスに耐えられる者はそう多くなく、マスティマの隊員たちの入れ替わりが激しいことはすぐに分かった。彼らは半泣きで最後の挨拶に来てくれたのだから。

 女が入れないことも理解できた。あんな扱いをされたら続かないだろう。

 ボスが影で皆から悪魔デヴィルだと呼ばれていても仕方ない。あの人の名前はディヴィッドだというから、なるほど少し言葉がかぶっている。

 私は父に感謝した。私の名前はミシェル。

 イギリス人であった父が、大天使ミカエルにちなんで付けてくれた名前だ。数々の悪魔を成敗した勇敢な天使。

 少なくとも名前の上では私に軍配が上がっている。それを考えただけでも、また今日も一日耐えていける。

 応援してくれる声と料理を美味しく食べてくれる皆の存在が私をまた強くしてくれるのだ。

 私は胸を張る。そして、もう一枚の白衣とタオルを厨房に準備してから、ボスの食事を載せたワゴンを押して行った。

次回予告:静かな朝の空気を切り裂く悲鳴。それは城の一画から聞こえてきた。通りかかったミシェルは思わぬものを目撃することに……。

第12話:「モーニングコール(前編)」


注)ディヴィッドは聖人の名前にもある、歴史ある美しい名前だと思っています。

 ミシェルの主観としてああいう表現になってしまいましたが、著者はこの名前に対して何の偏見も中傷の意図もないことを申し添えさせていただきます。



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