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運命のマスティマ  作者: 鏡 香夜
(6) Daily work 1 マスティマの日常1
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98.マーマレードの香り

 ヘリが飛び立つとすぐにボスは、後ろの席に座るジャザナイア隊長にドアを開けるように言った。

 確かに、靴から漂うマーマレードの匂いは密閉空間では辛いものがある。換気のためなのか、あるいはレイバンの見送りに応じる気まぐれを起こしたのか、どちらかなのだろうと思った。

 結果は、どちらもはずれだった。

 彼は自分の座席から、開いたドアに向かって、ある物を外に放り投げた。

 通路を横切って外に飛び出す軌跡がスローモーションのように見えた。その正体はもうひとつの私のバスケット。

 一番前の席、つまりはボスの席に置いたままだった。今、私がいるのはジャズ隊長の席の後ろで前から三列目のシート。アビゲイルの隣だ。

 すぐさま席を立ってドアに向かうも、時すでに遅し。

 捨てられた。ショックのあまり、その場に立ちすくむ。

 バスケットの中には、試行錯誤の末にできあがったイチゴジャムとピーナッツバター、それにマスタードの瓶が入っていた。素材も厳選して各地から取り寄せたものだ。

 マーマレードは駄目になったけど、他があるから大丈夫だと思っていた。

 本社の人たちのためだけじゃない。マスティマの評判が少しでも良くなればと思って作ったのに。

「おい、ボス」

 見かねたように、振り返ったジャズ隊長が声をかける。

 ボスは無言のまま横目で彼を見やる。ヤバい雰囲気だ。

「マイケル」

 いつの間にか私のそばにいたアビゲイルが、肩をたたく。彼女は開け放しのドアから地上を見下ろしていた。

 彼女にならって覗き込むと、小さくなったレイバンが何かを片手で頭上に掲げていた。あれは私のバスケットだ。ボスが落としたものをキャッチしてくれたようだ。

 少しだけほっとした。だけど、ボスへの憤りは消えることはなかった。

「ボス、少しは下のもんのことを……」

「臭い」

 私より先に口に出したのはジャズ隊長。ボスの低い声が重なる。マーマレードの匂いのことを言っているようだ。

「靴を捨てろ」と言い放っている。

 この靴はクリスマスパーティでのプレゼントで、気に入りだから捨てられないと隊長は反論しているが、もちろんボスには通用しなかった。

「なら、お前が降りろ」

 耳を疑う。

 無茶苦茶だ。ヘリはもう地上からかなり離れたところにいる。ここで降りろなんて、死んでこいと言ってるのと同じだ。

「究極の選択だなぁ」

 ジャズ隊長は頭をひねったが、いくら大事なものでも命に代えられるわけがない。

 確かにオレンジの匂いはきついけど、いくら上司だからって、そんな命令がありえるだろうか。それも私をかばおうとしてくれたジャザナイア隊長に。

「いくらボスでも許されないことってあると思います」

 心の中をよぎった言葉をあろうことか口走ってしまった。飛んできたボスの凄みを帯びた視線で気付く。口を手で覆っても、もう遅い。

 立ち上がろうとするボスを前に後退りする。

 口は災いの元。キジも鳴かねば撃たれまい。そんなことわざが頭の中に沸いてくる。

「マイケル、そのジョーク、面白くないわよ」

 いきなり後ろから両肩をつかまれた。驚いて膝かっくんしてしまった。アビゲイルだ。彼女がすぐ傍にいたのを忘れてた。

「ちっとも笑えねぇもんなぁ」

 ジャズ隊長の合いの手を味方に、私を後ろのシートに引きずっていく。

 ボスの視線は隊長に移った。だけど、彼は気にもしていない。

「アビーに仕込んでもらえ。ブラックジョークの強烈なやつ」……なんて、笑ってるし。

「ジャズのことは気にしなくていいのよ。天然で受け流せるから。ボスに関しても年季が違うわ」

 様子が知りたくて顔を出そうとする私。その頭を押さえ込んでアビゲイルは言う。

「自分のことを心配なさい。今の高度だと外に放り出されたら助けられないわよ」

 ちょっと強引なやり方ではあるが、彼女は私を助けてくれたのだと分かった。だけど、外に放り出すって、ボスが私を?

 いくらなんでもそんな人の道に外れたことは、彼でもしないと思う。

 そう信じていたのだが、前例があるというのだ。その時は、ジャズ隊長がパラシュート担いで飛び降りて、部下を救出したらしい。

 それで、今でも空を飛ぶときには隊長はパラシュート持参。技術情報部が開発した超軽量、小型タイプ。いつでも取り出せるようにコートの下に仕込んでいるという。

 それにしてもボスは始末が悪い人だ。とばっちりがどこ向くか分からない、想定不能なんて迷惑この上ない。

 アビゲイルが小声で教えてくれたのは、悪名高い伝説。

 パイロットをタコ殴りにして航続不能……なんて序の口で、ふっ飛ばしたセスナ機のドアが落下、駐車中の車をぺちゃんこにして訴訟問題になりかけたこともあるらしい。

「その時は、ボスが示談にもちこんだのよね」

 被害者が気の毒だ。ボスを前にして「訴えます」なんて、普通の心臓では言えないだろう。

 アビゲイルは、死人が出てないのが奇跡だと締めくくった。

 そっか。ジャス隊長が言っていた「下のもん」って、部下の私のことじゃなくて、文字通り地上のことかもしれない。

 やっぱりボスは普通じゃない。私の想像を悪い意味で裏切る人だ。

「同じことを二度言わせる気か」

 ボスの冷たい低い声が聞こえてきた。

 私ははっとする。このままじゃ、ジャザナイア隊長が一番危ないではないか。

 座席から飛び出して、スライドのドアを閉めるべく手を掛ける。

 こうなったら最低限でも防止策。吹き込む風の入り口もジャズ隊長が飛び降りる出口もシャットアウトだ。

「ちょっと待て、マイケル。ひらめいたぞ」

 そう言って、ジャズ隊長は、満面の笑みで近づいてきた。

 靴を脱いで、外のステップに靴紐で固定するという。ベルト持ってろとコートの裾をたくし上げて頼む隊長。命綱の役、私でいいんだろうか。

 こちらを見てもいないボスはもちろん問題外だし、パイロットに頼むわけにも行かない。アビゲイルは私より非力そうだし。

 良かった。腹ばいでやるんだ。これならよほどのことがない限り大丈夫。

 風になびく赤い巻毛。ミッション・インポッシブルみたいだ。靴を結びつけるだけだけど。

「一丁あがり!」

 ミッション完了。扉を閉めて、満足げに拳の親指を立てて突き出す隊長。足元が靴下なのが痛々しい。

「私も匂いが辛くてどうしようかと思っていたの」

 席に戻るなり、アビゲイルは口にした。

「ボスは極端だから、誤解されちゃうのよね」

 ボスを肯定する様な口ぶりに驚く。誤解されるも何もあれがボスなんだと思う。

 これ以上騒ぎが起こらないことを祈りつつ、すっかり予定の変わってしまった昼食の段取りを考える。

 ありがたいことに祈りは通じたようで、ヘリは無事目的地に到着した。

次回予告:ミシェルは親睦会の会場に到着。ところが、それは思いもかけないイベントで……。

第99話「第三回親睦会」


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