92.御返し
翌朝、一回目のコーヒー出しの時、オスカーはまだ戻ってなかった。彼の徹夜日数を両手で数えた隊員は、復活までにあと数時間はかかると教えてくれた。
やっぱり向かうべきはアビゲイルの元だ。ワゴンを連れたまま医務室に直行。
ノックをしようとして扉が開いていることに気付いた。
話し声が聞こえる。
「ちょっとじっとして。できないでしょ」
アビゲイルの声だ。
彼女が丸椅子に座った隊員の頬に手をやってキスを迫っている。少なくとも私にはそう見えて、どきまぎした。
しかもあの赤い髪はジャザナイア隊長だ。一瞬、禁断の姉弟愛を見たかと思った。
「痛ってぇ。しみるぜ」
しかめっ面をそむける隊長。よく見ると彼の顔は傷だらけだった。
アビゲイルは綿を挟んだピンセットをてにしている。傷口の消毒をしていたのだ。
しかし、ジャズ隊長ほど医務室が似合わない人はいない。まったくの健康優良男。
一番ボスの傍にいるのだから、年中怪我をしていたっておかしくないと思うのだが、治療中の姿を見かけたのはこれが初めてだ。
アビゲイルの手から逃れようと立ち上がった彼は私に気付いて、「よう」と声をかけてくる。
「おはようございます」と返事をしたものの、隊長の格好に釘付けになった。
顔だけじゃない。制服もボロボロだったのだ。コートの袖なんか裂けてしまって、シャツどころか肌さえ見えている。どこの戦場から帰ってきたんですかと問いただしたくなる様相だ。
任務のあとだって、こんな風体のことはなかった。だとするなら……。
「ボスのせいじゃないわよ」
アビゲイルがすかさず予想を覆した。私、よっぽど険悪な表情をしていたんだろうか。
「猿たちにやられたんだ。悟空のやつ、根に持つタイプだったんだな」
思わぬところから中国関連の言葉が出てきた。アビゲイルに尋ねようと思っていたのに。
悟空は中国のサルの名前。それも中国料理の師匠宅の裏山に棲むボス猿のことだ。
「悟空って、コウエン師匠のところのサルのことですか? それにやられたって、どうして……」
「自業自得なのよ」
アビゲイルが、私に気を取られている隊長の頬に消毒用の綿を押し付ける。
隊長は息をのみ、手足をぴんと伸ばして痛みを耐えきった。
「ボスに呼ばれて、猿は好きかと聞かれてな。好きだって答えたら、中国に行けって言われたんだ。おかしいだろ。中国って言ったらパンダだろ」
ここで素直に突っ込むと話が脱線しかねないので、黙っていることにした。
「コウエンのところには昔、ボスと拳法を習いに行っていたんだ。修行の一環で、猿からミカン奪えって言われたけど、連中すばしっこくてなぁ。ボスの提案で罠を仕掛けてミカンを取ったんだけど、爺さん、やり方がなってねぇって激怒してな。三日で破門になっちまった」
予想外に謎がひとつ、ここで明らかになった。コウエン師匠が弟子を取らないと決めた理由。猿を罠にかけて怪我させた輩がいたからだって、そう聞いていた。それが隊長とボスの仕業だったとは。
世間は狭いものだ。この二人がそんなことをしなかったら、あの苦労した弟子入りのための試練もなかったかもしれない。
まあ、お蔭で料理の技術だけでなく、拳法を習う機会を得た。瞬発力も鍛えられたし、悟空たち猿との交流もできたから、結果としては良しだけど。
マスティマに入る前から、ボス関連で手を焼かされていたなんて思ってもいなかった。
「おれは悟空と遊びたかったんだが、あいつにしてみたら、かたき討ちの時がついに来たって感じだったんだろうな。えらい目にあったぜ。けど、ついでにパンダには会いに行けたから一石二鳥だな」
隊長、ことわざの使い方間違っています。
「ボスの目的はこれね」
アビゲイルが、隊長の足元に無造作に置かれていた麻袋の中から、本を取り出す。墨で書かれた手書きの文字。紐で閉じられた古文書のような装丁。
これこそまさしく、コウエン師匠の「薬膳のしおり」の原本だった。表紙に書かれた師匠の名前と、めくられたページに、見覚えのある整然とした師匠の直筆文字が並んでいることに気付く。
きっとこれを訳してくれたのは、オスカーたちだ。その苦労がどれほどだったのか、感じ取れる。
手書き文字に専門用語。普通の辞書には載っていない薬草や漢方の数々。翻訳は一筋縄では行かなかったに違いない。訳の誤字脱字が多かったのもきっとそのせいだ。
「これ、何の本なんだ? じいさんは、マスティマのコックの役に立つなら貸すって言ってたけど。ボスは、この中にボスにしか分からない秘密が隠されてるって言ってたし」
機転の利くコウエン師匠のこと。私が必要としていること、察してくれたに違いない。もっともボスの安眠のためとは思いもしていないだろうけど。
ボスの言い方もまあ間違っていない。確かにこれのお蔭でボスは眠れるようになったのだから、ある種の秘密があるには違いない。
「中国三千年の神秘ね」
ボスの事情も知っているはずのアビゲイルは、さらりと言ってのける。お蔭でジャズ隊長の関心は見事に本のことからそれてしまった。
「そういえば万里の長城は行き損ねたなぁ」
「七不思議の一つよね」
二人はそう語り合った後、はっと目を見開いた。
「そうだ」「それ」と同時に言って、互いを指さす。なにか思いついたらしく、二人して微笑んでいる。
「今度の昇給試験、それで行こう」
ジャズ隊長の言葉にアビゲイルが大きく頷く。
七不思議と昇給、どう関連しているかは分からないが、隊長は大満足で医務室から出て行った。
次回予告:倒れたオスカーを気遣うミシェル。だけど、アビゲイルは少し様子が違って……。
第93話「セクシーの条件」
お話を気に入っていただけましたら、下の「小説家になろう 勝手にランキング」の文字をぽちっとお願いします。