91.オスカーの受難
技術情報部の技術は素晴らしいの一言だ。
ディケンズ本社の同じような部署をしのぐという話を聞いたことがあるけど、なるほど頷けた。
両者はライバル同士、切磋琢磨するの間柄とのこと。オスカーはあくまで品良くそう言う。
けれど、前の嫌がらせのような豆粒文字の資料を合同会議で使ったことを見ると、少なくとも本社の方の人たちは、それほど友好的ではないのだと思う。
表立って両部署同士ののいざこざがないのは、マスティマの側の部署のトップの人柄によるものだろう。
技術情報部を束ねるは前出のオスカー。アビゲイルの旦那さんである。彼女がディケンズ警備会社の本社の技術部門からヘッドハンティングしてきたという人物。
最初は色仕掛けで連れてこられたんじゃないかとか噂が立ったらしい。なんだか、もっともらしい話だ。
アビゲイルの容姿からして、誘われたら断る男はいないと思う。だけど、その話をした時、彼女は一笑に付した。オスカーはそんな人じゃないから連れてきたのよと。
彼と接してみたら、確かにそうだと思う。
マスティマでの仕事に対して、熱い思いを持った人だ。でなければ、年中修羅場のような所にいられるわけがない。
息も絶え絶えな人たちの中で、一番耐えているのはオスカーなのだから。
仕事のスピードを落とさず、不眠不休の仕事を続ける。ただし、見た目には顕著に表れる。
艶のある黄金色の髪はぼさぼさ、無精ひげと目の下のクマ。やつれた顔に瓶底眼鏡をかけていれば、数日前の元気な頃とは、もはや別人。
今日二回目のコーヒー出し。十六時を過ぎた今もそんな感じだ。こちらにやってくるけど、ふらふらしていてまっすぐに歩けていない。多分、本人は無自覚。
彼は、私を見かけると傍まで来て必ず声をかけてくれる。コーヒーを飲む飲まないに関わらず、どんなに忙しいときでも欠かさない律儀な人だ。
片手にはミネラルウォーターのペットボトルが握られてる。
ワゴンの定位置である休憩スペースの椅子に腰を落とすと「やあ、マイケル」といつものように話しかけてきた。
挨拶を返しながらも私は違和感を覚えた。
彼はペットボトルに口をつけ、傾ける。
「ああ、体に染み渡る感じだ」とか感慨深く言ってるが、ちょっと待って。何かがおかしい。
ペットボトルの蓋、付いたままだ。
「オスカー、それ……」
私が指摘しようとしたとき、彼の上半身がぐらりと傾いた。
ペットボトルが滑り落ちて床に転がる。もちろん、水は出てこなかった。
瞬間、低い破裂音がして、オスカーの体の下にエアクッションが出現した。かろうじて人が一人横になれるスペースのそれは、彼の落下を防ぎきった。
私は慌てて駆けつける。
名前を呼びかけても反応がない。
口元が微かに動いていた。耳を寄せて言葉を聞き取る。
「チーサイ、ジースゥ……」
覚えのある単語に、耳を疑ったが、空耳なんかじゃなかった。私への挨拶の時だってそうだった。中国語だ。
それも今口にしているのは日常的に目にするとは言えない植物の名前。チーサイはなずな、ジースゥは紫蘇のことだ。
なにか嫌な予感したが、今考えるべきは目の前にいるオスカーのことだ。
「誰か、アビゲイルを……」
言葉を続ける必要はなかった。
自動ドアさえもどかしく押し開けて現れた人物、それがアビゲイルだったからだ。
彼女は小走りにやってくると、私など目に入らない様子でオスカーが倒れているエアベッドを押し出した。
技術情報部の人たちが、慣れた様子ですかさず障害物を脇へ寄せる。ベッドは滑るように動いて、エアホッケーの円盤のように救護室に吸い込まれていった。
救護室って、技術情報部の区画で救護の必要があるなんて、どういうことなんだろうとずっと不思議に思っていたが、今日はっきりと分かった。
疲労で倒れた人を救護する場所だ。過労死防衛ラインみたいなものか。
アビゲイルが来たなら、オスカーももう安心。閉まった扉の前でほっとする。
私の出る幕なんてもちろんないが、オスカーが口にしていた中国語が引っかかる。
他の誰かに聞こうと思っても、皆もう仕事に戻っている。緊張感が半端ない。いつもの、いや、もっとせわしない状況だ。
人員が一名減、それも超働き者のオスカーとなれば切実なこと、この上なしだ。
あとでアビゲイルに聞くしかない。私は技術情報部を後にした。
だが、結局その日、アビゲイルは捕まらなかった。
次回予告:ケガをしたジャズ隊長。その訳は、ミシェルもよく知るものからのリベンジで……。
第92話「御返し」
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