10.料理人の覚悟
厨房に戻ってくると、続きの食堂に一人の男がいた。グレイだ。
彼は飲みかけのコーヒーを置いて、気の毒そうに私を見た。一目で何が起こったのか察したようだ。
「派手にやられたな。まあ、初日の洗礼はこんなもんだろ」
彼も次々と慰めの言葉を口にする。
私は何も言わず、ワゴンから下した食器を厨房の台に並べていった。
「こんな目に合うんだ。今辞めたって誰も文句は言わねーさ」
何も言葉がないせいか、彼はそんなことを言い始める。うつむく私の顔を覗きこんで。
「誰がっ……」
不意にもれた、たった一言が引き金になる。
「誰が辞めるもんですか!」
私は叫びながら勢いよく顔を上げた。
おかげで、グレイと頭をぶつけてしまった。
彼は呻きながら額を押さえて後退りした。
「あんな目に合って辞める? 冗談じゃないですよ。ボスには絶対負けるもんですか」
あんな目つきの悪いゴロツキみたいな人。気持ちを込めて作った料理を粗末にされて、逃げ出すなんて自分が許せない。絶対に。
いつか彼には美味いと言わせてやるんだ。炎の決意は私を昂ぶらせる。
グレイはぽかんと私を見ていた。
そして、笑い出す。まったく愉快だと彼は腹を抱えた。
「ミック、お前みたいな奴を待ってたんだ。面白ろ過ぎだぜ」
どうもこの人は何でも面白がる癖があるようだ。
だけど、今そんなことはどうでもいい。
私はボスが手を付けた唯一の皿の料理を取り出したナイフで切り分け、口に運んだ。一口で不味いと言われたものだ。
何が不味いのか見極めなくては。よく味わってみるがまるで分からない。
そして、次に思い出したのは、ボスが最初にスープ皿に手をやっていたことだ。
私の頭にかけられたもの。
あれが引き金だとすると温度しかない。確かにかけられたとき、熱くはなかった。だが、確信はもてない。
皿を前に、腕を組んで考え込んでいると、グレイが目の前にA5サイズの古臭いノートを差し出した。
「歴代のコックの記録ノートだ。参考になるかもな」
アビゲイルが言っていたものだ。
彼が持っていたのか。道理で見つからないはずだ。
私は受け取ると、ページを開いた。日付順になっているから後ろのほうが新しいものになっている。
最後に書き込まれたページを見てみると、そこにあったのは献立やレシピなどではなかった。
『もう駄目だ。俺はもう耐えられない。
これを見た者へ。このときすでに俺はここにはいないだろう。万歳。
最後の忠告だ。ボスには逆らわないこと。
逆らったら何をされるか想像しただけでも恐ろしい。今では夢にまで見る。
現実と夢の境目がなくなってきた。
四六時中付きまとうのはボスの顔。ボスの仕打ち。
いくら高給でもここは我慢できない。
俺は辞める。自由の身だ。自由、なんという素晴らしい響きだろう』
最後のほうはミミズが這ったような文字。
何これ。まるで無人島漂流者か投獄された者の書き遺しのようだ。
私はグレイを見やった。
彼の判断は正しかったのだろう。
こんなものを先に見せられていたら、私だって決心が揺らいでいたかもしれない。
ボスの献立表のページを見つけてさらに驚く。
殆どが肉料理だ。付け合せも気持ちだけ。サラダなんかもない。きっとボスの恐ろしさに耐えかねて、こんな献立になってるんだろう。
レシピのページも無茶苦茶だ。調味料の量からして味が濃い過ぎる。
こういうのは、旦那を病気にして早死にさせたい極悪妻の料理だ。
こんな料理をずっと食べていたら、体調がおかしくなるに違いない。
若いうちはともかく、長生きできるとはとても思えない。もしかしたら、ボスが短気なのはこの傾栄養のせいかもしれない。
『温度に気をつけろ。熱過ぎても温すぎてもボスは許さない』
この走り書きにはアンダーラインが二本も引かれていた。
思わず笑いがもれてしまう。やるべきことははっきりとしているではないか。
グレイがぎょっとしたように私を見ていた。
「ボスの体質改善計画、始めます」
私の宣言に彼はさらに面白がった。
そう、コックはコックの出来ることをやればいいのだ。
次回予告:覚悟を決めたミシェルの奮闘は、マスティマ隊員たちの間で噂となる。果敢にボスに挑む彼女であったが……。
第11話「天使と悪魔」