底辺聖女の雨乞い〜婚約破棄されましたが、どうやら隣国の王様に溺愛されるようです〜
「君との婚約は破棄させてもらう」
急なことだった。
婚約者のザハールが神殿に訪ねてきたことに驚く間もなく告げられた言葉に、アーラの翡翠の瞳が揺れた。
「なぜ、でしょうか」
声も震えている。それは、ザハールにも伝わっているだろう。彼の表情が、僅かに歪む。
「君は神殿に所属する聖女でありながら、無能だ」
それは違うと、アーラは声を上げそうになったがグッと堪えた。貴族であるザハールに対して、疑問を投げかけることは許されても、反論することは許されない。
「神殿に所属して何年になる?」
「……12年です」
アーラは孤児として生まれた。
聖女としての素質を認められて神殿に入ったのが5歳の時だ。美しい金髪が決め手になったと聞いている。金髪の女性は神の力を授かりやすいのだ。
「12年間、ずっと低級から昇格していない。無能でなくて何だと言うのだ」
神殿に所属する聖女は約1000人。低級、中級、上級、そして特級に階級分けされて管理されている。神殿に入って10年もすれば、ほとんどの聖女が中級か上級に昇格している。
「しかも、寄進もできない庶民の治療ばかりに時間をかけていると聞いた」
寄進、つまり神殿への寄付ができない庶民の病気や怪我の治療は、下級聖女の仕事だ。ただし、他の聖女はこの仕事に積極的ではない。寄進してくれる貴族や商人たちの治療を優先するからだ。
寄進しない者よりも、寄進をする者。庶民よりも、貴族。それが、神殿の在り方だと信じて疑わないのだ。
アーラは、それがどうしても納得できなかった。そんなアーラは同僚からも上司からも毛嫌いされて、下級聖女から昇格できずにいるだけだ。
だが、今ここで反論することはできない。伯爵家の次男であるザハールは貴族であり、孤児院出身の下級聖女のアーラとは、そもそも身分が違うのだから。
「当家は、君が将来有望な聖女だから求婚した」
6年前のことだ。
貴族は貴族同士で婚姻を結ぶのが普通だが、例外がある。それが聖女との婚姻だ。多額の持参金は望めないが、聖女の子は聖女の素質を持っていることがほとんどで、そうなれば新たな聖女を家門から輩出できる。それはたいへん名誉なこととされている。
また、神殿に納められた寄進の一部は聖女の生家へ送られる。
そういう事情から、貴族の家では嫡男以外の男子は聖女を妻として迎えることが珍しくないのだ。
「だが、君は無能だった」
無能と繰り返されて、アーラはぐっと唇を噛んだ。
(確かに、貴族様から見れば無能でしょうね)
『無能のアーラ』、それが彼女のあだ名だ。貴族の治療を嫌がるのは無能が露見するのを恐れているからだと噂されている。その噂は、ザハールの元にも届いていたのだろう。
「とはいえ、私にも情というものはある」
アーラはパッと顔を上げた。
ザハールが苦笑いを浮かべている。
「6年間も婚約者だったんだ。婚約破棄をして、それで終いとは……。さすがの私も……」
歯切れは悪いが、言いたいことは分かった。
(嫌われたわけではないんだわ)
6年間、幼いながらも婚約者のザハールのことを思ってきた。手紙を交わし、ときには神殿の庭園で逢瀬を重ねた。
彼と過ごした時間は決して無機質なものではなかったと、アーラは思っている。
「君の、新たな嫁ぎ先を見つけてある」
それには困ったアーラだった。
アーラは結婚を望んでいるわけではないのだ。このまま下級聖女として庶民のために駆けずり回る人生も、悪くないと思っている。
だが、もちろん反論はしない。
貴族であるザハールが、わざわざ見つけてきてくれた嫁ぎ先だ。断ることは、できない。
「南に住まう、遊牧民の王だ」
アーラはぽかんと口を開いたまま何も言えなくなった。
「嬉しいだろう? 孤児だった君が、王の妻になるのだ」
ザハールが、嬉しそうに微笑んでいた。
* * *
「売られたんですよ! あんたは!」
荷馬車の手綱を握る少年が声を荒げた。
彼の名はルカ。白金の髪に青い瞳を持つ、アーラと同い年の少年だ。
「そうかしら?」
「あいつは、あんたを売って金と出世の道を手に入れたんだ!」
「そうなの?」
「遊牧民の王は、金と引き換えに聖女を寄越せと言ってきた。それを仲介したのがザハールで、自分の婚約者を泣く泣く差し出した悲劇の貴公子ってことになってるんだよ!」
「まあ」
ザハールに婚約破棄を告げられたのは昨日。翌朝には追い立てられるように荷馬車に乗せられて、南に向けて出発していた。
初めから、情などなかったのだ。
ルカの言う通り、アーラは売られた。
悲しくないわけではない。だが、アーラの気持ちはいっそ晴れ晴れとしている。
「これでザハール様がご出世なさるなら、それはそれで良かったわ」
最後の最後に、ザハールの役に立てたのだ。
「あんたって……」
ルカがガックリと項垂れた。
「それよりも。あなたまでついてくることはなかったのよ、ルカ」
「……俺は、あんたの世話係だ。どこまでもついて行きます」
彼は宦官で、下級聖女よりも下の立場だ。誰からも嫌われるアーラを慕い、たった一人で世話をしてくれていた。
「でも……」
「俺も孤児だ。あの国に未練があるわけじゃない」
「そうだけど……」
「宦官だから、花嫁の従者でもおかしくないだろ?」
「そういう問題じゃなくて……」
「しつこい!」
ルカが怒り顔で振り返った。
「もう出てきちまったんだ。いまさら神殿には戻れない。そうだろ?」
「……うん」
「それに、俺だって、あんなところに居たくないんだ……」
今度は、小さな声だった。
「そっか」
(ルカも、神殿が好きじゃないのね)
二頭立ての荷馬車は、順調に街道を進んでいる。首都の城門は既にはるか後ろ。数刻もすれば全く見えなくなるだろう。
「……寂しいですか?」
「ちょっとだけ」
「俺がついてますから」
「うん。……本音を言えばね、あなたが一緒で良かったって思ってるの」
「そうでしょう。一人では眠れませんからね、あんたは」
「それって、いつの話?」
「ついこの間も、眠れないからお話をしてくれって言ってませんでしたっけ?」
「……たまたまよ」
「ははは。そうですね。たまたま、ですね」
いつもとは違う風景が通り過ぎる中、いつも通りの会話を交わす。
二人の頬を、ねっとりと湿気を含んだ風が通り過ぎていった。まもなく、夏が訪れようとしている。
二人をのせた荷馬車が遊牧民の使いと合流したのは、首都を出発してから2週間後。遊牧民の土地に到着したのは、さらに2週間後のことだった。
羊の群れの向こうに、その人がいた。
山のように大きな黒い馬にまたがる、立派な体躯の男性だった。短く刈り込んだ黒い髪には、見事な刺繍が施された帽子。前髪の間では、琥珀色の瞳が煌めいていた。
* * *
「街があるんですね」
ポツリと呟いたアーラの言葉に、遊牧民の王・ユスフがわずかに笑った。
「ええ。街を興して街道を整備しなければ、他国との交易に不便ですから」
「確かに」
「あちらが聖女様にお過ごしいただく街、ドゥシャタンです」
ユスフが指差した先には、レンガ造りの市壁に囲まれた街があった。石造りの家た立ち並び、その中心を街道が走っている。そして、奥には大きな白亜の邸宅が見えた。
「もう少しです。行きましょう」
『荷馬車では座り心地が悪いでしょう』と言ったユスフの提案で、アーラはラクダという不思議な動物の背に乗せられている。背中に大きなコブが二つ、馬よりも首が長くて可愛らしい顔をしている。
コブの間に置かれた鞍からは籠がぶら下がっていて、そこに両足を入れて横向きに座る。アーラの華奢な身体が二つのコブに挟まれる格好になり、妙に落ち着いた。大きく揺れはするが、ガタガタ跳ねるように進む荷馬車よりは快適だった。背が高いので遠くの景色が見れるのも嬉しい。
ラクダの隣を、ユスフの乗った馬がゆったりと進む。
アーラは、その横顔をチラリと盗み見た。
(この人が、私の夫になる人……)
何もかも調和のとれた、美しい人だ。
鍛え抜かれた立派な体躯、ゆるく結われた艷やかな黒髪、すっと通った鼻梁、そして琥珀色の瞳。
故国とはまた違った趣の豪奢な服を着ている。そこかしこに刺繍が施されたそれは、何人もの職人が手をかけて仕上げたのだろう。
「……そんなに見られると、少し照れますね」
ユスフが僅かに頬を染めて言うので、アーラは慌てて目線を逸した。
「申し訳ありません。あの、お衣装が綺麗で……」
「ああ、今日は特に上等なものを着てきました。なんといっても、聖女様をお迎えするのですから」
「とても、素敵な刺繍です」
言ってから、アーラはハッとして口を塞いだ。
(また、思ったまま言ってしまったわ)
その様子に、ユスフは首を傾げる。
「どうされたのですか?」
「いえ……申し訳ありません」
「なぜ、謝るのですか?」
「ご気分を害されたのではないかと……」
蚊の鳴くような声で言ったアーラに、ユスフはさらに首を傾げた。
「褒められて気分を害したりなどしませんよ」
「そうですか?」
「ええ」
ユスフが頷いたので、アーラはホッと息を吐いた。
(気を付けよう)
元婚約者のザハールは、思ったことをつい口に出してしまうアーラのクセを嫌っていた。風が気持ちいいとか、花がきれいだとか、そういうことを口にする度に、『女なら、黙って微笑んでいてくれ』と言われたものだった。
(せめて嫌われないようにしなきゃ)
それから街に着くまでの間、ユスフが何かと話しかけてくれたが、アーラは頷くことと微笑むこと以外はしないように細心の注意を払った。初めて見る景色や文化に、本当は聞きたいことばかりだったが、ぐっと堪えた。
* * *
一行は、日が落ちる前に街に到着した。街道に出てきた人々の歓声に迎えられ、アーラは戸惑った。
(北の国から来た女が、そんなに珍しいのかしら)
「さあ、到着しましたよ」
遠くから見えたあの白亜の邸宅が、ユスフの住まう宮殿らしい。門をくぐると、立派な中庭に入った。建物は1階部分よりも2階部分の方が一回り大きく、1階はぐるりと屋根付きの回廊が囲んでいるような格好だ。回廊と建物の間には柱しかないため、1階部分はほぼ外と変わらない開放感がある。
見たことのない建築様式に、アーラはキョロキョロと視線を動かした。
「ふふふ。後で案内させますよ。まずは降りましょう」
アーラの様子を見たユスフは楽しそうに笑ってから、ひょいとアーラを抱き上げて、ラクダから降ろした。
「きゃぁ!」
小さく悲鳴を上げたアーラに、さらに笑みを深くするユスフ。アーラは顔を真っ赤にしながら、されるがままになるしかない。
「わぁ」
回廊を横切り、室内に入る。内壁は青を基調としたタイルで飾られていて、その美しさに思わず感嘆の声が漏れた。
(しまった!)
アーラは慌てて口を噤み、ユスフはそんな様子に再び首を傾げた。
「気に入りませんか?」
「いいえ。そうではなくて……」
アーラはそれ以上なにも言えず、ただ黙って微笑んだ。
「寝室は2階です。今夜はこの部屋で宴を開くことになりますので、まずは湯浴みをなさって、すこしお休みください」
「はい」
ユスフが合図すると、すぐに大勢の女官がやって来た。
「あの、私は一人でも……」
「そういうわけにはまいりません」
ユスフに言い切られて、アーラは肩を縮こまらせた。
「でも、連れてきた従者もいますし」
アーラがチラリとルカの方を見ると、ユスフが頷いた。
「神殿に勤める、宦官だと伺いしました」
「ええ」
「しかし、彼だけでは何かと不便でしょう。せめて、慣れるまでの間はこちらの女官もお使いください」
「わかりました」
女官に案内されて、アーラとルカは2階へ移動した。道すがら女官は『こちらの寝室には、夫であっても男性は立ち入ることは許されません』と教えてくれた。ただし『もちろん宦官は男性ではありませんので、問題ございません』とも。
大きな邸宅の中を歩きながら、アーラはキョロキョロと辺りを見回した。人はあまり多くない。
「あの……」
思わず、アーラは女官に声をかけた。
「はい」
振り返ってニコリと笑顔で答えてくれた女官に、アーラはもじもじしながらも尋ねた。
「他のお妃様には、いつご挨拶をすればよろしいでしょうか?」
と。
すると、前を歩いていた女官がピタリと足を止めた。
「他の、お妃様、ですか?」
振り返った彼女は、鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしていた。
「は、はい」
アーラもつられて足を止める。女官はすぐさま表情を引き締めて、スッと頭を下げて言った。
「……いらっしゃいません」
「え?」
「この宮殿に、お妃様など、いらっしゃいません」
言い切った女官に、アーラは驚いた。
(聞いてた話と、違うじゃない!)
南に住まう人々は、信じられないことに『一夫多妻』が普通なのだと風の噂に聞いていた。大きな邸宅に沢山の女性を住まわせて、ハレムとやらをつくるのだと。だから、ユスフにも他の妃がいると思っていたのだ。元婚約者のザハールも『妻といっても大勢の内の一人だ。せいぜい、気に入られるように頑張りたまえ』と言っていたのに。
平民出身のアーラにとっては、その方が気楽だった。気に入られなくても嫌われることさえなければ、ハレムの隅でひっそりと暮らしていけるだろうと、そう思っていたのだ。
その夜の宴のことは、緊張でよく憶えていない。
『王は大勢いる女からその夜に伽をさせる一人を選んで、自分の寝室に呼ぶ。まあ、最初の晩は形だけでも呼ばれるだろう』
形だけも何も、妃が一人しかいないのなら呼ばれるのは間違いない。アーラは緊張しながらも女官とルカの手を借りて身を清め、その時を待った。
ところがその晩、アーラが呼ばれることはなかった──。
* * *
翌日の朝食の席の空気は、最悪だった。
目元にくっきりと深いくまを刻み、いかにも寝ていませんという様子のアーラ。毛を逆立てた猫のように怒り狂うルカ。二人に挟まれて、何やら複雑な表情を浮かべる女官長のセナ。
三者三様の表情を見て戸惑うユスフに、早速ルカが食って掛かった。
「どういうことですか!」
「ルカ、やめて」
「こういうことは、最初が肝心です」
「まあ、そうですわね。最初は、たしかに肝心です」
ルカがアーラを押し留めて、セナもそれを支持した。セナの方は、なんだか楽しそうにも見える。セナのふくよかな顔に、にんまりと楽しそうな表情が浮かんでいる。
「ユスフ様、昨夜のことは謝罪なさった方がよろしいでしょう」
ルカに先んじてセナが言った。
言われたユスフは、驚きながらも、
「なにか、謝罪するようなことがあっただろうか?」
と首を捻っている。
とても王と女官のやりとりには見えず、目を白黒させるアーラに他の女官が耳打ちした。
「セナ様は、ユスフ様の乳母でいらっしゃいました」
(なるほど)
アーラもルカも頷いた。それならばユスフがセナにタジタジになる理由もわかる。
「お二人の間には、何か重大な誤解があるように思います」
「なるほど?」
首を傾げながら言ったユスフに、セナが畳み掛ける。
「お話し合いが必要でしょうね。二人きりで」
「ふむ。とはいえ、私はもう仕事に行かねばならん」
中庭では、馬を引いた男たちがユスフの朝食が終わるのを今か今かと待ち構えている。
「今夜は、ユスフ様のお部屋に夕飯をご準備いたしましょう」
「そうしてくれ。アーラ殿、すまないが続きは夜に」
「は、はい」
アーラが返事をしたのを確かめてから、ユスフはいそいそと出かけていった。
困ったのはアーラの方だ。これでは、今夜はユスフの寝所に呼ばれたも同然である。
「……まずは、仮眠をとりましょう」
ルカが一つため息を吐いて提案した。
「はい。その間に、お衣装を整えて、湯浴みの準備もいたします」
「酒の準備は?」
「お任せください。最高級のワインを準備しましょう」
などと、ルカとセナは息の合ったやりとりで次々と段取りを決めていった。
* * *
その夜、アーラはついにユスフの部屋に招かれた。
アーラの部屋とは北へ真反対の部屋だ。長椅子──セディルというらしい──に腰掛けて、まずは夕食を食べる。気まずい雰囲気だったが、ユスフが何やら世間話をしてくれるので、アーラはひたすらそれに相槌を打った。内容は右から左に流れていくので、全く憶えていないが。
「では、我々はこれで」
食事が終わると、ルカも女官たちも退室していった。
「それで、私たちの間にある誤解というのは?」
ユスフが緊張した面持ちで言った。
「……さあ」
アーラには、その『誤解』が何を指すのかがわからない。そもそも、誤解したもの同士だけがそれについて話し合ったところで解決などできるはずがないのだが、緊張している二人はそれに気付かない。
「あの……」
「はい」
誤解の件はさて置いて、まずは自分の務めを果たそうと、アーラは意を決した。
「私はこちらの国の作法がわかりません」
首を傾げるユスフに構わず、アーラは上着を1枚脱いだ。事前に、セナから『これを脱げばよろしいですよ。後のことは、ユスフ様にお任せください』と教えられていたからだ。
「ちょ、ちょっと、アーラ殿!」
慌てたユスフが、背を向けた。
「何を……!」
背を向けられたアーラは、たまったものではない。
「見るに耐えませんか……?」
「まさか!」
思わず尋ねたアーラに、慌てて振り返ったユスフ。何もかも透けて見えてしまいそういなほどの薄い布だけを纏うアーラの姿を見たユスフは、ぎゅっと眉根を寄せた。
「とにかく、服を着てください」
「……はい」
アーラは泣きそうになりながら、言われた通りに服を着た。
(嫌われたんだわ。……追い出されてしまうのかしら)
今にも泣きそうな顔で俯くアーラを見て、ユスフはようやく『誤解』の内容を悟ったらしい。
「セナに、何か言われましたか?」
「いえ、何も」
「何も?」
「えっと……」
言ってもいいのだろうかと視線を彷徨わせたアーラに、ユスフが頷く。それを見たアーラは、少し迷ってから口を開いた。
「服を脱げば、後のことはユスフ様にお任せすればいい、と」
ユスフは頭を抱えた。
(脱いだのに、どうにもならなかったけど……)
これも自分の容姿が悪いせいだと、アーラは歯を食いしばった。取り柄と言えば美しい金髪だけ。十人並みの顔に貧相な体つきでは、伽の相手として不足だったのだろう、と。
「……まずは、『誤解』を解きましょう」
そう言って、ユスフは長椅子から降りて正座の姿勢でアーラに向き合った。慌ててアーラも床に降りようとしたが、これはユスフによって阻まれてしまった。仕方がないので、長椅子の上で姿勢を正す。
「もしかして、なのですが……」
「はい」
「あなたは、私の、その……妻に、というつもりでこちらにいらっしゃったのですか?」
今度はアーラの方が首を傾げる番だった。
「違うのですか?」
ユスフが深い溜め息を吐いた。
「違います」
(そんな!)
アーラは心の中で叫んだ。
だとすれば、ユスフの前で服を脱いだことは見当違いも甚だしい。恥ずかしくて真っ赤になった顔を隠すように、アーラは俯くしかなかった。
「我々は貴国の皇帝陛下に、このようにお願いしました。『日照りが続き、このままではオアシスの水すら枯れてしまいます。聖女様にお越しいただき、雨乞いの祈りを捧げていただくことはできませんか?』と」
言われて、アーラははっとした。
南の方では春から雨が少なく、大変らしいという話は平民の間でも噂になっていたからだ。
「では、私は雨乞いのために?」
「はい」
「私は、てっきり……」
言ってから、ついに我慢できずに涙がこぼれた。ひっくひっくと、子供のように嗚咽が漏れるのも、我慢できなかった。
「アーラ殿」
ユスフは優しく声をかけてから、そっとアーラの隣に座り直した。
「わ、わたし……」
「はい」
「売られて、好きでもない、殿方と、け、結婚するのかと……!」
途切れ途切れに話すアーラの言葉を、ユスフは急かすことなく聞いてくれた。
「あなたは聖女様でしょう? そんなことは、誰にも命じることはできないはずです」
優しく言われて、さらに涙が溢れ出す。
「どうか、ご自分を大事になさってください」
「……触れてもよろしいですか?」
「え?」
「涙を拭くだけです。それだけは、お許しいただけますか?」
「……はい」
アーラがおずおずと返事をすると、手ぬぐいを手に取ったユスフがそっと涙を拭ってくれた。
(こんなに大切に扱ってもらったのは初めてだわ)
ずっと底辺と謗られ、蔑まれてきた。聖女のいない遠い異国の地で、アーラは初めて尊重されている。
「しかし、困りましたね」
「え?」
「アーラ殿は、雨乞いのことはご存じなかったのでしょう? もう一度、皇帝陛下に聖女様の派遣をお願いしなければ」
「どうしてですか?」
「こんなだまし討ちのような形で来ていただいた方に、お祈りをお願いするのは……」
事情を知らずに来たアーラに祈りを頼むのは気が引ける、ということらしい。
「いいえ。私にやらせてください」
「お願いできますか?」
「はい。今から新しい聖女の派遣を頼めば、また時間がかかりますし」
「確かに」
「さっそく、明日から私が祈りを捧げます」
「では。どうぞ、よろしくお願いします」
こうして誤解も解け、アーラは自分の寝室でゆっくり眠ることができたのだった。
アーラが寝室に戻ると、ルカとセナは微妙な顔をしていた。セナが舌打ちをして、ルカがにんまりと笑っていたので、賭けでもしていたのかもしれない。
「セナさんは、どうして嘘を?」
思わず口を尖らせて尋ねたアーラに、セナは鷹揚に笑って言った。
「ユスフ様は結婚適齢期ですのに、なかなかお妃様をお迎えになりませんので。渡りに船とは、このことかと思ったのですが……」
セナは、ふうと一つため息を吐いた。
「まったく。このような腑抜けに育てた憶えはございませんのに」
それを聞いたルカが吹き出したので、思わずアーラも笑ったのだった。
* * *
翌日。
さっそく雨乞いの儀式を始めようとしたアーラだったが、重大な問題が発覚した。
(神の力が、ない……?)
神聖帝国の聖女には、二つの仕事がある。一つは、人々の病気や怪我の治癒。
そしてもう一つが、儀式での祈りだ。儀式の目的は様々で、国民の健康を祈ったり、自然災害の被害を減らすことを目的に行われたりする。
前者の場合は神に祈りを捧げて、『神聖力』と呼ばれる力を授かることで傷や病を癒す。後者の場合も祈りによって力を授かり、その力を大地や空に注ぐことで目的を達する。
つまり、いずれの場合も『神聖力』を仲介するのが聖女の役割ということだ。
『祈りを捧げなさい。さすれば、神はいつ何時でも応えてくださいます』
その教えの通り、アーラが祈って神が応えてくれなかったことは一度もなかった。
ところが、街の中央に位置する泉を前にして祈りを始めたアーラに、神は応えてくれなかった。
(どうして……⁉)
両手を合わせて、いつものように祝詞を唱えた。いつもなら、すぐに体中が『神聖力』で満たされるのだが、今はその感覚がない。
(力が、なくなったの……?)
そんなはずはないと、心の中で頭を振った。聖女は生まれながらに聖女であり、その力は死ぬまで聖女と共にある。力を失った聖女の話など、聞いたことがない。
(わからない。どうすればいいの)
アーラは心の中で焦りながらも、祈り続けた。
泉の周りには街の人々が集まってきており、アーラを真似て両手を合わせている人までいる。一様に必死な様子で、神ではなくアーラに向かって手をこすり合わせている。
(たくさんの金と引き換えに読んだ聖女だもの。それに、雨乞いが成功しなければ、彼らの土地は枯れる)
それはすなわち、死を意味する。
(聖女の祈りが、最後の希望なのだわ)
そんな中で、まさか『神の力を授かることが出来ません。祈っても無駄です』などと言えるはずがない。
アーラは日が暮れるまで、ひたすら祈った。応えてくれない神に向かって。
* * *
「どうすればいいのかしら……」
その夜、寝室に入ったアーラはルカと二人きりで灯もつけずに話し合った。
「ふむ。ちょっと待ってくださいね」
ルカはゴソゴソと荷物を探り、一冊の本を取りだした。神殿から持ち出してきたのだろう。古い文献のようだ。
「それは?」
「俺の先輩から渡されたんです。餞別にって」
「餞別に、本を?」
「俺も妙だなと思ったんですけど、まあ古いし装丁も立派なんで小金くらいにはなりそうだなって思ったんです」
「確かに」
薄汚れてはいるが、確かに立派な装丁の本だ。タイトルは金で箔押しされているようにも見える。
「パラパラっとめくった時に、ちょっと見えた文章が……」
言いながら、ルカがページをめくる。古い言葉で書かれているが、2人とも神殿で教育を受けているのでなんとか読めた。聖女の歴史書のようだ。
「ああ、これですね。『国外への移動を禁ず』とあります」
「え? そんな決まりがあったの?」
「あったみたいですね。逆に、国外に出た聖女って知ってますか?」
「……知らないわ。みんな、死ぬまで神殿で暮らすんだもの」
「つまり、そういうことなんでしょう。聖女は国外に出してはならないんですよ」
そこまで言われて、アーラはハッとした。
「『神聖力』を授かることができなくなるから?」
「でしょうね。ほら、地図を見てください」
ルカが、巻末に付されている神聖帝国の地図を指差した。
「まん丸だわ」
「神殿を中心に、正円を描くように国土が形成されています。つまり……」
「ここから、ここまでが……」
アーラも気付いて、神殿から国境線までを真っ直ぐに指でなぞった。
「『神聖力』の届く距離、ということね」
「この本にもこれ以上のことは書いてないので、推測でしかありませんけど。まあ、そういうことでしょう」
そうなると、色々とまずい気がしてアーラとルカは顔を見合わせた。
「神殿は、知っていたのよね?」
「そりゃあ。知っているから、聖女を神殿で囲っているんでしょう」
「知ってて、私を売ったのね?」
「それに関しては、ザハールのクソ野郎の独断かもしれませんが」
「これって……」
ルカが、一つため息を吐いた。
「下手したら、戦争ですね」
帝国は、既に金を受け取っているのだ。それと引き換えに送った聖女が、実は神の力を授かることができない、しかも帝国側はそれを最初から知っていたと露見したら……。
「いや。ここは小国ですから、なんとでもなると思ったのかもしれません。もしくは……」
ルカは苦虫を噛み潰したような表情で言い淀んだ。
「もしくは?」
アーラが続きを促す。
「……アーラ様が聖女ではなく女として気に入られれば、問題ないと考えたのかもしれません」
言われて、アーラの胃にズシンと何かが落ちてきた。
「だから、私に『王の妻になれ』と言ったのね」
「おそらく」
この茶番を仕組んだのは元婚約者のザハールだろうと、言わずとも二人ともわかっていた。
「あのクソ野郎は呪い殺すとして」
ルカはあっけらかんと言った。
「逃げますか」
そして、さっさと荷物をまとめ始めた。
「え!?」
驚くアーラのことなど気にもとめずに、ルカは静かに必要なものをかき集めてベッドに投げ入れ始めた。シーツを使って一つにまとめるつもりなのだろう。金になりそうなものも投げ入れるものだから、抜け目がない。
「だって、逃げるしかないでしょ」
「でも」
「『神聖力』を授かることができないと、ユスフ様に知られたらどうなりますか?」
「それは……」
良くて縛り首、悪くて斬首だ。どちらにしろ、命はない。
「あなた、もしかして気付いていたの?」
「何がですか?」
アーラは、とぼけるルカの肩を掴んだ。
「聖女が国外に出たら無能になるかもって、気付いてたんじゃないの?」
「……そうですよ」
「だったら、なんで……」
ルカが、一つため息を吐いた。
「言ったところで、どうにもならなかったでしょう?」
「それはそうだけど」
「それに、ちょうどいいと思ったんです」
「え?」
「あんたを、神殿の義務から解放してやるチャンスだと思った」
ルカの言葉に、アーラの胸がドキリと鳴った。
(神殿の義務から、解放……)
それを夢見なかったわけではない。来る日も来る日も、自分ではない誰かのために祈る日々が、辛くなかったわけではないのだから。
(それでも)
「ダメよ」
アーラの言葉に、ルカの表情が歪む。
「なんでだよ。あんたは十分働いたよ。ほとんどの聖女が適当にしか祈らない中で、あんただけが真面目にやってきたんだ。平民だけじゃない、薄汚れた孤児にも手を差し伸べた。あんただけが……」
言い募るルカの肩を、アーラは優しく叩いた。彼は、アーラを救うために付いてきてくれたのだ。それを知って、心から嬉しいと思った。
「ありがとう、ルカ。でも、ダメなのよ。私は聖女だから」
その義務を投げ出すことはできない。
「じゃあ、どうするんですか?」
「……祈るのよ」
「いくら祈っても、『神聖力』を授かることはできないのに?」
「この国の人々は、聖女の祈りに一縷の望みをかけているの。今更無理だなんて言えないわ。それに、他の方法があるわけでもない」
アーラが祈っても祈らなくても、結果は変わらないのだ。
「だから、私は祈るわ」
ルカは、ようやく諦めて床に座り込んだ。悔しそうに床を殴りつけるので、アーラはその手をぎゅっと握りしめた。
「雨が降るまで祈り続けるわ。私に出来ることは、それだけだから」
* * *
アーラが祈りを捧げるようになって、10日目。
──雨は、まだ降らない。
5日を過ぎた頃から街の人々の視線が変わったのを、アーラはひしひしと感じていた。
「雨、降らないね」
「聞いてた話と違うぞ」
「聖女様が祈れば、すぐにでも雨が降るって」
「偽物なんじゃないのか?」
街の人々の噂話は、アーラの心に深く突き刺さった。それでも、アーラは祈り続けた。
朝は日の出と共に祈りを始め、とっぷりと夜が更けるまで祈り続ける。食事は簡単に済ませて眠り、また夜明け前に邸宅を出る。
ユスフとはほとんど顔を合わせない日々が続いた。
「なあ、こんなこと、いつまで続けるんだよ」
東の空が白むのを見ながら、ルカと二人で連れ立って泉へ向かう。セナや他の従者の付添は『祈りの邪魔だ』と言って断っている。
(街の人の好奇の視線に晒されるのは、自分だけで十分だから)
本当はルカにも邸宅に残るように言ったが、彼だけは頑として譲らなかった。『せめて側にいさせてくれ』と。
「……雨が降るまで」
「降らないよ」
「そうかもね」
アーラは自嘲気味に笑ったが、内心ではそこまで悲観してはいなかった。
「でも、永遠に降らないなんてこと、ないでしょう?」
祈り続けていれば、いつかは雨が降る。
「……あんた、やっぱり馬鹿だよ」
「そうかもね」
この日は、夕方頃にやってきた高齢の男性に罵声を浴びせかけられた。
「この、偽物がっ! 金を返せっ!!!」
聖女を呼ぶために差し出した金は、国中の人から集めた税金で賄われていた。彼の怒りはもっともだ。
アーラは言い返すことなく、ひたすら祈り続けた。
11日目。
茂みの奥から、石を投げられた。幸い石はアーラに当たることはなかったので、アーラは祈りを続けた。警備の兵が犯人を追いかけたようだが、捕まらなかったと。その夜、今後同じことがあっても次からは追いかけたりしないようにと、ユスフには聞かれないように警備の担当者に頼んだ。
12日目。
この日も石を投げられた。コツンと、アーラの背に小さな石が当たった。それでもアーラは祈りをやめなかった。
13日目。
先日とは違う人がアーラを怒鳴りつけた。代わる代わる別の人が来て、アーラに怒りをぶつけていく。
『どうして雨がふらない!』
『このままでは、いずれこの泉も枯れる!』
『そうなれば、死ぬしかない!』
すぐにユスフが駆け付けてくれて、彼の一声で人々は解散した。
「アーラ殿」
ユスフに声をかけられても、アーラは祈りをやめなかった。
「休んでください」
聞こえないふりを続けていたら、ルカが気を利かせてくれた。祈りの邪魔なので帰るようにと説得してくれて、夕方近くになってようやくユスフは帰っていった。
その日は邸宅に戻ると、いつもとは違う豪勢な食事が準備されていた。『祈りの間は粗食でなければならない』と言ったアーラの言葉に従って、この数日は簡単な食事とわずかな水しか提供されていなかったのに。
「召し上がってください」
ユスフに説得されたが、アーラは食べなかった。いつも通り、パンを一切れだけ食べて眠った。
14日目。
いつも通り夜明け前に邸宅を出発しようとしたアーラを、ユスフが止めた。
「今日はお休みになってください」
「そうはいきません」
「そんな身体で……」
「私なら問題ありません」
アーラは中庭で立ちふさがるユスフの脇を通り抜けようとしたが、その腕をユスフが掴んだ。
「離してください」
「ダメです。部屋にお戻りください」
「祈りをやめることはできません。また、泉の水のかさが減りました。雨が降らなければ、枯れてしまいます」
「その前に、あなたが死んでしまいます」
「私は死にません。聖女ですから」
言い切ったアーラは、ユスフの腕を振りほどいた。
「アーラ殿!」
「触れないでください。祈りの最中の聖女に触れることは何人も許されません」
アーラはルカだけを伴って泉に向かった。
この日は、他には誰も泉に来なかった。ユスフが手を回したのだろうと分かった。
ルカと二人きり、静かな泉を前にして祈りを捧げる。
(祈りって、何なのかしら)
アーラは、少しだけぼんやりする意識の中で考えた。
(『人を救う力をください』 そう祈れば、いつだって神は応えてくださった)
けれど、今は誰も応えてはくれない。
(……どうして神は、直接人をお助けにならないのかしら)
神は聖女が祈りを捧げて、はじめてその力を聖女に与える。どうしてそんな回りくどいことをするのかと、初めて疑問に思った。
(どうして聖女の仲介が必要なの? 神ならば、直接助ければいいじゃない)
そして、怒りを覚えた。
なぜ自分がこんなに苦しい思いをしなければならないのか、と。
(……そうじゃない。私が苦しいことなんか、些末な問題だわ)
アーラは頭を振った。
(いちばん腹が立つのは、人々がこんなに苦しんでいるのに、神が助けてくれないってことよ!)
キュッと合わせた両手に、思わず力が籠もる。
(人が困ってるなら、聖女の祈りなんかなくても助けなさいよ!)
祈りが届かないのだ。だったら文句も届かないだろうと思った。
(最低よ。ちょっと遠くに離れたぐらいで、人を見放すだなんて!)
その日は、心の中で文句を言い続けた。もはや祈りですらないが、それでも夜が更けるまで続けたのだった。
15日目。
夜明け前だというのに、出かけるアーラをユスフが見送ってくれた。前日のように、アーラを引き止めることはしない。ただ、黙って出かけるアーラを見送るユスフに、胸が痛んだ。
(やめよう)
アーラは思った。
(神に祈るのはやめよう。無駄だわ。どうせ助けてくれないんだから)
それでも、アーラは両手を合わせた。
(祈るべきは神じゃない。泉に、大地に、河に、太陽に、雲に祈ろう。……どうか、雨を降らせてください)
そう願った。神ではない。目の前にある自然に、ただただ頼んだ。どうか雨を降らせてほしいと。
その日の午後、一人の少女がやって来た。
何も言わず、ただ黙ってアーラにコップを差し出した。コップには、なみなみと水が注がれていた。
「聖女様、どうかお飲みください」
「いただけないわ」
地面に手をついて頭を下げる少女に、アーラは思わず祈りを中断した。
「どうか、飲んでください」
「どうして……」
「わたしたちのために、ずっと祈ってくださっているから。お願いします。どうか、飲んでください」
どうしても引き下がるつもりがないのだろう。頭を下げ続ける少女に、折れたのはアーラの方だった。
「それじゃあ」
アーラは、一口だけ、水を飲んだ。
(おいしい)
これまで口にしたどんな水よりも、それは美味しかった。
「ありがとう」
全てを飲みきらずにコップを返したアーラに、少女が顔を顰める。
「残りはあなたが」
「でも」
「気持ちは、十分いただきました」
そう言って、アーラは祈りに戻った。
そして、心の中で呟いた。
(どうか、彼女の願いをお聞き届けください……!)
その日も、夜更けまで祈り続けた。
16日目。
また別の人がコップ一杯の水を持ってきてくれた。
アーラは、やはり一口だけ飲んだ。
17日目からも、代わる代わる誰かがアーラのもとにコップ一杯の水を持ってきて、それを彼女が一口飲む。それを繰り返すようになった。
人々は、アーラに罵声を浴びせるのを辞めた。
代わりに、彼女と一緒に祈るようになった。
27日目。
──雨が、降った。
* * *
気が付くと、アーラはベッドの中にいた。
自分の部屋ではない。
絹のシーツに施されている刺繍がちがう。金の縁取りが施された滑らかな肌触りのシーツに、アーラは思わず頬ずりした。
「アーラ殿!」
彼女が目覚めたことに気づいてベッドに駆け寄ってきたのは、ルカではなかった。ユスフだ。
ぼんやりとする視界の中を探してみるが、彼の姿はない。
「……ルカは?」
思わず尋ねてみたが、喉はカラカラでまともな声は出なかった。
「まずは水を」
ユスフは優しい手つきでアーラの身体を起こし、水の入ったコップを渡してくれた。
躊躇う様子を見せたアーラに、ユスフが切なくほほ笑む。
「あれから、一日経ちました。まだ雨が降り続いています」
「では」
「はい。もう何も心配いりません」
アーラはホッと息を吐いて、コップの水を飲みほした。
「ルカ殿は、お部屋で休まれています。彼も疲れが出たようで」
「そうですか。あの子には無理をさせてしまいました」
「無理をしたのは、あなたでしょう」
ルカの心配をするアーラに、ユスフははぁと深く息を吐いた。
「……ありがとうございました」
そして、深く頭を下げる。
アーラは慌ててベッドから飛び降りて、床に手を付いた。
「謝らなければならないのは私です!」
床に頭をこすりつけながら、両手にぎゅっと力を込めた。これで全て終わったのだ。だから、全てを白状して、本当に終わりにしなければならない。
「私はこの地で神の力を授かることができませんでした。ですが、そのことを言い出せず、ただ祈り続けることしかできなくて……。私には、何もできませんでした……」
苦しむ人のために、アーラはあまりにも無力だった。
「……知っていました」
「え?」
「あなたが神の力を授かることができないと、ルカ殿から聞いていました」
「いつから?」
「15日を過ぎたあたりから。ルカ殿が、どうかあなたを解放してほしいと懇願してきたのです」
知らなかった。
そんなことをすればルカも打ち首になっていたかもしれないのに。
「顔を上げてください」
そっと、ユスフの手がアーラの肩に触れた。
顔を上げると、ユスフの琥珀色の瞳がアーラをまっすぐ見つめていた。
「あなたが雨を降らせたのです」
「違います。雨が降るまで祈っただけです。私の力などではありません」
「いいえ」
ユスフがアーラを抱きしめた。
ぎゅうっと、優しく、でも、力強く。
「我々を救ったのは神などではない。……あなただ」
ポロリ。
涙がこぼれた。
「ありがとうございました」
ユスフは何度も何度もくりかえし、アーラはポロポロと涙を流し続けた。
* * *
数日後、すっかり元気を取り戻したアーラは、荷造りを始めた。
「本当に帰られるんですか?」
セナとルカは、荷造りを手伝いながらも不満顔だ。
「ええ。雨が降ったのなら、聖女はお役御免でしょうから」
といっても、アーラには国に帰るつもりはこれっぽっちもない。
(神を裏切ってしまったんだもの。聖女には戻れないわ)
行く当てなどないが、いつまでもここにいるわけにはいかないのは確かだ。
(お別れをしなくちゃ。……ユスフ様とも)
ふと、あの夜のことを思い出した。
泣きじゃくるアーラを、ユスフは優しく抱きしめてくれて。そのまま夜明けごろまで過ごした。泣きつかれていつの間にか眠ってしまったアーラは、再びユセフのベッドに寝かされていた。
それからは、ユセフは忙しいらしく、まともに話ができていない。
寂しい、と思う。
もしも許されるなら、これからもこの土地暮らしていきたい、とも。
だが、それは許されないことだ。
雨乞いのためにやってきただけの聖女なのだから。雨が降れば、去らなければならない。
アーラは黙々と荷造りを進めた。
といっても、もともと大した荷物はない。大きな袋一つ分になった荷物を抱えて、アーラは立ち上がった。
「ルカは、このままここでお世話になりなさい」
「え」
「セナ様、お願いできますか?」
「そりゃあ、まあ。働き者ですし、我々としてはありがたいですが」
「では、くれぐれも、よろしくお願いします」
セナに深く頭を下げて、アーラはさっさと部屋を出た。階段を下りて、回廊から庭へ出る。
と、そこに馬蹄の音と馬の嘶きが聞こえてきた。
「アーラ殿!」
ユスフだ。
愛馬に乗ったまま、庭に駆け込んできた。
彼も馬も汗だくで、どうやら急ぎの用件があって帰って来たらしく、荒い呼吸を整えることもせずに慌てて馬から降りている。
「私はこれで失礼いたします。どうかお元気で」
彼の仕事の邪魔をしてはいけない。アーラは手短に伝えて、さっさと門へ向かった。
ところが。
「お待ちください!」
汗だくのユスフがアーラの腕を握って引き留めた。
「……はい」
本当なら、こんな風に引き留めてほしくなかった。
別れなどさっさと済ませて、さっさと去ってしまいたい。
これ以上この人の顔を見ていると、離れがたくなってしまうから。
アーラの気持ちを知ってか知らずか、ユスフは彼女の手を握ったまま、その場に跪いてしまった。
彼女の両手を握り、下から覗き込むようにして翡翠の瞳を見つめる。その琥珀色の瞳があまりにも真っすぐで、アーラは思わずたじろいだ。
「まだ何か、ご用がありましたか?」
言いながら視線を逸らすが、ユスフは逃がさないと言わんばかりにアーラの手を引いた。二人の距離が、近づく。
「行かないでください」
ユスフが言った。
胸を締め付けるような、切ない声音だった。
「あなたを愛しています。どうか、私の側にいてください」
また、ポロリと涙がこぼれた。
アーラは何も答えられなかった。
それでも気持ちを伝えたくて、ユスフの両手を握り返す。
初めてなのだ。
誰かに愛していると言われたことも、側にいてほしいと言われたことも。
うれしくて、切なくて。
涙を流し続けるアーラを、ユスフが優しく抱きしめてくれたのだった──。
それから数年後。
南の遊牧民の王のもとに生まれた金髪の少女が、北の神聖帝国の神殿の門を叩くことになる。
それはまた、別のお話──。
Fin.
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