第49話 バジリスクの異変
バジリスクの攻撃がいとも容易く躱される。ザラクは瞼を閉じ、あたかも相手の動きが見えているかの如く縦横無尽に駆けまわっていた。
「モッ?!」
これにはアーリナのみならず、ポーチから目元までを覗かせたモーランドも唸った。彼女はその声に気づき、牛の頭を慌てて押し込む。
「勝手に出ちゃダメ! 誰かに見られちゃマズいでしょ」
「モ、モーしわけございませぬ……」
面目ないと顔に書くモーランドだが、気持ちはわかる、と、アーリナは思う。だってこれまで、ザラクがあんなに強いとは思わなかったし、修行自体もまだ始まったばかり。そのうえ、何で目を瞑ったまま避けれているのか。
アーリナとモーランドは、もはや達人の域とも呼べる彼の戦いぶりにただただ驚愕していた。
「でもさ、何で急に? って、あれ? なんか足りないような……」
アーリナはザラクの活躍を目の奥に焼きつけながらも違和感を覚えた──そして気づく。彼が髪をかけた耳元に、あるはずのものが見当たらなかったから。
「あ~っ、私わかったかも! 耳栓がない」
「モッ、耳栓? 言われてみれば確かに──と、いうことはつまり……」
「うん。ザラクは多分、見てるんじゃなくて、相手の音を訊いてるんじゃないかな?」
彼女の声にモーランドも深く相槌を打つ。けれども本当に、相手の動きを視覚的に一切追うことなく、音のみを頼りに戦うことなどできるのだろうか? だが現に、ザラクはバジリスクを圧倒しだしている。
「へんっ、ようやく耳が役に立つ日がきたようだ。特にお前、見るより訊く方が早いぜ。地面を這いずる音、首を振る音も、何なら口を開けただけでも手に取るようにわかる」
「ギシャアアー」
聞こえる──狙うは、魔石から溢れる瘴気の切れ目。ザラクは両手に握った短剣で、牙を剝きだすバジリスクの頭を片方の柄で叩き、もう一方を首筋目がけて振り抜いた。
かたやガトリフも距離を取って獲物に照準を合わせる。薪と見紛う太さの矢を弦にかけて剛腕で引き絞った。
これには誰しもが思ったはずだ。ついに勝負は決した、と、がしかし、
「な、何っ、どこにいきやがった?!」
「っく、これはマズいな」
突如として彼らの前から蛇の姿が消えた。如何にして消えたのか、ザラクには分からなかったが、ガトリフの眼はそれを見逃さなかった。
ザラクの短剣がバジリスクの首を掠める寸前、蛇の体は急激に収縮した。それも予想を遥かに超えて、視界から消失してしまうほどに小さくなったのだ。
バジリスクは体の大きさを自在に変化させる。ガトリフ自身が見聞きしたところでは、おおよそ巨大化は二回りほど、逆に縮小は、箒程度の長さまでだと思っていた──けれど、彼の瞳にはまるで砂埃にでもなったかのように、何一つ映ってはいなかったのだ。
「おいおい、どうする。消えちまったぜ」
ザラクは音で追うことを諦め、周囲に目を走らせた。ガトリフも矢を取り替え、魔弓を構えて警戒を強める。
一方、アーリナはその様子を遠目に見つつ、
「ど、どこにいったの? お願いだから、ここじゃなくてザラクのとこでお願い」
と、他人任せの祈りを口にした。その直後、
「ぎしゃしゃしゃ?」
彼女の足元から小さな鳴き声が聞こえた。風に吹かれて消えそうなほどのか細い声。アーリナは恐る恐る、声のした地面に目を落とした。
「はぇ?」
彼女の口が丸く固まる。踝付近に擦り寄く小さな影、それはまさしくバジリスクそのものであった。今の今まで見ていた凶暴な姿がただ縮んでそこにいる。
アーリナは「いやああー」と、思わず悲鳴を上げた。
「ぎしゃああ?!」
同時に、蛇も小さな口を一杯に開けて鳴いた。バジリスクは彼女の声に驚いたのか、足元からスルスルと逃げだし、少し離れた瓦礫の影に身を隠した。そして、こちらを窺うようにちらりちらりと、鎌首を持ち上げる。
「え、えっと、どういうこと? 襲ってこない、ね……」
アーリナが不思議に首を傾げていると、悲鳴に気づいたザラクとガトリフも駆け寄ってきた。
「おいどうした? ヤツを見たのか?」
「嬢ちゃん、無事か?」
「え、あ、うん。ただね、あそこ」
彼女は静かに瓦礫の山を指差し、ザラクたちも目を凝らした。
「おっ、居やがった! いつの間にあんなところに」
「おい少年。俺は右手に回ろう、君は左からだ」
さっそく彼らは蛇を仕留めようと動きだしたが、アーリナは両手を広げて、それを制止した。
「ちょ、ちょっと待ってくれる?」
「アーリナ、今はそれどころじゃねえ。話は後だ」
「後じゃダメなの。お願い、ガトリフさんも訊いて」
彼女はバジリスクの様子を、ザラクとガトリフに簡潔に伝えた。それに対し、彼らは二人揃って眉を顰めた。これだけの惨事を起こしておきながら、その諸悪の根源たる蛇の命に待ったがかけられている状況に不満を滲ませたのだ。
「なあおい、あの蛇がやったことは断じて許されねえことだぞ? それに魔物だ。またいつ襲ってくるかも分からない。怯えてんなら逆に好都合じゃねえか。今しか殺れねえかもしれねえぞ」
「でも、操られてるのかもって言ってたじゃん」
「嬢ちゃん、俺も少年の意見に賛成だ。たしかにあの魔石の影響はあるかもしれん。蛇の意志か、魔石の指示か。だがな、それも憶測……。憶測では町は守れない。あれは子供だが、末は恐ろしい魔物であることに変わりはないのだ。ここで逃せば、また必ず現れる。最悪、前回襲った個体までをも引き連れてな。そうなってからではもう遅い。頼む、どいてくれ」
凄みをきかせたガトリフの眼光。アーリナは見るに堪えず俯き、「わ、わかっ──」と、言いかけたそのとき、
「大変だっぺよお~、アーリナ様~! 騎士が、騎士たちっぺがあ~」
遠くから大慌てで、バスケスが走る。その奥には、多くの騎馬が隊列を組んでこちらへと向かっていた。




