第45話 伝説再び
アーリナたちが急いで宿の外に出ると、すでに遠くの空が朱く染まっていた。夜空を焦がす赤き炎と、風に流れる煙幕。寂れた街路を手前に向けて、大勢の人々が逃げ惑っていた。
相手が魔物だけに、この襲来までは予測はできないのだろうが、それにしても警備が手薄すぎる。だってここは曲がりなりにも端とはいえ王都なのだ。
七つの自治区のうちの一つが魔物によって襲われ、火の手が上がるほどの被害を受けている。にもかかわらず、抗う騎士の一人たりともアーリナの目には映っていなかった。
ガトリフが、「君たちはここにいろ、私はすぐに魔弓を取ってくる」そう告げて、再び宿の中へと入っていくと、アーリナたちは互いの顔を見合わせ、「行こう」の掛け声とともに、彼の意に反してその場を離れた。
逃げる人々の流れに逆行して、アーリナたちはひた走る。奥へ進めば進むほどに、彼らの頬は橙に染まり、火の粉の熱を肌で感じていた。
「ねえどうして、なんで騎士は出てこないの? もうとっくに来たっていいはずよね? フィットリアですらこんなことないのに」
「ああ、何かきな臭えな。王都の町中だぜココ? 攻められてるようなもんだろ。何が正義の王国騎士団だっつうんだ」
ザラクは憤懣し、あたりに目を落とす。男や女が倒れている。建物に潰され、上半身だけを覗かせた者。皮膚が溶けた蝋燭のように爛れた者。もはや人かどうかもわからないほどに切り裂かれた者。燃えさかる民家からは、逃げ遅れた子供の泣き叫ぶ声までもが耳を穿つ。
助けたくても助けられない。アーリナとザラクは自らの無力さに、心の底から腹が立っていた。まだ多くの人々が取り残されている。なのにどうして誰も助けにこない。かといって、ここで斧神の力やタウロスロードを召喚するわけにもいかない。魔物に怯えている状況下では、より一層の困難を招きかねない。
「アーリナよ、予を振るえ」
そのとき、彼女の想いとは違えたラドニアルの声が聞こえた。腰に下げたポーチから蒼白い光が漏れ出ている。
アーリナがそっとポーチを開くと、斧神はポワンと反応、そして、
「何を迷う必要がある。お前の心はこの町を救いたいと願っておるぞ。ならば振るえ。もはや一刻の猶予もない」
と言葉を紡いだ。かたやアーリナはそれを訊いて、顔をブルブルと横に振った。
「ダメ、できないよ。だって、ここで神の力なんて使っちゃったら、皆だって混乱しちゃうかもだし、それにフィットリアを守るどころか、王都にまで目をつけられるかもしれないだよ?」
「ほう、であれば、ここの者たちは見殺しにする。それがお前の決断であるということだな」
「そ、それは……」
そうなのかも知れない。フィットリアは私の故郷であって、王都は違う。初めてきたし、ここの人たちには何の縁もゆかりもない。それでも、胸が痛むんだ──アーリナは、胸元を服の上からグッと掴んで俯いた。
「なぜだ? お前の心は痛んでおるぞ? それに、モーランドはともかく、予の力を振るい敵視されるのならば、王都もろとも奪えばよかろう。お前の願いは最終的にそこに繋がる。早まるだけのことであろう」
「はぇ、何で、それを?」
「予が住まうはアーリナ、お前の心だ。隠しごとなど、できると思うな」
彼女は下唇を薄く噛み締め考える。ラドニアルのいうとおり、予定が早まるだけ。だがそれも急激にだ。仮に斧神の力を狙うライアット候にでも勘づかれたりでもしたら、状況はより深刻さを増す。
──ここ王都は本当に戦場と化してしまうかもしれない。
アーリナは決断することができなかった。その間にも、逃げ遅れた民たちがその悲鳴ごと炎に包まれていく。毒々しい液を被り、肉体がドロドロに溶け落ちていく者たちも。
なんで来ないの? もうだいぶ時間は経った。それなのに何故、国は助けに来ないの?──アーリナは奥歯を噛み締め、ザラクはその横で、「もういい、やろうぜ俺たちで」と黒光りする短剣を両手に構えた。
次の瞬間、彼らの背後から、
「ギシャアアー」
悍ましいまでの耳をつんざく音が響いた。反応したザラクはすぐに振り向こうとしたが、アーリナがハッとし、彼の体を制止した。
「ダメ! 向いちゃダメ。覚えてるよね? 顔を見られたら石化しちゃうよ」
そう、彼女のいうとおり、この領域に転がっているのは生身の亡骸ばかりではない。風化した石のように、ボロボロと崩れる人の形をした石像がたしかにあるのだ。
ガトリフは言っていた、顔を認識した者を石化すると。であれば、決して魔物を振り返ってはいけない。今まさに、この咆哮の先に、惨状を生み出した怪物が体をうねらせ狙っているのだ。
「くっ、じゃあどうする。俺たち、顔を隠すもん持ってねえぞ。いや、口元だけでも隠せればいけるんじゃないのか?」
ザラクはそう言って、躊躇なくお気に入りだった服の袖を短剣で切り取り、急いで鼻から顎先にかけて白い布で覆った。彼はそのまま、もう片方の袖も切ると、アーリナに手渡し「お前も巻け」と告げる。
「こんなんでいけるの? 目は隠せないよ?」
「あのオッサンも言ってたじゃねえか、顔として認識されなけりゃあいいんだろ?だったら、鼻と口隠せばそれも無理だろ? 仮面美人だっているんだからよ」
言われてみればそうだ。マスクをつければ、その下は見る人の想像で美化されやすい。つまりは相手を欺けるし、それは魔物であっても例外ではないのかも──とはいえ、もしこれで振り向いて二人揃って石化なんてしたら。
あれこれと迷ってるうちに、敵はもう迫っている。こうなったら一か八かよ──アーリナはザラクから白布を受け取り、同じく鼻から下を覆った。
「よし、じゃあ後はやるしかねえ。俺のことは心配要らねえぞ。これでも少しは鍛えてきたし、モーランドとも鍛錬積んでるからな」
「モハッ、何を言うか、まだまだ修行は始まったばかりであろうが」
ザラクの意気軒昂をへし折るモーランドのぼやき。ザラクは「うるせえ、そこで黙ってろ」と、アーリナのポーチを睨みつけた。
背後に忍び寄る、バジリスクの魔の手。アーリナとザラクがその気配を感じ、恐る恐る振り返ったところ、鎌首を持ち上げたゴツゴツとした岩石頭の巨大な蛇が、彼女たちを見下ろしていた。
「は、離れなきゃ」
アーリナがそう口にしたそのとき、バジリスクが鋭い牙を剥き出しに襲いかかった。




