第32話 動き出す陰の思惑
シュトラウス領 ライアット邸──その窓辺に立ち、遠く空を見つめる一人の男の姿があった。
漆黒のローブに身を包み、その腰には蒼水晶が輝く煌びやかな銀色の杖を佩いている。長い銀髪をかき上げながら、重い溜息をついている彼の名は、
ジェルドマン・ライアット。
爵位では『ライアット候』として崇められ、現シュトラウス領の領主にして、最強の魔法使いの名を欲しいままとする唯一無二の存在。
(あれはこの世のものではなかった……。まさしく、神の力に違いない)
ジェルドマンは、今も変わらず信じ続けていた。遡ること10年前のあの日、初めてフィットリア領内で感じた異質な魔力の存在のことを──。
外は嵐。降りしきる大粒の雨が、激しく窓に叩きつけている。窓を打った雫は跡を残して流れ落ち、窓枠にあたって溢れ出していた。
空が泣いている、まるで涙のようだ──彼は独り言ち、己の力を否定された過去の想いまでをも引きずり出していた。奥歯を噛み締め、血が滲むほどに拳を握った。
「だがもうよい。ようやく、お前との因縁も終焉の時を迎える。私の足下にも及ばぬことを、今度こそ世界に知らしめてやるのだ。せいぜい赤子のように指を咥えて待っていろ、なあ、ダルヴァンテ」
ジェルドマンは確固たる決意を零し、雨粒の表面に愉悦の表情を浮かべた──だが、その顔には直ぐに、暗い影が舞い降りた。
「くっ、ダメだ──ダメだダメだダメだ、何故だ、なぜ私が!」
プライドがズタズタに引き裂かれた、あの事件。一度はこの手に落ちたフィットリア領を、一人の男の反乱によって奪い返された屈辱の敗戦──どれだけ感情を喜びで満たそうとも、あの呪縛からは逃れることができない。
(あと少し、後少しで決着がつく。なのにどうして、私は抑えられないのだ)
ジェルドマンの心を支配する感情はすでに怨恨の域。たった一人の名もなき領民だったダルヴァンテ──その奴に、してやられた幻想のような現実。
彼の人生はあの日を境に、大きく狂いだしていた。
頭は下げるものではなく、下げられるものだ──ジェルドマンは常々そう思っていた。しかし、先代の頃から長年、同盟を結んでいたヴェゼナ領の領主からは、
『我らとの同盟はここで一旦白紙といたしましょう。雷神と謳われる貴方が、よもやあのような失態を。このような状況下ではとても対等な同盟関係を維持できるとは思えませぬなあ~、ワシが貴殿の尻を拭うはめになる。紙じゃああるまいし、ですなあ~』
嘲笑うように見下げられ、彼の心は溶岩のように煮え滾っていた。それでも何一つ言い返すことなどできなかった。敗北は紛れもない事実であり、当時の有様では、他領と事を構えることは得策ではないと判断したから。
ジェルドマン自身の魔力の枯渇、権力の失墜。領として戦う余力すらも残されてはいなかった。魔力はその量が底に近づけば近づくほど、回復するまでには時間を要する。
ダルヴァンテとの戦い一つで、ほぼ空になるまで魔力を使い果たし、そのうえ多くの兵までをも失い、次第に領民らの忠誠心すら離れていった。
フィットリアからの撤退以降、周辺領からの度重なる威嚇や言動に晒され、苦悶の日々は続いた。そして挙句の果てには、
『シュトラウス領も落ちたものだ。先代のトラウスラー様の頃では、考えられぬほどにな』
『ああそうだな。あのドラ息子、たまたま〝雷〟という最強種の属性に恵まれたからといって、図に乗り過ぎたのだ。魔力量では我らにすら遠く及ばぬと言うのに──』
『フハハッ、確かにな。どうだ? ここは一つ、手を組んでヤツを引きずり降ろさないか? 我らにも領主となる権利がある。恵まれた属性、ただそれだけの男に頭を下げ続けるなど、未来永劫、ワシはもう御免蒙りたい』
『ハハハハ、それは言えてますな』
身内であるはずの貴族連中にも陰口を叩かれ、彼らの陰謀めいた話にも頭を悩ませてきた。
──だが今は、時が来るのを待つことにしよう。
ジェルドマンは消耗しきった魔力が戻るまでの間、誰にも知られぬよう、ただ一人、屋敷の地下深くに広がる地下迷宮へと身を潜めた。
彼が人前から姿を消して幾月──貴族は勿論、多くの領民達も、領主は失踪したと歓喜で満ちていた。恐怖による圧政が終わりを告げたのだと、毎夜のように街総出の宴会に浮足立っていた。
街の雰囲気は大きく様変わりしていたが、ジェルドマンの屋敷だけは何ら変わらず佇んでいた。彼が最後の力を振り絞って張り巡らせた結界によって、何人たりとも手をつけることができなくなっていたからだ。
そんな開かずの扉となっていたライアット邸の扉が、ギイィと重たい音を立てて開くと、街ゆく群衆はまるで背筋が凍りついたかのように立ち止まり、その奥へと視線を注いだ。
姿を現したのは、領主ジェルドマン・ライアット、ただ一人──久しぶりに踏み入った我が領内。今日も街では多くの貴族や領民で賑わい、出店も多くひしめいていた。
彼はその中へとゆっくりと進んだ。喧騒は瞬く間に消え去り、群衆をかき分けるまでもなく、ジェルドマンの前には自然と道ができていた。
貴族らが囲むテーブルへと到着した彼は、空いている席へと腰を下ろし、静かに足を組んだ。
『私にも、一杯もらおうか』
『ラ、ライアット候……。な、なぜ……』
あの時の貴族や領民連中の驚愕の眼は今でも忘れられない。何とも愚かなものだ。
『なあお前たち、教えておくれ。私と対等のテーブルについたままで、話を始めるつもりか?──いいや、有り得ぬだろう? 貴様ら全員、さっさと地に伏せ』
ジェルドマンは蛇眼のごとき目で彼らを流し見ると、勢いよくテーブルを蹴り飛ばした。そして空高く宙を舞った。
『貴様ら、ようやくいい顔つきになったじゃないか。だが、もう用済みだ。これからのシュトラウスにお前らは必要ない──ではさらばだ、死して悔いよ。滅せ、星降雷』
ドゴンッ──全ては一瞬だった。雷鳴が轟き、苛烈な雷撃があたかも流星群のように次々と降り注いだ。
轟音に飲まれ、迸る光はその場に居る群衆を黒焦げに染めていった。香ばしい肉の香りが漂っていた宴会の場に、焼けた人肉の香りが充満し置き換わっていく。
光の煌びやかさに凄惨な悲鳴が混じり合う畏怖なる光景が、ジェルドマンの復活を高らに宣言した。
『誰が恵まれただけの男、だと? 甚だ深淵なる愚考。失った魔力を取り戻し、より強大な力とするため、私がいったいどれだけの魔物を狩り取ってきたことか。どれだけの泥水を啜ってきたことか……。んぐっ、思い出すだけでも、怒りで脳髄までも沸き立ちそうだ』
ここに至るまでの苦しみ、憎しみを、僅かな時でも忘れたことはなかった。ようやく領主として返り咲いたジェルドマンだったが、それ以降も長きに渡る評議会での抗争に、彼の我慢は限界だった。
『評議会など無駄。ハッキリしない連中など、この手でいずれ葬り去ってくれる。だが、まあよい。それより──』
彼にはずっと気がかりなことがあった。数年前から度々感知されていた強力な魔力の存在と、魔晶の森に蔓延る異変のことを。
──そしてつい先刻、状況が一変した。ジェルドマンは感情を抑えきれず、唇の端を不敵に吊った。
「フフフフッ、感じた。たしかに感じたぞ。これこそ、私が長年追い求めていたもの。魔力と呼ぶにはあまりにも強大だ。あの時感じた力と全く同じ。やはりあの森には何かがあるのか……。おい、お前! 今すぐにヴェルモンドを呼べ」
彼からの急な命令に、部屋前に立っていた衛兵は、「は、はい! 直ちに呼んでまいります!」と返事と同時に慌てて走り出した。
◇◆◇
「ふふっ。クルーセル伯もご冗談がお上手にありんす」
「あ~いえいえ、とんでもございません。マクゴナル伯」
フィットリア領主ダルヴァンテは、妻マリアと次女リアナ、執事のレインとともにドーランマクナ領の社交パーティーに訪れていた。
この場所は邸内のとある一室。大理石の長いテーブルを挟み、ドーランマクナ領領主であるルゼルアとの歓談に頬を緩めていた。
フィットリアから持参した土産の紅茶を啜り、茶菓子とともに舌鼓を打つ二人。
紫色の長い髪をポニーテールのように赤いリボンで結いまとめ、豪奢なドレスに身を包んだうら若き領主。胸元に掛けてあったナプキンを手に取り、優しく口元を拭う。
髪色同様、深い紫色の光彩をキラキラと輝かせ、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「クルーセル伯、妾のことはルゼルアと呼んでおくんなまし。もう長いお付き合いになりんすゆえ」
「たしかに、長い付き合いになりましたな。まだ御父上がご健在の頃からですから、かれこれ5年──わかりました、では失礼して、ルゼルア様」
「ええ、そのほうがよきにありんすね。それでご令嬢はどちらにおられんす?」
現在、妻マリアは社交パーティーのダンスに夢中であり、リアナとレインは屋敷から離れた別の場所へと滞在していた。
ダルヴァンテは啜っていた紅茶をテーブルに置きつつ、苦笑いで、
「ああ、それがですねえ。娘は秘書とこちらの魔闘館にお邪魔させていただいているようです。落ち着きがなく大変申し訳ない。まだ幼年ゆえ、ご容赦いただければ──」
と頭を下げ、その返事にルゼルアは首を静かに横に振った。
「いいえ、そうではありんせん。リアナ嬢のことは既知にござりんす。妾が知りたいのは、貴方の長女のことにございますれば」
「長女のこと、にございますか」
ダルヴァンテは一瞬、言葉に詰まった。その様子に彼女は口を押えて、上品に笑う。
「フフフ。何を口籠る必要がありんす? また何か御冗談でも?」
「いえ、そうではありません。以前にもお話ししたとおり、長女のアーリナは外交には不向き。ゆえに同行はいたしておりません。そのうえ生まれながらに魔力も宿しておらず、魔物も多い道中では危険もありますゆえ──」
そんなダルヴァンテの答えに、ルゼルアは目を細くした。
彼女はゆっくりと席を立ち、彼に背を向け窓際へと歩きだした。扉と見紛うほどの大きな窓を押し開き、「んん~、実にいい空気にありんす」と頬を愉悦に染め、両手を上げて背筋を伸ばした。
「やはり、空気の入替は必要にありんす。こうして場が淀んでいては、良き話を訊けそうにもござりんせん──ところで、貴方様は妾に嘘などついてはおりんせんか?」
彼女はそのまま空を見上げ、ダルヴァンテに言葉の刃を突き立てた。彼は内心、その言葉によろめいていた──だが、感情は表には出さず、冷静という名の装束を纏い応じた。
「ルゼルア様もご冗談ですか。長女の件に関してであれば、全ては真実にございます。それに前々からお伝えしているとおり、アーリナに家督は譲りません。ゆえに無用な外交は避けとうございます。クルーセル家次期当主として、私の後継となるのは次女リアナ。貴方様ならお分かりのはず。彼女は稀に見る逸材であると」
ダルヴァンテの真摯な眼差しに、ルゼルアは納得の笑みを返した。
「フフフ、そうでありんすね。確かにあの子は末恐ろしい魔力を秘めておりんす。ふう~、妾もこんな晴れやかな空を見ていたら、体を動かしたくなりんした。少し、外に出てまいりんす。それに貴方様をお借りしたままでは、奥方にも申し訳ありんせん」
「ハハハハ、ご配慮に感謝申し上げる。妻も最近はダンスに熱が入りっぱなしで困りものです。では、また後程」
この提案に彼はホッと胸を撫でおろした。領同士が隣接する状況を考えれば、たとえ小さな亀裂であろうと、なんとしても避けなければならない。
ダルヴァンテ自身も、ルゼルアの持つ強大な魔力には常に警戒心を抱いていた。
彼女は齢20歳。どれほどの鍛錬を積めばあれほどの魔力を……末恐ろしいのは、魔女と謳われる貴方も同じだ──彼はそう心に留め、入口まで歩いてドアノブに手をかけた。
部屋を出たダルヴァンテが、ルゼルアを振り返って一礼し、静かに扉を閉めると、彼女の目は「あの戯けめ」と鋭く吊り上がった。
「妾の目を節穴とでも思っておりんすか……。アーリナ、貴方は素晴らしい。あの力は妾の傍でこそ輝くでありんす。断じてライアットになど、渡しはいたしんせん」
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