第30話 神業:斧神の天秤
数分後──アーリナの苛々はついにピークを迎えていた。ミサラはペコペコ、ラドニアルはブンブンと斧刃を左右に振っていた。
「それだけはゆかぬ。予の飯抜きだけは断じてあってはならぬ」
「ア、アーリナ様、申し訳ございません。私としたことが、このような紙野郎についムキになり──」
「もういいから、ミサラはさっさと剣を収めて。それからラドニー、あなたはちゃんと私の質問に答えなさい!」
「うむ? 予に何かを問うた、だと?」
「ええそうよ。ええと、あれ? 私、何を訊いてたんだっけ?」
アーリナは眉間を険しく、不思議に頭を傾げた。あまりの鬱憤に忘却の彼方へと消え去ってしまった質問。ラドニアルは「やれやれ」と溜め息を零して彼女を諭した。
「お前の知りたかったこととは、予の力のことでは? それに関することを問うたのではないのか?」
「そ、そうよ! それそれ」
斧神ラドニアルの力、その発動条件と制限──このことについては斧神自らが、幾度となく話そうとしていたことではあったが、アーリナは現在に至るまで聞く耳を持たずにいた。
「ようやく訊けるのね──って、分かったならさっさと教えなさいよ」
「はあ~、予は何度も話そうとしておったではないか。その度にお前というやつは……。いや、もうよい。では今度こそ、しっかりと訊いておくのだぞ」
ラドニアルの口から語られる、秘められし力──それは〝神力〟と呼ばれる魔力の源水とも言えるほどの強大な力のこと。
神々は地上に降り立つ際、御神体を武器へと変化させるが、神力もまた魔力として置き換わる。その魔力は通常、長き年月を重ねて練り上げられ、強弱は質と量に大きく左右される。
強さは練度、量は期間。人間であれば長きに渡って修行を積み、歳を重ねることで高みへと至れるものだが、神力ベースの魔力ともなれば、どちらの条件もすでに満たされているのは言うまでもない。
そして、魔力を消費し発動する力には、〝魔法〟と〝スキル〟の2つが存在する。
この世界では『魔法=人間の力、スキル=魔物の力』として認識されているが、人として使えるスキルもあるにはあって、それらはもっと物理的なものとして捉えられている。例えば、料理スキルや調合スキルといった修練を重ねて会得する技術がそれに当たる。
一方魔物の場合、身体強化はもちろん、その特異体質を利用した炎を吐くなどの行為そのものを魔力で強化するなど、攻撃性の高いものが数多く散見される。その上、スキルは魔法とは違って詠唱を必要としない。
要するに強力なスキルを持つ魔物には、無詠唱魔法を使える人間でなければ到底太刀打ちすることなどできず、魔力行使一つをとっても魔物と人間の力の差は歴然ということだ。
しかしここで何故、魔物の話になるかと言えば、斧神の持つ力もスキルと同様の力を持っていることに他ならない。
神々の武器に宿る〝神業〟と呼ばれる究極の固有スキルの一つ──その名を〝神業:斧神の天秤〟という。
神業と呼ぶに相応しいその力は、これまで見聞きしたとおり、斧刃で斬った相手を主君に従わせるというものだ。
そうは言っても今回、力は発動しなかった。古の魔物キュートリクスは、アーリナの手によって斬殺され、分断された亡骸が湧き出した血の海へと沈むこととなった。
あまりにも惨たらしく、凄惨な光景が脳裏に焼きつき頭を離れない。彼女はまだ話の途中ではあるが、どうしても横槍を入れずにいられなかった。
「神業ね、でもやっぱり話が違うじゃん。アイツぐちゃぐちゃになっちゃったよ……」
アーリナは魔物の死骸を指差しながら、下唇をキュッと噛み締め俯いた。斧神はそんな彼女の指先を流し見ると、「だから、何度言えば分かるのだ」と目を尖らせた。
「話をちゃんと訊け。物事には順序というものがある。ここまでの話、理解は出来ておるな?」
「う、うん」
「よろしい。では、続けようぞ」
その後も淡々と続けられる話の中で、アーリナが抱いた疑問が紐解かれだしたのは、しばらくたってからのことであった。
斧神の天秤──この名が示す通り、天秤の傾きによって相手の運命を決定づける。その皿の上に載せられるものは、斧の使い手であるアーリナの正負の感情であり、言い換えれば、彼女の内に秘めたる愛情と憎悪のことである。
敵対する相手への思いが愛情に振れているか、それとも憎悪に振れているのか。このバランスによって道は別たれる。
服従か斬殺か──結果、キュートリクスの場合、アーリナの心は完全に憎しみに満ちていた。故に天秤は憎悪へと傾き、斬殺へと至った。
天秤は持ち手の心を直に反映する。今回の一件では使い手である私の未熟さもあるが、それより何より、大切な者を傷つけられて冷静でいられる者など、果たしてこの世にいるのだろうか?──彼女は自らの手のひらに目を落とし、ラドニアルを持つことの難しさに眉を顰めた。
それと同時に指先も震えていた。魔物といっても命を奪ってしまった現実に変わりはない。アーリナはそこに怖さも覚えていた。
(相手は魔物……。でも私、殺しちゃったんだ、この手で。ラドニーも同じなんだね、誰かを傷つける凶器なんだ)
武器とは凶器。それを手に戦うには相応の覚悟が必要なことは、この斧も同じだった。けれど、決定的に違うこともある。使い手の心で斬るという、斧神ラドニアルの唯一無二の力だ。
これから先、自分と対峙する敵に対してどのように刃を振るうか。ただ無闇に傷つけるのではなく、彼女自身の信念が常に寄り添っている。心を御することは決して簡単ではない。だが、持つからには覚悟を決めなければ──アーリナは唇を薄く噛み、瞳に意志を宿した。
「──というわけだが、理解はできたようだな。これも運命だ、アーリナよ。この世の全ての生殺与奪。暫しの間、神の裁きをその手に委ねようぞ」




