第28話 アーリナの怒り
背後に迫った鬼気迫る気配に、アーリナはすぐさま斧を構えて振り返った。
だが、次の瞬間──彼女の目に飛び込んできたのは、松明の炎を受けて茜色に照り返す槍の尖端だった。
「えっ……」
回避不能。近距離からの高速の突きに、アーリナの脳裏には鮮明なまでの死がよぎっていた。
(私の人生って、これで終わり? せっかくお友達もできて、一緒に笑えるって、この世界でやり直せるんだって思ってたのに……。ミサラ、ごめんね。たくさん迷惑かけちゃったな。モー君にもお別れ、ちゃんと伝えたかったな……)
迫りくるキュートリクスの槍。彼女は再び、思い起こした恐怖とともに静かに瞼を閉じた。
(……あれ? 私、もう死んじゃったのかな?)
既に、魔物の攻撃が直撃してもおかしくはないほどの時は流れた。目の前は真っ暗。アーリナはただ闇に身を委ねていた。
(なんか、瞼に感覚があるのよね……)
彼女は感じるままに、ゆっくりとその瞳を開く。目の奥へと差し込む光。映り込んだ断片的な景色。そして、同時に静寂の空間が音を取り戻し、激しく動き出した。
どうやら彼女の運命はここが終着点ではなかったようだ。
「ど、どうして……?」
「うぐっ、ど、どうしてって……。そりゃあ、俺らって仲間、なんだろ? だったら当然だ。目の前でお前が死ぬとこなんか、絶対に見てなんてやるもんか!」
アーリナの窮地を救ったのは、逃げ惑っていたはずのザラクだった。魔物の槍は彼の肩を貫いたまま止まり、その穂先を赤く染めていた。
地面に滴り落ちる、赤き雫。銀色だった槍は血槍へと姿を変え、ザラクの足元を覆う血だまりの中、悍ましくも鮮明に映り込んでいた。
「ザラク!」
「はあ、はあ……。く、くそっ……。さすがに痛ぇや。アーリナ、お前は早く逃げろ。ここは俺が何とかしといてやる」
「な、何を言ってるのよ! そんな体で何とかなるわけないでしょ! 私だけ逃げるなんて絶対いや! だって、仲間なんでしょ?」
「ヒヒーン!」
アーリナが悲哀に叫ぶと、呼応するようにキュートリクスも吠えた。魔物はその槍をザラクの体ごと持ち上げると、勢いよく後ろへと薙ぎ払った。
ドガッ!──飛ばされた体を柱に激突させ、倒れ込んだザラク。出血が止まらず、うつ伏せとなった彼の体は血の底へと沈んでいく。
アーリナはその光景に全身を震わせた。
「あ、ああ……ダ、ダメ……ザラク。私のために、君を絶対に死なせたりなんてしない。必ず、絶対に助けるんだから!」
奥歯で憎しみを噛み、彼女の潤んだ瞳は、激しい感情が渦巻いているかのように不穏な光を放ちはじめた。
「こ、このクソ馬……殺してやる……絶対に殺す」
アーリナは我を忘れていた。感情制御の箍は外れ、眼前の敵への怒りが剥き出しになっていた。
「よく訊け、クソ馬! 私の仲間を傷つけるものは何人たりとも許さない、 決して容赦なんてしないわ! ラドニー、コイツを叩き斬るよ」
「ほう、凄まじい殺気だ。とはいえ、それも傷ついた仲間を救うための感情か。己が信念のため、存分に振るってみるがよいぞ」
彼女の手に握られた斧神ラドニアルは、そう言って不敵な笑みで応えた。
使い手の信念によって、ポイントの獲得量は変化する。仲間を守るために感情の針を怒りへと振り切ったアーリナだったが、そこにはザラクに対する愛情と敵に対する憎悪が相反して入り混じっていた。
「人間とは、実に難しい感情のバランスを持って生きておるのだな。まあよい。どちらに転ぶか、見物ではある」
アーリナは右足を大きく踏み出すと、キュートリクスの足を目がけて斧を一閃させた。その速さは凄まじく、前に突き出ていた二本の足を捉えて横へと斬り飛ばした。
「ヒヒーッ!」
悲鳴じみた声を上げ、体を大きく仰け反らせた魔物。噛み締めた歯が砕けんばかりの狂気に満ちた表情のまま踏み留まり、両手で持った槍を力一杯に薙いだ。
アーリナはその攻撃を反射的に腰を落として、地面擦れ擦れで躱すと、今度は頭上高く跳躍し、全体重を斧刃に乗せてキュートリクスの脳天へと叩きこんだ。
ガガンッ!──彼女の強烈な一撃を、魔物は槍から鋼鉄の盾に素早く持ち替え、既の所で食い止める。けれども、今のアーリナをそれで止めることはできなかった。
キュートリクスが掲げた盾の上に飛び乗った彼女は、再び、振り上げた斧を力強く叩きつけた。
ガンッ、ガンッ、ガンッ、ガンッ!──それは連続して鈍い音を鳴らし、ただの一撃では終わらい途轍もない乱打。
打ちつける度、ラドニアルの放つ白光は輝きを増していき、終には、ドゴーンッ!──雷鳴の如き音を響かせ魔物の盾が弾け散った。
「おい、クソ馬。これで終わりよ」
キュートリクスを見下ろす、アーリナの氷のように凍てついた瞳。魔物はその瞳孔を大きく開いた。
ザンッ──。
彼女は初めて魔物を斬った。幻想的な世界に抱いたものなど、ここには何一つなかった。
血飛沫を上げ、頭蓋が割れる音が聞こえる。肉と骨を断つ感触が生々しいまでに、斧を伝って彼女の心に響いてくる。
魔物の血は赤くなかった。アーリナの体は返り血を浴び、全身が蒼く染まっていた。キュートリクスの体は真っ二つに左右へと別たれ、辺り一帯は血の海へと変わっていた。命を奪うというのは、想像していたファンタジーとはまるで違うものだったのだ。
これから先、彼女の向かう戦場とは、まさにこのような惨劇の螺旋が続いていくのだろうか?──アーリナはその海の中心に立ち、手に持つラドニアルに視線を落とした。
「ラドニー、私、やったよ、でも……」
彼女の世界は潤んで見えた。今にも泣き出しそうなアーリナに対し、ラドニアルが口を開きかけたその時──。
「ああ~、目が痛い! あの盾、叩けば埃ばっかだし、もう最悪……。ってそれより、これは一体どういうことよ! アイツ死んじゃったじゃん! ピクリとも動かないよ? そりゃあそうよね、真っ二つだもん。 え? 私が間違ってたってこと? あなたで斬れば仲間になるって、そう言ってたよね?」
アーリナは全く動じてなどいなかった。それどころか、聞いてることと違うと、ラドニアルに鬼の形相で詰め寄った。
「はあ~、まったく騒々しい娘だ。少しばかり慰めてやろうと思ったものを。お前自身が心から、ヤツ殺したいと願った結果であろうが」
「そ、それはたしかに……。っていや待って! 今はそれどころじゃない。ザラク! 彼を早く助けなくちゃ」
興奮気味のアーリナだったが、ザラクの悲痛な顔が頭に浮かんだ。彼女は急いで救助のために走りだそうとした──が、
「おお~、倒したみてえだな。感心感心──って、アーリナ、お前、全身真っ青じゃねぇか。キモっ……」
「はえ?」




