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月夜

 最近、夜道を歩いてると、後ろに羊がいるんだよね。

 ううん、牧場の羊が迷い出てるわけじゃないと思う。

 近所に牧場なんてないし。

 それに二足歩行なんだよ。牧場に二足歩行の羊なんていないよね。


 大学の食堂で、彼女がそんなことを言いだした。

「夢の話?」と聞くと、そうではないと言う。

「羊っていうのは何かの比喩? 羊みたいにもこもこした服を着た人とか?」

「この暑いのに、そんな人いたら怖いよ」

 僕が冗談を言っているかのように笑う。

 いや、二足歩行の羊の方が怖いだろ。

 彼女はちょっと天然というか現実離れしたところがあって、そこが魅力でもあるのだけど、さすがに今日の話はぶっ飛び過ぎている。

「そのそれ……羊? 毎晩ついてくるの?」

「ううん」

 彼女は箸を止め、少し記憶を探るような間を置いた後、

「だいたい、夜遅くなった日にいるね。バイトとか飲み会のあった時」と言った。

「じゃあ次、遅くなる日を教えて。帰り、僕が送るから」

 彼女はきょとんとして、「わかった。でもなんで?」などと聞いてくる。

「僕もその羊見てみたい」

「えー、わざわざ? 羊好きだっけ?」

 いいえ、全然。


 二日後、僕はバイト先まで彼女を迎えに行った。

 彼女の家の最寄り駅に着いたところで、

「羊が出るのって、駅から家までの道だよね」と僕は確認する。

「そう。なんか変な足音がするなと思って振り返ると羊がいるの」

 改札を出て辺りを見回すが、よくある駅前の光景だ。飲食店やコンビニはまだ開いているし、人通りもそれなりにある。

 だが住宅街に入ると通行人はだんだんと減り、途中からまったく見えなくなった。

 街灯はあるし、家々からは明かりが漏れているから特別怖い夜道ということもない。

 平和な住宅街という感じではあるが、彼女は以前、この道で露出魔に遭遇したことがあると言っていたので安心はできない。

 それでも、その夜はとても気持ちよかった。

 夜になって気温が下がり、吹く風が気持ちいい。

 空は晴れて三日月が嘘のようにきれいに見えた。本当に、作り物めいて大きくきれいな月だった。

「家まで送ってもらうなんて久しぶりだね」

 彼女はスキップでもしそうな軽い足取りで、僕の少し先を歩く。

「そういえばそうだね」

 最近、デートの後は僕の部屋に泊まることが多いからだ。

 彼女はくるっと振り返ると、

「初デートの日のこと思い出すね」

 そう言って抱きついてきた。

 周囲を見回して人目がないことを確認した僕が、その腰に腕を回そうとしたところで、

「あ!」と彼女が声を上げる。

「あれ! 二足歩行の羊」

 慌てて振り返ると、本当に羊がいた。

 僕らがいるところより、10メートルくらい後ろに立っている。

 電柱の影にいるが、白いのでそれとわかる。

 彼女は、

「へへ、羊に見られちゃったね」

 照れたように言って腕を解いた。

 いや、そういう問題か?

「とりあえず、送っていくよ」

 僕は背後の羊を気にしながら、彼女を促した。


 彼女の家は実家なので、帰宅した後の彼女のことを心配する必要はない。

 問題なのは僕自身の帰り道だ。

 彼女が家に入り、玄関扉が閉まるのを見届けてから、恐る恐る辺りを見回す。

 いた。やはり10メートルくらい離れたところに羊が立っている。

 あまりにも不気味だ。なんで羊が二足歩行してるんだ。なんで羊が彼女の後をつけてるんだ。

 そんな疑問に囚われて思考が停止しそうになる自分を叱咤して、現実の問題に向き直らせる。今大事なのはどうやって帰るかだ。

 駅に戻るためには羊がいる方へ向かわなくてはいけない。

 当然ながら行きたくない。

 迂回路があるはずだとスマホを取り出し調べていると、奇妙な足音がした。

 はっとして顔を上げると、羊が近づいてきていた。手を伸ばせば届くほどではないが、細部が分かるほど近い。

 本当に羊だ。

 もしや着ぐるみなのではという希望をまだほんの少し持っていたのだが、絶対にちがう。中に人間が入っているなら手足が細すぎるし、毛や蹄の質感も本物にしか見えない。

 何よりも、目がちがう。瞳孔が横長なのだ。

 僕ら以外、誰もいない夜の街。

 空には偽物のようにきれいな三日月。

 二本足で立つ羊。

 世界が変容しはじめる音が聞こえた気がして身動ぎもできずにいると、羊は右の蹄を自分の胸元、毛の中へとおもむろに突っ込んだ。

 なにごとかと身構えるよりも早く、羊は右前足を胸毛から引き抜いた。


 二つに分かれた蹄の先に、拳銃――などはもちろんなかった。

 蹄がつかんでいたのは数枚の写真だった。それを羊は地面にそっと置き、そして後ずさると、元の位置に戻った。

 何の写真だ?

 羊は何も言わず、僕を見ている。

 おそらく、僕にこの写真を見ろと促しているのだ。

 僕はしばらく迷ってから、その写真を拾った。好奇心には勝てなかったのだ。

 ちらちらと羊の様子を伺いながら写真を見ていく。

 写真には彼女が写っていた。

 盗撮のようだ。すべて時間帯は夜。道を歩く彼女の姿が映されている。彼女の髪型や服装がちがうので、すべて別の日だろう。

 距離があるので彼女の姿は小さいが、その分、辺りの様子がよく見える。おかげで写された場所が最寄駅から彼女の家までの路上だということが分かった。

 この羊、彼女のストーカーなのだろうか。

 そう思いつつ、もう一度最初から見直した時、僕は違和感に気づいた。

 羊に注意を向けることも忘れ、背景をじっくりと見る。

 男がいる。

 どの写真にも、彼女から離れたところに同じ男がいるのだ。

 深くキャップを被り黒マスクをしているけれど、キャップが同じものだ。さすがに服装は違うが、背格好も、背中を丸めて顎を突き出すような姿勢も同じ。

 僕はぞっとして顔を上げ、羊に聞いた。

「彼女に、ストーカーがいる?」

 羊はこくりと頷いた。


 羊と会った日から十一日後の夜、また僕は彼女の帰り道にいた。

 ただし彼女と一緒なのではない。隣にいるのは羊だ。

 駅前の商業地域を外れて集合住宅や一軒家が多くなりはじめた辺りにある駐車場で、車の間にひそみ、彼女が通るのを待っている。

 そこしか僕と羊がともに身を隠せるところがなかったからだ。

 何度目かにスマホを取り出して時刻を確認する。そろそろ彼女がこの付近を通りかかるはずだ。

 羊から男の存在を知らされた僕がまず何をしたかというと、そいつが本当にストーカーかどうかを確かめることだった。

 彼女に写真を見せて聞いてみたのだが、「そんな人知らないなぁ。近所に住んでる人なんじゃない?」とのんきに言われただけに終わった。

 そこで僕は、彼女の帰り道を隠れて見張ることにした。ストーカーの存在を確かめるには、実際にその現場を自分で確認するしかないと思ったからだ。

 僕はバイト先の店長と交渉し、なんとか二週間の休みを勝ちとった。

 そして毎晩、彼女に教えてもらった帰宅時間に合わせ、この駐車場の暗がりに潜むことにしたのだ。駐車場に面した道路が彼女の帰り道だから。

 羊はといえば、これまでと同じように彼女の後をついていこうとしたのだが、それには僕が反対した。

「毎日毎日、彼女の後をついてストーカーが変なことをしないか見張るわけにはいかないよ」

 そう言うと羊は首を振った。

「毎日見張れるって?」

 羊は頷く。

「今はいいよ。でも彼女がもっと遠くに行ったら? 海外に行ったりしないとも限らないぞ。ストーカーは人間だから、その気になったらどこでも彼女についていけるだろうけど、お前はできる?」

 現実にはなさそうなことだけど、説得のためにそう言ってみる。

 羊は僕の言葉にショックを受けたようだった。

 へこむな。かわいそうになるから。

「今、ストーカーを警察の手に渡した方がいいんだよ。そのために証拠を掴むんだ。手伝ってほしい」

 長い沈黙の後、羊は渋々といった様子で頷いた。


 僕がストーカー男を実際に見たのは、見張りを始めて三夜目のことだった。

 写真と同じ帽子とマスク、同じ姿勢でだいぶ先を行く彼女をうかがうように見ながら歩いてくる。

 彼女は男がついてきていることには気づかない様子だった。羊の尾行には気づいたのに。

 でもそれでいいのかもしれない。下手にストーカーなんかと目が合ったら、かえって危ない気がする。

 僕らは駐車場の前を通り過ぎる二人を見送ってから、物音を立てないようにそっと立ち上がり、今度は僕たちが男の後を追っていった。

 先頭を行く彼女、その彼女をつけるストーカー、そのストーカーをつける羊と僕。

 真夜中の奇妙な行列。

 僕はなんだか悪い夢を見ているような気持になってくる。男も不気味だけど、羊もやっぱり不気味なのだ。

 見上げた満月も、やけに明るく白く、のっぺりとしていて、まるで紙を切り抜いて夜空に張りつけたよう。

 そういえば初めて羊に遭った夜も、偽物みたいに明るくきれいな三日月だった。

 夢の中か、物語の中に迷い込んでしまった気分だ。


 一番最初に行列から抜けたのは彼女だった。家に着いたのだ。

 男は閉まった玄関扉をちらと眺めると、そのまま先を行く。

 どこに行くのかと後をつけると、行き先は近くのコンビニだった。ビニール袋を手に出てくると、来た道を戻りはじめる。

 僕たちは横道に入って暗がりに隠れた。さいわい気づかれなかったようで、彼は正面を向いて歩いていく。

 駅に向かうのだろうかと思ったが、僕たちが隠れていた駐車場にほど近い、古ぼけた感じの二階建てアパートの階段を上っていった。そしてそのまま、隅の一室に消えた。

 暗い部屋に明かりが灯る。しばらく待ったが男が出てくることはなかった。

「ここに住んでるのか」

 僕が呟くと、羊がおもむろに、蹄を胸元の毛の中に突っ込んだ。

 そして何かを取り出そうとしながらアパートに突進する。

 僕は「わーーっ!!」と心の中でだけ叫んでその角を掴み、何とか引き留めた。

 草食動物のくせに穏やかさがちっとも感じられない。

 なんでこんなに血の気が多いんだ。

 ……草食動物、だよな? 羊なんだから。

 たとえ二足歩行してても。


 それからは彼女ではなく彼の家を見張った。

 どうやら彼はアパート二階の自室の窓から夜道を眺め、駅からやってくる彼女に気づくと家を出て後をつけているようだった。

 十日間で三回、男は彼女の後をつけた。

 やっぱり、写真の男はストーカーだったのだ。

 写真も撮ったし動画も撮った。アパートの部屋番号も確かめた。証拠は十分だろう。

 僕は警察に行きたかったのだが、彼女が承知してくれなかった。

「そんな必要ないよ。なんかこの手の感じの人は悪い人じゃない気がする。だいじょうぶだいじょうぶ」などというのだ。

 のん気過ぎる。のん気なのも物事を悪くとらないのも彼女の美点だけど、こういうときには困る。

 とはいえ、被害者本人じゃなければ家族でもない僕がひとりで警察に訴えても、親身になってはもらえないだろう。

 最終手段として、僕が直接、男に注意することにした。

 僕ひとりだったらそんなことは考えなかったけど、何しろこっちには羊がいる。こいつにすごまれたら、たいていの人間が怯えるはずだ。

 そのときは胸から何を出しても止めないことにしよう。

 そういうわけで、僕らはその夜も駐車場の暗がりに潜んでいたのだ。


 もう一度スマホを取り出して時刻を確認しようとした時に、彼女はやってきた。

 その日、彼女は幼馴染に会うと言っていた。

「美容学校に通ってる子だから、すごくおしゃれなんだよね。だから私も気合入れていくんだ」と楽しそうだった。

 僕はおしゃれにはうとくて、彼女としてはあまり張り合いがないようなので、「楽しんできてね」と言うしかなかった。

 実際のところ、その日の彼女の服装を見ても、いつもとの違いがよくわからない。

 ただ、ヒールが高くて不安になった。ちょっと高過ぎるのでは。

 彼女の足取りも、履きなれていない靴のせいか、お酒でも飲んできたせいか、なんだかあぶなっかしい感じがする。ストーカーのことを考えるとよけいに不安な気持ちになる。

 彼女が赤く頬をほてらせて、いつもよりゆっくりと駐車場の前を通っていく。

 さして間をおかず男がアパートの階段を下りてきて、辺りを見回すと彼女の後をつけていく。

 僕と羊も立ち上がり、駐車場を出た。

 また今夜も、彼女、ストーカー、そして僕と羊の行列。

 僕は彼を、彼女が家に入った後につかまえるつもりだった。

 でも、その計画は狂った。

 家に着くよりもだいぶ前のところで彼女が転んだのだ。

 そんな靴履くから!

 心の声を飲み込んだ僕が動くよりも先に、男が彼女に走り寄る。心臓がどきんとした。

 走り出す僕の横で何かが動いた。羊だ。

 羊が男に躍りかかったのだ。跳躍しながら胸元に手を突っ込み、抜き出したものが街灯の光を反射してギラッと光った。

 包丁だ。

「「わーー!!」」

 僕と男が同時に叫んだ。

 男は横に転がるようにして逃げ、僕は羊の毛を掴む。

 ジタバタする羊、「ダメだ、殺人はさすがにダメだ!」と止める僕、「なんなんですか!? 警察! 誰か、警察!」と喚く男。

 え、警察? お前が呼ぶの? いや、呼んでもおかしくないけど、お前も困らない?

 そう思ったのは一瞬で、羊がまた包丁を振りかざして暴れる。些末な疑問は消し飛んだ。


 どたばた騒ぎの末、彼女が羊をなだめてなんとか落ち着かせると、ストーカー男は僕が言うよりも先に、「転んだ時にケガしなかった?」と彼女に聞いた。

 そして、「警察に電話するね」と羊と僕を睨んで言う。

 ちょっと待ってほしい。僕らが加害者みたいじゃないか。

「え、警察を呼ぶのはかまいませんけど、自分が困りません?」

 僕が言うと、相手はきょとんとした顔をした。

「なんで?」

「なんでって……ストーカー……でしょう?」

 男はしばしの沈黙の後、

「君たちが?」と、僕と羊を指さして言った。

「ちがう!」と僕が叫ぶ前に、羊が地面に包丁をドスッと突き刺した。

 本当に血の気が多い。

 僕はそっと羊から離れて、後ずさった男の方に寄った。

「ええと……ちがいます。僕はストーカーじゃありません。彼女と交際しています。それでですね、実はこの羊が、夜道であなたが彼女をつけて歩いていると教えてくれて……」

 僕は男にこれまでの経緯を説明した。


 僕の話に男は大げさに手を振って言った。

「それはちがう! 私はストーカーなんかじゃない! この人があまりにも無防備で、夜道をひとりで歩いてるのが不安になって、コンビニに行くついでに見張りをしていただけだ!」

 そう言って彼女を示す。

「ええ……」

 僕が不審そうな声を上げたからだろう、男は続けた。

「半年くらい前のことだけど、この人は露出魔に襲われてたんだ。俺が助けに入って通報したんだけど、その時、この人、『寒くないですか?』って犯人に言ったんだよ! 反応がおかしいだろ!」

 ああー……。

「寒くないですか?」のくだりは初耳だけど、彼女なら言いかねない。

 それにそういえば、彼女が家に入った後、彼は必ずコンビニに向かっていた。

 僕が納得していると、彼女がぽんっと手を打った。

「あ、思い出した。あの時、警察を呼んでくれた人ですね!」

 にっこり微笑む。

「マスクしてたから分からなかったです」

 彼はがっくりと肩を落としている。

 そういや言っていた、「なんかこの手の感じの人は悪い人じゃない気がする」って。顔はちゃんと覚えていなかったけど、雰囲気は覚えていたのだろう。

 まあ、彼にそれを教えてあげたりはしないけど。


 結局、僕は彼を完全に信用したわけではないけど、警察を呼んだりもしなかった。彼女が反対したせいもある。

 僕は色々と考え合わせ、

「じゃあ、ふたりで彼女の警護をしてください」と男と羊に言った。

 男も羊も完全には信用できないが、両者が牽制しあってくれれば問題ないだろうという判断だ。

 男は不満なようで、でも羊に対して文句を言うのは怖いらしく、僕に対して「彼氏のくせに自分が彼女を守るとなんで言わないんだ!」と怒ったが、それは無視した。

 どうも彼は大学生はみんな暇だと思ってるようだけど、苦学生ともなると時間がないんですよ。今回、バイトを二週間休んだだけでも大損害なのだ。

 男も羊も不満そうだったが、結局、僕の提案を了承した。

 というより、彼女が「三人で帰れば寂しくないね!」などと言うので、なし崩しにそうと決まったのだ。


 さすがにその妙な護衛は長く続かなかった。

 しばらくすると、彼には彼女より優先すべき相手ができたからだ。

 羊はどうかって?

 羊は長く彼女のあとをついて歩いていた。

 それでもついに羊も他に守る相手ができたようだ。今はもう、彼女のストーカーはしていない。

 代わりに羊が守っているのは、他でもない、僕の娘たちだ。

 僕と彼女が結婚して子どもが生まれると、羊はとうとう我が家に乗り込んできた。

 毎日、娘たちの送り迎えをし、危ないことをしようとすると諫め、遊び相手をして過ごしている。

 今は子供部屋で昼寝する娘たちの敷布団になっている。

 最近は包丁を出さなくなったので、そこは安心してる。

 扶養家族が了承もしてないのにひとり多いけども、まあ、我が家は平穏と言っていいと思う。

 それにしても、僕以外のひとが誰も二足歩行の羊をおかしいと思ってないことだけは納得いってない。

 羊が初めて保育園についてきた時も、先生も他の保護者も、誰ひとりとして「羊が歩いてる!」と騒がなかった。

 そういえば、あのストーカー男も羊の振りかざした包丁には驚いていたが、羊の存在そのものには驚いていなかった。

 時々、おかしな世界に紛れ込んでしまったような気がするが、まあ、平和に暮らせているので、これでいいということにしている。


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