塩むすび
その夜、泊まりだと思っていた仕事が思いがけず早く終わり、俺は終電で家に帰った。
家に帰れないだろうと伝えていたし、時刻も遅かったので妻はもう寝ていたが、食卓の上に握り飯がひとつあった。
夕食もまともにとれていなかったので、本当に気の利く女だと思いつつ食べた。
うまかった。
具も入っていない、ただの塩むすびなのだがやたらうまいのだ。妻の手料理はいつもうまかったが、その握り飯は驚くほどだった。
満足してベッドに入った。
翌朝起きると、いつもなら朝食のしたくをしているはずの妻が食卓の前で、背筋をぴんと伸ばし、両手を膝の上にきちんと揃えて座っていた。
そして、あの塩むすびののっていた皿を見つめている。
どうかしたのかと聞くと、
「ここにあったおにぎり、あなたが食べたの?」と聞き返された。
「食べた。なんかまずかったか?」
「そうね……。私はうれしいし、あなたにとってもそうだといいのだけど」
彼女はこれまで見たことのない種類の笑みを見せてそう言った。
俺は寒くもないのに、なんとなく自分の二の腕をさすった。
「あなた、黄泉つ竈食って知ってる?」
「よもつへぐい……?」
「黄泉の国で煮炊きしたものを食べて、黄泉の国の者になることを言うの。でね、あのおにぎりはね……」
そして今、俺は黄泉の国で働いている。
妻は今も俺の妻のままだ。
「地上の人間の数が増えたせいで死者も多くなって、黄泉の国はてんやわんやなのよ。黄泉の国って何もかも旧態然としているから、事務作業もなかなか改革が進まなくて。仕事が滞ってしかたないのよね。当事者である死者にやらせるわけにはいかないし」
そう言って妻は嘆息した。
「だから私、優秀なスタッフを獲得するために地上に行くことにしたの。あなたみたいな有能な人に来てもらえて、本当にうれしいわ」
妻はたしかに満足そうだ。
ちなみに、妻の本当の名前はイザナミという。
イザナミは黄泉の国では見るも無残な姿になっていたのではなかったかと思い出しつつ妻の美しい顔を見ていたら、俺の考えをくみ取ったのか、彼女は微笑んで言った。
「大事な約束を破るような男には、女の姿をありのままに見ることはできないのよ」
そんなものだろうかと思いつつ、とりあえず俺は黄泉の国でそれなりに幸せに暮らしている。
仕事にやりがいはあるし待遇はいい。妻にも不満はない。
ひとつだけ問題があるとすれば、親に孫を会わせてやれないことだけだ。でもそれも、時間が解決するだろう。