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四季を彩るアルビノへ  作者: 夜月 真
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露草色

 パイナップルの絵柄が、まるで現実が嘘ではないことを証明しているようだ。僕はその手紙を取り出してゆっくりと封を開ける。これまでにない厚さだ。二つ折りにされた紙を広げる。


『丘の上で名前を知ったとき、何とも思わなかった。けれど、幸助から初めて届いた手紙の差出人の名前を見て、素敵だなって感じた。優しい幸助にぴったりだなって。皮肉にも私には彩りという文字があるから、名前を訊かれたり、書かされるときがすごく嫌いだった。けれ幸助があんまりにも私の名前を呼ぶものだから、今は何ともない。

 次の春を一緒に歩けないのはごめんなさい。私も幸助の好きな桜を生きた姿で見てみたかった。この一年は私にとって、徐々に色をつけられるキャンバスのような存在だったなって、今になって思うよ』


 一枚目の紙を読み切る。未だにこの事実を受け入れられない自分がいる。

「あの子、色覚障害のアルビノだったんだね」

 看護師は隣に座り、窓の外を眺めて口を開いた。僕自身も、前を向いたまま話を聴いた。

「先生が言うには、視覚って大量の情報を脳に送り続けるから、頭にすごく負荷がかかるんだって。突然に色が見え始めたわけだから、脳がその圧力みたいなものに耐えられなかったらしい」

 僕は一呼吸置いて、ふとあの日を思い出す。

「そうか……だからあの日、あんなに頭を痛がって……」

 抜き出した手紙を封の中へ戻す。


「読まないの?」

 看護師に尋ねられる。

「残りは家に帰って、ゆっくり読みます」

「それが良いかもね。あの子、救急車で病院に運ばれたとき、このダンボールとレターセットを持ってきたんだよ」

 看護師はラッピングをされたプレゼントを僕に近づけ、再びテーブルの上に肘を置き、両手の指先を絡ませる。僕は声が出せない。何か、誰かが邪魔をしているような感覚が喉元にある。

「頭が痛いはずなのに、すごく一生懸命書いててさ。その包みも、ニコニコしながら嬉しそうに持ってたよ。君が喜ぶものを知ってるような顔だった」

 真夏の窓が不思議と曇っているように見える。滲んでいる、に近い。僕はまだ、何も言えない。


「話も色々したよ。秋に頭上を向くと明るい黄色、冬には綺麗な電気がそこら中で光り始めること、海には味があること。全部君との話ばっかりだったんだと思う。あの子が教えてくれたのは全部当たり前な話ばっかりだった。色々ご馳走もしてあげたんだね」

 視界からモヤが瞬時に薄まった。涙が溢れたのだと気づくのに、そう時間は掛からなかった。看護師は頬を伝う雫で手紙が濡れないよう、封を退けてくれた。鼻を啜る。涙がまるで汗のように、無意識に存在している。

「最期に言ってたよ。私は、幸せを運んでくれる人に助けてもらえたって」

「……もういいです」

「私は誰よりも幸せな人生だったとも言ってた」


「……やめてください」

「好きな人に告白もされたって。それが何よりも、色を見られるよりも嬉しかったって言ってたよ」

「……もう……充分ですから」

 心が破れそうだった。好きだと伝えた女性の話を聴いて嬉しいはずなのに、喜ばしいはずなのに、こんなにも一色の感情に染められるのが苦しいなど思いもしなかった。胸に溜まった空気を吐き出す。涙がまた一つ溢れ、思い出が走馬灯のように蘇る。

 看護師がいなくなった後も、僕はしばらくそこに座り込んでいた。

 そして気がついたときには家の前にいて、バスに乗ったのか、歩いたのかも覚えていない。眠っていたかのように、記憶がそこだけ抜けている。家に着き、リュックも背負ったまま座り込む。ダンボールを開け、手紙の二枚目から読み進める。


『秋。私が黄色を知った季節。黄色は何だか目立ちたがり屋みたいな色。ただ小動物みたいに可愛くて、また秋が待ち遠しくなった。

 次は冬。見える色は増えなかったけれど、素敵な日々だった。クリスマスなんて、所詮は子どものころに良い思い出を得た人だけが楽しめるものだと思ってた。また私の勘違い。

 春には不思議と花が咲いて、いろんな生き物が動き出す時期だった。空がこんなにも涼しい色をしているのに、どうしてか暖かくて、部屋に引きこもっていた私もよく外に出るようになった。

 夏には知るものが多かった。海の先には何も見えなくて、世界の大きさを肌で感じた。うるさかっただけの蝉の声にも命が宿っているのを知った。

四季を色付けてくれたのは、いつも幸助だったね』


「……違う……僕は」

 重なった手紙の、三枚目に移る。


『あ、そうそう、初めて会った日のことなんだけど、実は幸助と偶然にも会っていなかったら、その日に死のうと思ってたの。最期に貴方と会えて良かったって言ったのを覚えてる? そうだ、それで思い出した。色を探しに行こうなんて言いながら、色を教えてくれる本のレシートを渡されるものだから、てっきりそれのことかと考えていたの。本当は何にも期待してなかったんだ』


 僕はふと、ベッドの下に仕舞い込んだ本の束を思い出す。引き出しの窪みに指をかけ、その中身を引っ張り出す。

自己啓発本、まるで自分を否定してくるような書き方だった。これは違う。小説、売れる物語の在り方を教えてくれたけどこれも違う。そして、僕は見つける。

 色の辞典。彩音に渡したレシートは、この本を買ったときのものだったのか。

 そしてもう一つ、疑問に思っていたことがある。

「どうしてかこれは、最後まで読めたんだよな……」

 表紙をめくり、中を覗く。そして僕は今まで、目を逸らし続けていたそれの答えを見つけた。

「そうか、僕がやたらと色に詳しいのは、この本を読んだからなのか」

 まるで彩音に色を教える為に読んでいたようなものだった。どうして忘れてしまっていたのだろうか。僕は手紙を読み進める。


『けど、最初の一色を知ったとき、自分に染み込んだような感覚だった。そのときから少しずつ頭は痛くなり始めたんだけど、それでももっと色を知りたいと思った。幸助といれば、何かが変わると感じたから。

 世界がこんなにも綺麗に見えるのは、幸助のおかげだよ。けど、私はもう何も見えなくなっちゃう。せっかく探してくれたのに、ごめんね』


 四枚目に移る。丁寧な書体は既に染み込まれた水滴によって自由に広がっている。ボールペンのインクが、やけに胸の奥へ入り込もうとしているようだった。


『色がない人間だったのに、色以前の問題になっちゃうみたい。まるで私は、盲目みたいね』


「違う。君の変化に気づくことができなかった、僕の方が盲目だ。自分の自己満足の為に色を探して、彩音の辛さに気づいてあげられなかった。……君を殺してしまったのは、僕自身だ……」

 手紙を通してこの声が聞こえていることを願うように、僕は文字に向かって話す。


『ねぇ、死ぬってどんなものなんだろう。一年前には恐怖がなかったのに、今は怖い。たぶん、幸せだったんだと思う。お金がなくても、誰かに指を差されて笑われても、ふたりで一緒に寝て、起きて、コーヒーを作って』


 文字が水の中に浸したように、ふやけている。せっかくの綺麗な文字も、まるで無意味になってしまっている。どれだけ落下したのか、涙の数もわからない。


『幸助とは、言葉の数だけ色が見えた気がする。大きく分けたら数色なんだろうけど、私には沢山見えたよ。楽しかったなぁ。

 私はもういなくなってしまうけれど、幸助は生きたいように生きて欲しい。素敵な女性を見つけて、お金もしっかりと稼ぐようになって、家族に恵まれて、友達ともお出かけして。きっとそれは、私じゃなくてもできるから。私は幸せを感じるままいなくなるから、それはそれで良いことなのかもしれないし』


 テーブルに小さな水溜りができていた。僕は最後の一枚へ、目頭を拭いて顔を上げる。


『最後に、その小包だけど、開けた? 前に幸助と喧嘩して帰った日、あったでしょ? 家について上着を脱いだらパーカーにやけに沢山入っていたから、幸助にあげようと思ったの。それなら枯れないし、一年中見ていられるよ』


 僕はラッピングのリボンを解き、中身を取り出す。小瓶の中で、まるで今でも生きているかのように咲き誇る桜のドライフラワーが、春の寿命を永遠に延ばしたように美しい。小瓶を握り締め、再び読み進める。


『いつか、もしいつか幸助にまた会うことができたら、そのときはちゃんとした桜を一緒に見たいな。公園のベンチで、お弁当持ってさ。

 じゃあね。私は幸せだったよ。ありがとう』


 どうして彩音が死ななければいけないんだと、何度も自問した。その度に自分を恨み、世界を憎んだ。

 手紙の束を握り締め、僕は台所へ足音も立てずにゆっくりと移動する。洗い立ての包丁を握り締め、覚悟を決める。玄関の扉のくもりガラスから入り込む自然光を四方八方に反射させ、その先端を首元に触れさせる。不思議と恐怖はない。先の見える、霧の中を歩いているような心地だ。首の肉へ入り込んだ包丁の先端から真っ赤な血が重力に吸われ、静かな音を立てて床に触れた。


 僕はこの赤を見て、海の姿が頭に浮かぶ。正面には入道雲が空を泳いでいて、陽光を反射させながら波が水を浜辺に押し付ける。潮風と汗で肌がベタついている。磯の香りが嗅覚を高揚させた。塀の上、隣に座る彩音は何かを話している。声は聞こえない。

 そうか、これは、あの日の思い出だ。走馬灯だと確信した。何を話しているのか、口の動きで理解できる。

 包丁が乾いた音を立てて床を転がった。

「ごめん。君にこんな色を見せちゃって」

 フローリングの上へ座り込み、僕はこの思いが届くことを祈りながら、そう手紙に言葉をかけた。

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