カメリア色
「動かないんだ。電源を付け直しても……もしかして」
一日の行動を振り返り、あの場所を思い出す。
「海でやられちゃったのかな……。潮風とか海水が入り込んだのかも」
あれこれとボタンをいじるが、何も反応はない。寿命だろうか。いや、自分のせいだろうな。
「ごめんなさい。カメラが海に弱いなんて知らなくて……」
「ううん。僕のせいだから、気にしないで。それに色が見られるようになった後でよかったよ。行こう」
今度お祖父ちゃんに謝らなきゃな、なんてことを思う。
橋を渡り切った先で、りんごの芯だけが残された割り箸をゴミ袋に入れる。
「お腹いっぱいだ」
腹部を摩りながら彩音が言った。
「本当だね。しばらくは節約しなきゃ。またお互いの家で夜ご飯を食べよう。そうすれば、食費が浮くと思うんだ」
「……そうだね」
これから先の日々が、待ち遠しかった。薄い光を放つ、数えられるほどしかない星空を見上げながら歩いていると、右手の指先に何かが触れた。僅かに後ろにいた、彩音の指先だ。僕らは立ち止まる。
「いい?」
「……うん」
照れ臭さを沈黙で隠すように口数が減る。意識が指先ばかりに向いてしまい、夏の夜に吹く生温い風も、コオロギや鈴虫の鳴き声も忘れていた。湿気などもろともしないスベスベな指先の感触が必要以上に体温を上げている。僕らは再び歩き出す。
「昔さ」
十分ほど進んだ先で、彩音が声を出した。なんだか久しぶりに声を聞いたような気がする。
「星に憧れてたんだ。ほら、私何にも貰えなかったし、自慢できることもなかったから、空ばっかり見てて」
「うん」
「夜中にふと起きて、外を見たときに大きな月があって、その周りには星が散らばっていたの」
顔を合わせずに、話を進める。
「星に行けたら、世界が変わるのかもしれない。星になれたら、みんなに優しくしてもらえるかもしれないなんて思ったりして」
彩音らしくてなんだかすごく良い、そう言って確かめた表情はどこか寂しげだった。
「貴方は何になりたいの?」
空を見上げて思い出す。
「僕は……家具屋さんで働きたいかな」
「違うって、どこで働きたいかじゃなくて、何になりたいの?」
もう一度考え直す。しかし自分に問いかけても、思うような答えは出なかった。
「うーん、なんだろう。野良猫?」
「またそんなのばっかり。まあ、それも悪くないけどね」
その後の話は、あんまり覚えていない。たわいもない話を続け、気がついたらもう家のすぐそばだったのだ。
「今日の月は、どう見える?」
街灯の誘惑に群がる虫の遠く先には、あと数日で新月となろう三日月が見える。そうだなぁ、と僕は考える。
「かくれんぼしているような、月? こっそり鬼が近づいてきていないか、確認してるみたい」
「確かに。ヒョコッと出てるね」
何かツボにハマったものがあるのか、彩音はクツクツと笑う。
「……もし私がかくれちゃったらどうする?」
意味もない質問にうーんと唸る。
「寂しくなるなぁ」
「あはは! 何それ」
あまりにおかしかったのか、その目尻に溜まった水滴を指先で拭き取っていた。ふたりの静かな足音だけが、世界のような感覚だった。
「じゃあ僕が隠れちゃったら?」
「ふふっ、大丈夫だよ。すぐ見つかる」
「どうして言い切れるの?」
僕は首を傾げる。
「だって、幸助の足音、わかりやすいもの」
それに幸助、寝言すごいよ? ニヤリとして付け足された事実を知って、既に隠れたい気持ちだった。立ち止まった正面には、僕のアパートがいつものように、汚れた外壁で帰りを待っていた。
「荷物置いたら家まで送るよ。待ってて」
するりと指先を解いて、両手が自由になる。
「ううん。大丈夫だよ、ここで。今日は電車もあるし。ありがとう」
彩音はくるりと回って背中を見せた。揺れる髪の毛が踊っているように綺麗だった。鼻を啜る音が耳に触る。
「あ、そうだ!」
再び僕の方へ向いたと思うと、被っていた麦藁帽子を、僕の頭へ乗せた。麦の香りが夏を感じさせる。
「彩音、何で泣いてるの?」
「……幸せだからだよ」
何かを誤魔化すような言い方に、違和感が残る。自然と左目からし流れる涙を拭って、僕が声を発する前に、彩音が話し始める。
「これ、私にはもう必要ない。……私は、私のままでいいって気づいたから」
柔らかな微笑みが、不思議とまるで季節が終わるように錯覚した。
「そっか……帰り、気をつけてね」
「うん。ありがとう。また手紙書くよ」
「わかった。待ってるね。……じゃあまた」
「うん。…………またね」
白い肌が後ろ姿となって隠れるまでの刹那が、酷く長い時間に感じた。恋人というものは、どう向き合っていくべきなのか、僕にはまだわからない。
見慣れたと思っていた後ろ姿が、どこか新鮮に感じる。違和感の正体は、帽子のしていない背中をじっくりと見るのが初めてだったからだ。その姿が十字路で隠れるのを確認し、僕は家に入る。こんなに星の少ない空が綺麗と感じるのは、生まれて初めてだった。




