一斤染色
「……五時だ!」
十七時を知らせる鐘の音だった。僕は焦って読みかけの手紙を元に戻し、即座に立ち上がる。掃除機を滑らせ、乾いた皿を収納し、服を雑に畳んでタンスに仕舞い込む。一通りのことが済むと壁に埋め込まれたような機械が部屋に高い音を響かせた。十八時を少し過ぎる時刻だった。機械に呼び出されて扉を開けると、リュックを背負った彩音が立っていた。水色の傘を畳みながら、先端からはシトシトと雨粒が溢れるように滴っている。シューズボックス横の傘立てにそれを突っ込んでもらい、家へと招く。
「今日は帽子してないんだね」
「うん、雨の日は湿気がすごくて。それに傘があれば顔を隠せるから」
フローリングの廊下へ上がると、膝を曲げて靴先を扉の方に向け直した。僕はその姿を見てあの母親の子とは思えない、などと場違いな思考が過ぎる。ワンルームの部屋に入ると、彩音はふふっと鼻で笑う。僕がその意図を尋ねると、リュックを床の上に置いて答えた。
「貴方のことだから、きっと部屋の掃除をしていてご飯をまだ作れていないんじゃないかなって思っていたの」
見透かされた生活に、僕も失笑してしまう。
「図星みたいね。一緒に作ろう」
僕らはキッチンで手を洗い、冷蔵庫から食材を取り出しては切り分ける。普段はスマホで手順を確認しながら料理をしていたが、彩音はテキパキと手を動かし、僕に指示を出す。まさに台所の司令塔のようだ。
僕がルーを鍋の中へ加えると、手をパンっと叩いて部屋に戻る。
「じゃあ、あれ入れますか」
彩音はそう言い、リュックの中から何かを取り出した。そして目の前に突きつけられたのは二粒のミルクチョコレートだった。
「隠し味」
ここまでの工程を見てきた僕は意見を言うこともなく台所の場を任せた。そして出来上がるころに僕はご飯をお茶碗に、生ハムを添えたサラダをお皿に装う。知らぬ間にトマトをカットしていたが、僕は何も訊くことはせずにただ完成するを待ち侘びる。
「勝手に作ってごめんね。もうすぐだから、飲み物注いで待ってて」
「ううん、ありがとう。楽しみに待ってる」
バラエティ番組を観ながらお茶を二つのマグカップに注ぎ、ペットボトルを冷蔵庫に戻す。二膳の箸をお茶碗の縁に寝かせ、廊下に背を向ける形で座り込む。
「お待たせ。食べよ」
テーブルの空いたスペースに置かれた二枚のお皿の上には、トマトと厚めのチーズが交互に並べられている。
「すご! これは?」
「カプレーゼ。そんなに手間がかからないんだけど、オシャレでしょ?」
自然と口元が緩む。僕らは手を合わせた後、ローアンバー色ビーフシチューに差し込まれたスプーンを掬う。彩音の言うビーフシチューの隠し味は、僕が食べてきたものの定義を覆した。癖があるわけではなく、ほんのりと甘みが時間と共に伝わる。喉の奥へと通しやすさがあり、匂いだけではわからない、口に含んで初めてわかるものだった。




