第1話 十文字探偵事務所
――2023年 2月26日
――十文字探偵事務所
ふぅ、と青年は息を吐く。トントン、と書き上げた報告書を纏めた青年は、数枚の調査資料とともにクリアブックの一頁に挿入する。そのファイルの背表紙には縦書きで『怪異事件』、その下に横書きで『2023』と記されている。
「書き終えた?」
「ああ」
座布団五枚の上で座禅を組んでいたアルビノの少女が徐ろに片目を開く。生気のない虚ろな目を向けられた青年は、特に大した反応もせずに少女の言葉に頷いた。
青年の名前は十文字玄羽。この十文字探偵事務所の所長であり、超常事件の類を専門とする探偵だ。自らも異能の力を有する彼の事務所には、アルビノ少女のミレーヌを筆頭に個性豊かな面々が所属している。
座禅を組み、静かに瞑想をする少女の名前はミレーヌ・フォーン。神々しいような純白の髪を首筋のあたりで切り揃えた彼女は、その瞼の裏に禍々しささえも感じる血のように赤い瞳を隠している。
普段、仕事や用事が何もない時は瞑想に時を過す日が多く、気が付くと、全日瞑想にふける日もあるほど。十代前半くらいの少女とは思えない日々を送っている。
昨日、この二人は一件の怪異事件を解決してきた。その報告書を入れたクリアブックを本棚に納めた玄羽はもう一度、ふぅ、と無意識に息を吐いた。
「今回の依頼は口裂け女が原因でしたか?」
「ああ、酷い有り様だった」
「屍山血河」
二人に質問をした女性の名前は土御門美佳。烏の濡羽色の髪を腰のあたりまで伸ばしており、青みを帯びた黒い瞳は柔らかい印象を見る者に与える。絵に描いたような大和撫子を地で行く女性だ。
常は態度や表情の柔らかい美佳も玄羽の感情を押し殺したような無表情と、ミレーヌの口にした簡潔な言葉にその端正な顔立ちを曇らせる。
屍山血河とは、屍が山のように積み重なり、多くの血が河のように流れること。
転じて、激しい戦闘があったことを比喩する言葉であるが、この二人が都市伝説程度に苦戦するはずなどないことと、己の経験則からその言葉の意味するところを美佳は正確に把握していた。
文字通りの屍山血河、死屍累々、この世の地獄を二人は見てきたのだろう。
美佳自身、数多くの超常事件を解決してきた経験がある。
その中には口にするのも憚られるほどに忌まわしい事件が多数存在しており、人の死に様とは思えない悲惨な末路を幾度も見てきた。
その度に心を痛めている彼女には、玄羽の内心が痛いほどに理解できた。
「そんなものよ、怪異なんていうものはね」
金髪に碧眼のどこか作り物めいた美貌の少女はメリー・ジェーン。彼女が無表情で告げたのは、機械のように冷徹な、けれど物事の本質を突いた言葉だった。
魑魅魍魎や妖怪変化等が関わる奇怪で恐ろしい出来事や体験の他、夢現の様な不思議で幻想的な光景や体験を指す言葉が怪異。だが、その殆どが今回の様な悲劇的結末を迎えるものばかりだ。
十文字探偵事務所では超常事件を一定の基準により複数の分類に分けている。
心霊事件、魔術事件、神話事件、怪異事件の四つの分類だ。
心霊事件は、超常事件の中で、死者の霊魂が引き起こすもの。霊力、霊魂の力を認識した死者が引き起こす心霊事件は、所詮は人間が引き起こすものなので基本的には小規模であるが、極稀に凄まじい規模の被害が出ることがある。
げに恐ろしきは人の業なり。憎悪厭忌、負の感情を剥き出しにする霊魂は、その衝動のままに、生者と死者の双方に多くの被害を齎す。
魔術事件は心霊事件とは逆に、生きた人間を元凶とする事件分類だ。魔術等の超常の力を持つ人間が、死者蘇生等の如何に資金や時間を注ぎ込もうとも絶対に実現不可能な結果を得るために、他人に犠牲を強いる事件のこと。
異世界召喚、所謂「勇者様、どうかこの世界をお救いください」と言うのも、この魔術事件に分類される超常事件のひとつだ。
神話事件は神格、或いは超自然的存在が関係する事件のこと。人間の観点から見て『神の如き存在』である彼等を崇める狂信者は数多く、その者達が引き起こす事件を解決するのは困難を極める。
彼等の降臨を許した場合の被害は他の超常事件の比ではなく、神話事件と判明した時点で全調査員を導入する方針となっている。
そして、怪異事件は人間以外の存在が引き起こす超常事件のことである。都市伝説や異類異形、百鬼夜行を首謀者とする怪異事件は、解決事態は容易であるが、発覚以前に多くの犠牲者が出る傾向にある。下手をせずとも、大半の心霊魔術神話事件よりも死亡者数が多い事件分類だ。
今回の事件も例に漏れず、口裂け女の領域には多くの死体が転がっていた。
「それはそうですが……」
とはいえ、「ええ、そうですね」と簡単に割り切れるような内容ではない。優しく思いやりのある性格をした美佳であれば、尚更というものだ。
「土御門。何度も言うが……その感情は、割り切るしかないものだ」
「…………………………」
「神の如き存在だろうと全てを救うことなどできはしない。況してや、神ならぬ人の身の俺達には到底できるはずがない。ただの人間の俺達にできることは――」
「被害を少しでも減らすこと、ですね?」
「そのとおり」
デウス・エクス・マキナ。この世界に全ての事件を解決してくれる機械仕掛けの神は存在していない。全ての悲劇を覆す荒唐無稽な英雄など存在していない。未来を掴み取るには人が努力する以外に方法はない。
だが、超常存在に対抗できる力を有する者は殆ど存在していない。大半の者達は何も為せずに超常の犠牲となる。故に、玄羽達は超常事件の解決に力を尽くす。
大いなる力には、大いなる責任が伴う。
古くからの格言であり、少なくとも紀元前4世紀には存在していた言葉だ。この定型句は、ジャーナリストや作家などの文筆家、映画、政治、君主の修辞、法の執行、公共の安全、そして様々なメディアで使われてきた。
大きな力を持つ者は、それ相応の責任を持った行動をしなければならない。十文字探偵事務所は、この格言を大真面目に実践している馬鹿の集まりだ。
「玄羽、お前もそう簡単に割り切れる性格ではないだろう」
「そうだよ。十文字クン、顔色が悪いよ?」
そして、この探偵事務所にはその馬鹿が合計六人所属している。残りの二人の名前は村正霧人と相川優雨、二人は玄羽の幼馴染であり、共に探偵事務所を設立した共同創業者である。
前者の村正霧人は常にスーツを身に纏う謹厳実直な青年だ。インテリ風の細い黒縁眼鏡を掛けており、背中に届くほどの黒の長髪を首の後ろで纏めている。淡々とした性格の彼は人に冷たい印象を抱かせる。
事務所の法務関係を担当しており、交渉技術で右に出る者はいない。但し、信用方面に関しては、その性格から人の信用を得られないこともある。
一方、後者の相川優雨は温厚篤実な芳紀の女性である。セミロングの茶髪は毛先を内側に巻いており、大きな瞳は夜空に輝く星のように澄んでいる。童女のように表情豊かな彼女は多くの人に好印象を持たれる。
元々、医療関係の仕事に就くのを目指していた優雨は医学に精通しており、調査中に負傷した際は応急手当をしてくれる。
「……バレバレ、か」
「一体、私達が何年の付き合いだと思っている」
「無理してるのが丸分かりだよ?」
淡々とした表情で告げる霧人と、心配そうな眼差しを向ける優雨。二人は対照的な表情でありながら、その心中は共に玄羽を心配していた。
「正直、今回は堪えたよ」
「それほど酷い事件だったのか?」
「……ああ」
霧人の問いに頷く玄羽は苦虫を何十何百と噛み潰したような顔をしていた。
今回、解決した怪異事件の元凶は口裂け女。1979年の春から夏にかけて日本中に流布された都市伝説であり、その恐怖は社会問題にまで発展したほど。日本国内で最も知名度のある都市伝説と言っても過言ではないだろう。
その内容は、外を歩いていると口元を完全に隠すほどの大きなマスクをした若い女性が、学校帰りの子供に「私、綺麗?」と聞いてくる、というもの。そこで「綺麗」と答えると、「これでも?」と大きく裂けた口を見せるのが典型的だ。
彼女は自身の顔に絶対的な自信、或いは強烈なコンプレックスを抱いており、自らの顔を否定する行動をした者を刃物で斬り殺すとされている。
上記の通り、この都市伝説で犠牲になるのは小中学生の子供だ。口裂け女の異界には幾人もの子供だったモノが放置されていた。職務内容上、人の死に触れる機会の多い玄羽だが、その地獄の如き光景を前にしては流石に平静を保てない。
それこそ、口裂け女が例の定型句を言う前に殺しにかかる程度には、五臓六腑が慄えるほどの烈しい怒りに支配された。
「玄羽、お前は休め」
「霧人!?」
「報告書は書き上げたのだろう? ならば、今日は上がり、数日の休みを取れ」
「村正クンの言う通りだよ。今、十文字クンに必要なのは休息だよ」
「優雨まで……」
霧人と優雨の言葉に逡巡する玄羽。休息が必要、という優雨の判断は正しいのだろうが、曲がりなりにも所長である自分だけ休暇を取るというのは、流石に面目が立たないのではないか。
「……あの」
不意に、美佳が控えめに手を上げる。玄羽、霧人、優雨の三人が何事かと美佳の方へ視線を向けると、彼女は恐る恐るといった様子でその頼みを口にした。
「所長、買い出しにお付き合いして頂けませんか?」
「買い出しに?」
「はい。破魔矢の残り本数が心許ないので……」
その頼みが、休暇を取るのを躊躇する自分を休ませるための口実であるのは、玄羽にもすぐに察することができた。余計な気を遣わせたのを自省した玄羽は、美佳に苦笑気味に返事をする。
「了解、一緒に買いに行こうか」
「ありがとうございます!」
嬉しそうな表情をした美佳はいそいそと出かける準備をする。同じように机の片付けを始める玄羽の姿を見て、霧人と優雨の二人はやれやれと肩を竦めた。
本当に、この幼馴染はどうしようもない馬鹿野郎だ。馬鹿に付ける薬はない、とは彼の為にある言葉なのだろう。本来ならば、仕事などせずとも生涯を過ごすこともできるというのに、こんな身も心も傷付くような仕事をしている。これを馬鹿と言わずして何と言えばいい。
その馬鹿に付いて行く自分達も同類であることを自覚しているのは、「本当に馬鹿ばかりね」と呆れた表情をするメリーだけだった。
同日夕方、本日の職務内容を完了した面々は帰り支度を始めていた。霧人と優雨は自分の荷物を鞄の中に詰め込み、メリーは瞑想中のミレーヌに声を掛ける。声を掛けずに放置すると、帰ることなく瞑想を続けるからだ。
「ミレーヌ、家に帰るわよ」
「ん」
座布団を降りると、その座布団五枚を部屋の片隅に片付ける。身長百五十センチ前後のミレーヌには結構な質量のはずだが、座布団五枚を一気に運ぶ彼女の足取りは驚くほどに軽やかなものだ。ポーチから取り出した水筒の中身を飲むと、声を掛けてきたメリーにテクテクと歩み寄る。
全員が帰り支度を終え、探偵事務所の明かりを消そうとした、まさにその時。
プルルルル! プルルルル!
彼等が自宅に帰るのを引き止めるかのように探偵事務所の電話が鳴り響いた。
業務終了間際の電話に、「もっと早く電話をしなさいよ」と盛大に顔を顰めながらも、電話応対を担当するメリーは受話器を取る。
「はい。十文字探偵事務所でございます」
と、その表情とは裏腹に丁寧な口調でメリーは応対する。
「えっ、クロウ!?」
思わずといった様子で困惑と驚愕の声を上げる。業務終了間際、事務所側の都合を全く考えていない時間帯に電話を掛けてきた人物の正体は、今日の昼頃、美佳と一緒に事務所を出たはずの玄羽だった。
「その電話、十文字クンからなの?」
玄羽と通話をしつつ、首を縦に振ることでメリーは優雨の質問に答える。
「こんな時間にどうしたの? もう事務所を閉めるところだったのだけど……」
と、訝しげな顔で不可解な電話の理由を尋ねるメリーだったが、電話を続けていく内にその表情は徐々に真剣なものに変化していく。その表情の変化を見ていた霧人と優雨も、只ならぬ雰囲気を感じ取る。
「ええ、わかったわ」
「何があった?」
「どうやら、私達の所長がまた面倒事に巻き込まれたみたいよ」
霧人の質問に、メリーは電話をかけたままの状態でため息交じりに答えた。
「せっかく十文字クンが休みを取ってくれたのに……」
その答えに優雨の表情が暗くなる。精神分析学を含む医療知識に精通する優雨からすれば、玄羽には摩耗した精神を回復する時間が必要だ。そのために、休みを取らせたというのに……。
「KY」
ボソリ、とミレーヌの口にした一言が他の何よりも的を射た言葉だった。
「それで。今回の事件の内容は?」
他の面々が大なり小なり感情的に反応する一方で、ただ一人、霧人だけは冷静に情報の開示を求める。その態度は、「幼馴染が心配ではないのか!?」と詰め寄られたとしても、仕方がないほどに感情の波が感じ取れない。
時に人の反感を買う、この何が起きたとしても持ち前の冷静さを失わないところこそが、村正霧人という人間の強みだった。
「恐らく分類は怪異事件。現在、一般人一名を保護しているそうよ」
「恐らく、とは?」
「魔術事件、或いは神話事件の可能性もあるみたい」
霧人は眉をピクリと震わせる。
「二人は何処に?」
「異界駅……二人は今、異界の中にいるわ」
第1章 冥界下りの異界駅