白紙の本は語る
家に帰ると、最初に母親の様子を見に行った。相変わらず寝ているだけで、呼吸もしっかりしている。あたしは少し気を取り直すと、自分の部屋に入った。
「お嬢さん、泣いちゃダメだよ」
耳慣れない、低くて優しい声がした。声は、かさばるからと置いていった黒い表紙の本から聞こえるようだった。
「あなた、喋れたの」
「私は喋るのが得意ではないから、大体は〈青い鳥〉に任せるんだけど、もう彼はいなくなってしまったからね」
その言葉に、あたしは床にしゃがみ込んでしまった。あの鳥は本当に死んでしまったのだ。〈雪の女王〉が来てから、あたしの近くにいて、時折やかましかったけど、色々なことを教えてくれたあの鳥が。
「サユキ、嘆く必要はないよ。『青い鳥』は非常に多くの人に知られた戯曲だ。誰か一人でもあの物語を覚えている限り、〈青い鳥〉は〈お伽の国〉で蘇るんだ」
「本当に?」
「本当さ。それに今回は、〈青い鳥〉も軽率だったと思うよ。〈雪の女王〉だって、こちらのやり方はわかっているんだから」
「仲間なのに、結構はっきり言うのね」
「そうかもしれない。でも〈雪の女王〉より強い者を連れて来たって、結局は〈スノードロップ〉の気持ち次第なんだから、無意味なんだよ」
〈白紙の本〉は、ゆっくり喋った。何となく、父親のことを思い出した。どんな声をしていたか、もうだいぶ忘れてしまったのだけど。
「サユキ、酷な言い方だけど、君はもう〈雪の女王〉と決別してしまった。〈雪の女王〉は、自分に逆らう者に容赦しない。あとは最後の物語を書くしかない」
「それは〈青い鳥〉も言ってたね。でも具体的に、どういう話を書けばいいのかな」
「〈雪の女王〉を呼んだのは君だ。その理由を自分で理解した時、自ずと道は開ける。思い出してごらん。君はどういう人生を送って来たんだい?」
〈白紙の本〉の言葉に、あたしは対して長くもない今までの人生を振り返ってみた。それは結構辛い作業だった。心の傷というのは、普段忘れているようでも、やっぱり存在しているのだ。あたし以外の人間だって多かれ少なかれ傷があるんだろうけど、思い出すとやっぱりしくしくと痛む。
幼い頃から、あたしは社交的な人間ではなかった。皆が仲良く遊んでいるのに、一人離れて積み木遊びをしているような、そんな子だった。独りでいても平気だった。多少は他の人とも喋るけれど、色々なことは、本やテレビで覚えた。
転機は小学一年生の時だった。父親が会社の同僚を殺したとして逮捕されたのだ。それ以来、小学校でいじめが始まった。上履きを隠されたり、人殺しの子呼ばわりされたりした。でもあたしは、そこまでへこたれなかった。その頃には、中高生を主人公にした小説も読んでいたからだ。中学生や高校生になると、知恵も付いて、大人にバレないように、とても酷いいじめをする。創作なんだろうけど、あたしは読んでいて、背筋が凍るような思いをした。それに比べたらだいぶマシだった。
でも母親は、あまり大丈夫じゃなかったらしい。裁判の手続きとか、家計のやりくりで四苦八苦するようになった。おまけに事件直後は、アパートの前まで報道記者が張り込みをしていた。まだ小さかったあたしからは情報を引き出せないと思ったのか、あたしには纏わりついてこなかったけど、アパートの住人にはちょこちょこインタビューをしようとしたらしい。ある日、引っ越そうか、と母親は疲れた顔で言った。
所詮は借り物の家だ。事件が落ち着いて来ると、あたしと母親は別の町に引っ越した。今になって考えると、母親はきっと、前のアパートでも職場でも、とても辛かったんだろうと思う。でも、当時のあたしはそんなことにはちっとも気付かず、新しい町での生活に順応していった。いじめもなくなったので、良かったと思っていたくらいだ。みんな、あたしの父親のことなんて知らなかっただろう。母親がニュータウンを選んだのは、地縁が薄いから、馴染みやすそうだと考えたかららしい。あたし達は、父親不在の中、新しい生活を始めた。父親は帰って来なかった。
あたしは気楽だった。暢気だったと言ってもいい。元々人間に対してさして興味がなかったのだから、父親がいなくなっても、さして気にしなかった。でも、母親に訊きたいことはあった。
どうしてお父さんは、人を殺したの?
お父さんは、今どうしてるの?
お母さんはお父さんのこと、どう思ってるの?
だけど、忙しそうにしている母親の姿を見ると、あたしはどうしてもその問いを持ち出せなかった。
新しい生活はゆるゆると過ぎていった。でも、あたしが教えてもらえないだけで、裏では色々なことが起きているらしいのには気付いていた。あたしは図書館で事件のことを調べようとしたけど、難しかったので断念した。事件直後の新聞に小さな記事が載っているのを発見しただけだった。世の中は、人一人殺したくらいでは、たいしたニュースにならないらしい。インターネットですら、自分が知っている以上の情報は手に入らなかった。
あたしは狭い世界で生きていた。学校の仲良しグループのどれにも所属せず、でも不満はなかった。多分、友達なんて作ったら、自分の境遇と比べてしまう。神様は人間の境遇を平等にはしてくれていないからだ。
「あとは、何があったかな」
そう呟いた時、空腹を感じた。こんな時でもお腹は空くのだ。あたしは起き上がって、台所へ行った。冷蔵庫から食材を取り出す。冷凍庫に入っていた鶏肉はさすがに見たくなくて、すぐにドアを閉めた。結局、野菜だけの炒め物と味噌汁を作って、もそもそと食べた。
〈白紙の本〉は、一応母親の席の所に置いておいたけど、用事がないと本当に喋らない本だった。〈青い鳥〉は食事中でもお喋りで、見栄っ張りのパンの精の話とかしてくれたんだけど。
独りは慣れているはずなのに、何故か寂しくて胸が痛かった。
昼ご飯を食べ終わって、あたしは自室で〈白紙の本〉を開いてみたけど、一文字も書き出せなくて、また閉じた。まだ何か、足りないらしい。自分の過去に向かい合うというのは、そんなに単純な作業ではないんだろう。あたしはうんうん唸って、二年生であったこと、三年生であったこと、と思い返し始めた。アルバムは見なかった。多分あそこには、あたしの望むものはない。写真は表面しか写さないからだ。五年生まで行った時、あたしはハマっていたアニメがあったのを思い出した。小学六年生の子供達のローファンタジー物だった。彼らは冒険し、戦い、そして小学校最後の自由研究として、自分達が住む町の大きな謎を解明しようとするのだ。あたしはワクワクした。内容は結構難しくて、理解できない所もあったけど、小学校最後の夏休みに、みんなで大きなことにチャレンジするのに憧れた。
でも、あたし自身の最後の夏休みはショボかった。自由研究は、「紅茶を硬水と軟水で淹れた時の違い」というもので、母親が紅茶好きだったことから思い付いた。結果としては、硬水で入れた紅茶はまずかったし、茶渋も酷かった。ヨーロッパは硬水が多いらしいから、ミルクや砂糖を入れたくなったのも当然だと実感した。自由研究の内容自体はそんなに悪くないと思ったけど、あたしの憧れていたものとは違った。あたしはもっと凄いことがしたかった。なのに、小学校六年生の夏休みは、あと数日で終わってしまう。
「そっか、それだ」
あたしは、あたしの小学校最後の夏休みが、こんな形で終わるのが嫌だった。何をどうすればいいのか見当も付かないけど、時間を止めてでも、もう一回やり直したかった。気付いてみれば何のことはない。あたしが友達もろくに作れないのに、みんなで大きな目標を達成することに憧れてしまったから、〈雪の女王〉は来たんだ。あたしと友達になるために。そして、世界を冬に変えてしまった。
今なら、最後の物語が書ける気がした。
あたしは急いで、〈白紙の本〉を開いた。この前、鍵を作った時に使った〈青い鳥〉の羽根がまだ挟まっている。あの時作った鍵は、一応紐を通して、胸に下げている。誰もいない家に帰る、鍵っ子の習性という奴だ。それに、〈青い鳥〉が見守ってくれている気がした。あたしは青い羽根を握って、何も書かれていないページに、軸を落とした。
〔寒い寒い雪山の城の中に、〈雪の女王〉は住んでいました。彼女は、一年中暖かい地域以外はどんな所にも行けて、冬をもたらしました。彼女が有する土地には、燃えるような黄金のバラと金色の蝶々、水銀が流れる川に銀色の蛍もいて、それが彼女の自慢でしたが、〈雪の女王〉が近付くと皆凍ってしまうので、遠くから眺めるだけでした。〈雪の女王〉は独りぼっちでした。自分と似たような存在は、何処にもいなかったからです。ある日、〈雪の女王〉は積もった雪の合間に咲く、白い花を見つけました。私にそっくりな、真っ白な花! 彼女はその花に、〈スノードロップ〉という名前を付けました。〈スノードロップ〉は小さな声で、〈雪の女王〉と話をしてくれました。
「寒くはない?」
「いいえ」
「どうして、こんな寒い冬なのに咲けるの?」
「私は球根に養分を蓄えているので、いつでも咲けるのです。今の季節は他の花もあまり咲いていないから、美しさを競う必要もありません」
「あなたは奇麗な花よ」
「身に余る光栄です、〈雪の女王〉様。でも私は、あなたのために咲いているのではありません。気が済んだら、行ってください」〕
これだと〈スノードロップ〉は結構冷たい花だな、とあたしは苦笑した。〈雪の女王〉も冷たいから、ちょうどいいのかもしれない。でも続きが必要だな、と思った。
〔「時が過ぎれば、雪は溶けて、私という花は枯れるでしょう。でも、次の冬にはまた別の花が咲いて、あなたとお話するでしょう。それまでお元気で。さようなら」
〈スノードロップ〉はそう言うと、俯いたまま何も喋らなくなりました。
〈雪の女王〉は仕方なく、城に戻りました。彼女には、時期に合わせて世界に冬をもたらすという大事な仕事があったからです。〈スノードロップ〉はその後ろ姿が見えなくなるまで、じっと眺めていました。〕
あたしは書き上がった物語を読み返して、これ以上は書けないと思った。物語を書いたページを破いて、教えられた通りに叫んだ。
「【リアライズ】!」