真夏の雪
寒さで目が覚めた。タオルケットを肩まで引き上げるけれど、一度覚醒した意識は、再び眠りの世界には入ってくれそうにもない。それに何だか、部屋が寒い。昨夜はあんなに暑かったのに。仕方なくあたしは、目覚まし時計はまだ鳴っていなかったけれど、起きることにした。
緑色のカーテンをシャッと引く。そこには、予想外の景色が広がっていた。
「わーお」
――国境の長いトンネルを抜けると雪国であった、とかいうのはあたしでも知ってる有名な小説の冒頭だけど、今目の前の窓の向こうにあるのは、一面の雪景色だった。曇り空からははらはらと雪片が舞っているが、日差しに反射する白が、目に痛いくらいだ。
あたしの記憶が確かならば、今日は八月二十八日、小学校最後の夏休みの終盤だったはずだ。机の上の赤いアナログ時計は、六時三八分を指している。ずいぶん早起きしてしまった。
「異常気象って奴かな」
夏に雪が降る、なんてロマンチックに聞こえるが、実際に体験すると、とても寒くて迷惑だ。あたしは夏物のパジャマと布団でいたことを後悔して――いや、天気予報でも言ってなかったし、そんな準備ができるわけないんだけど――母親の部屋に向かった。
うちは母子家庭というやつで、手狭なぼろアパートに住んでいる。床はフローリングだけど、仕切りは襖だ。開けると、母親はまだ寝ていた。確かに起きる時間には早いけど、よくこの室温で寝られるものだ。
「お腹空いちゃった」
眠っている母親の顔を見たら、急に空腹を感じた。適当に食パンでも焼けばいいだろう。そう考えて、あたしは台所に向かった。
冷凍していた食パンを電子レンジで解凍して、フライパンで軽く温めると、カリッと仕上がる。あたしの家にはトースターがない。電化製品を置くスペースが足りないのだ。でもあたしは、このやり方が結構気に入っていた。
少し焼き目の付いたトーストに、ピーナッツバターを塗って食べる。ジャムもあるけど、そっちにしたいと思わなかったからだが、何だか、アメリカにいるみたいに感じて、気分が変わる。しかしこのピーナッツバターなるものは、開封した後で常温保存しても、カビが生えるのを見たことがない。何かやばい物質でも入ってるんだろうか。そんなことを考えながら、インスタントコーヒーにどっさり牛乳を入れた飲み物と、トーストを食べ終えた。
この雪では、ラジオ体操も中止だろう。夏休みの宿題も終わってるし、出掛ける予定もない。手持無沙汰だ。気分転換に雪景色の中を散歩するのもいいだろう。押し入れから冬服を引っ張り出した。ベランダからちょっと顔を出して気温を確かめると、服を選んだ。取り敢えず、白いタートルネックと、オレンジ色の厚地のジャケット、デニムのスカートにする。茶色いタイツを履いて、茶色いブーツを靴箱から引っ張り出す。まだ新雪だからいいけど、明日になったら滑って転ぶかもしれないから注意しないといけない。ふと気付いて、耳を隠せる毛糸の帽子と手袋を出した。冬服に着替えると、ようやく一息付けた。起きた時に寒いと可哀そうだから、母親の部屋にしかないエアコンを付けておく。2DKの狭い家だから、母親の部屋の襖を開けておけば、家全体が温まる。
準備万端整えて、少しのワクワク感と共に、あたしは戸外へ飛び出した。
おかしいな、と感じたのは、家を出てすぐのことだった。行く当てもなく、取り敢えず駅の方に向かっているのに、人っ子一人いない。雪が十cm以上積もっているのに、雪掻きする人もいない。薄曇り空の下、ちらほらと雪が降っているだけだ。あたしだけ独り、この世界に取り残されているみたい。
しかし、何処かに人がいるかもしれないし、とずんずんと進んでいくと、駅前の広場に出た。ここはいわゆるニュータウンという町で、駅周りにどういう建物を建てるかは、計画で決められているらしい。駅前の広場は、広い芝生で覆われていて、木が何本か植わっている。住民の憩いの場、というコンセプトらしい。そこに、それはあった。
「へ?」
見た瞬間、あたしは思わず間抜けな声を上げた。雪原の上に、氷でできた西洋の城みたいな建物がいつの間にか建っていた。高さは三階建てぐらいだろうか。何これメルヘン?
近付いてみると、気温がさらに下がっていく気がする。そりゃあ、こんな大きな氷の塊があったら寒いだろう。周囲を回ってみると、一箇所だけ、縦長の扉があった。その二枚の氷の扉を、両手で押し開ける。完全なる不法侵入だが、そもそもこんな所に、こんな建物を造る奴が悪い。顔も知らない建築者に罪を押し付けて、あたしは城内に滑り込んだ。
予想はしていたが、内装も全部氷でできていた。広間の飾りも階段も、何もかもが氷だ。北海道には氷で彫刻を作る祭りがあるらしいが、こんな感じだろうか。
「ようこそ、〈スノードロップ〉!」
突然、人間の声がして、あたしは心臓が縮み上がるくらい驚いた。階段を駆けるように、少女が降りて来ていた。
「待ってたわ! やっと来てくれたのね」
あたしは多分、呆然とした顔で少女を見ていた。だって彼女は、あたしが毎日鏡の中で見る、あたしの顔にそっくりだったからだ。あたしの隣にまで来ると、背丈まで同じだった。ただ服装は、白いパフスリーブの直線的なドレスで、ウエストを銀のベルトで締めて、そこから後ろに、薄い水色の長い裾を引き摺っている。後から知ったことだが、これはエンパイア・スタイルと呼ばれる、十九世紀ヨーロッパで盛んだった形式のドレスらしい。
彼女は嬉しそうにあたしの手を取ると、ぶんぶんと振った。
「私の城にようこそ、〈スノードロップ〉。何して遊びましょうか」
「は?」
さっきからあたしは、碌に意味のある単語を喋れていない。〈スノードロップ〉というのは、あたしのことらしいのはわかる。一応あたしには羽鳥紗雪という名前があるのだが。というか、この子は誰だ。
あたしの困惑が伝わったのか、彼女はぴょんと飛び上がった。
「私としたことが、自己紹介するのを忘れていたわ。私は〈雪の女王〉。冬を統べる者よ」
ますます話が現実離れしてきた。アンデルセンの童話の『〈雪の女王〉』から取ったのか。しかしそれは自分で名乗るものだろうか。
あたしが何も言えないでいると、自称:〈雪の女王〉はぺらぺらと喋りだした。
「やっぱり最初は定番のシャボン玉かしら。シャボン玉が凍るところ、見たことがあって? 中に結晶が沢山できて、奇麗なのよ」
「はあ……」
あたしが生返事をすると、彼女は空中で手を振った。すると、何も無かった空間から、青い透明な瓶が現れる。いい加減、何が出て来ても驚かなくなった。
「見てて」
〈雪の女王〉は、瓶の蓋を開けた。蓋には、小さな穴の付いた棒が繋がっていて、彼女がそれに息を吹き込むと、シャボン玉がいくつもできる。それが壁にくっつくと、一瞬で凍って、時に玉の中に雪の結晶みたいなのが沢山生まれる。不思議な光景だった。凍ったシャボン玉は、どこかにくっついているから、そのままずっと残っている。
「やってみて」
そう言って、〈雪の女王〉はあたしに瓶を渡した。恐る恐る穴に息を吹きかけて、シャボン玉を作る。シャボン玉なんてやったのは何年振りだろう。シャボン玉は空中で壊れてしまうのもあったが、壁とか床にくっつくと、きちんと凍るのだった。
私はなんだか楽しくなってきた。代わりばんこにやって、どちらが上手く結晶を作れるか勝負した。
それに段々〈雪の女王〉が飽きたらしく、今度はパズルを提案してきた。私は幼い頃に読んだ絵本の内容を思い出した。氷でできたピースを組み合わせて、単語を作る。〈雪の女王〉がカイにやらせていた遊びだ。
やってみると、意外に面白かった。アルファベットの断片のような氷のピースが数百個はあって、それを繋ぎ合わせていく。外国語はできないのだけど、〈雪の女王〉が丁寧に教えてくれる。いくつか完成させたころには、あたしの手はすっかりかじかんでいた。手袋をしていて良かったと思った。それに、なんだかお腹が空いてきた。あたしの腹時計が、もうすぐ昼ご飯だと言っている。
「そろそろ帰ろうかな」
あたしが言うと、〈雪の女王〉が不満そうな顔をした。あたしは重ねて理由を上げた。別に彼女が嫌いなわけではないのだ。
「お腹も空いたし、お母さんが気になるし」
「……また来てくれる?」
「うん」
それは本心だった。今現在、たった一人、あたし以外に動いている存在なのだ。それに、他の人がそろそろ動き始めたかも分からないし、とにかく一度外に出たかった。
「あとさ、ここ、ずっといると寒いよ」
「寒さを感じないようにすることもできるわ」
そうだった。童話ではカイは、寒さを感じなくなってしまうんだった。
「さすがに凍死しそうだからやめておくよ。本当に、また来るから」
あたしは名残惜しそうな〈雪の女王〉に背を向けて、家への道を歩いて行った。外は相変わらず無人だった。
家に着くと、真っ先に母親の部屋に行った。お昼時だというのに、母親はまだ寝ていた。さすがにおかしい。
「起きろー」
あたしは、母親の肩を揺す振った。しかし起きる気配がない。
「なんか今日は変なことばっかり起きるな」
あたしは文句を言いながら、自分の部屋に入った。
最初に目に入ったのは、勉強机の上にいる青い小鳥だった。
「やあ、君が今回の〈スノードロップ〉だね」
小鳥は、当たり前のように喋った。あたしは一瞬めまいがしたが、アンデルセンの『雪の女王』が出て来るなら、メーテルリンクの『青い鳥』が出て来たっておかしくない。あたしは腹を括って、鳥に向かって喋った。
「その〈スノードロップ〉って何? そもそもあなた、なんであたしの部屋にいるの」
鳥に向かってあなたと呼びかけるのも変だが、とにかくあたしは疑問を解決したかった。
〈青い鳥〉は、まるで人間みたいに、羽で頭を掻くような仕草をした。
「順を追って話すよ。取り敢えずベッドにでも座りなよ。長い話になるから」
部屋は暖房の風が回って快適な温度になっていたけど、あたしはまだちょっと体が冷えていたので、台所でホットココアを作ってから、〈青い鳥〉の話を聞くことにした。