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小家族  作者: 坂本梧朗
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第Ⅰ5話

 前方に広大なグランドが見え始める。この辺りから見通しがきく場所となる。前方や周囲に犬の姿はない。知道は再びワラシのリードを離した。ワラシは一直線にグランドに入っていく。四百メートルのトラックが一つ、楽に入る広さがあるグランドだ。その周囲をアン・ツー・カーの遊歩道がめぐっている。それが散歩コースとなる。ワラシが知道の二十メートルほど先をちょこちょこと歩いていく。立った尻尾の毛が大名行列の奴が振る毛槍の先のように揺れている。グランドの中では野球のユニフォームを着た男達が練習をしていた。遊歩道の近くにいる男達は外野の守備なのか、四、五人がフライの捕球練習をしている。グランドの奥の方では試合が行われているようだ。

 知道はグランドに入る所で立ち止まり、晴れた空を仰いで深呼吸をした。そして、

「今日は野球の試合があってるな」

 と昌代に声をかけた。休日の運動公園では毎度と言っていいほどスポーツの催しが行われている。グランドでは野球、ソフトボール、サッカー。武道館では柔剣道。テニスコートもある。野球は地域の少年野球から中学高校の野球部の試合、大人の草野球まで、幅広くゲームが行われていた。今日は大人の野球チームだ。

「これは何のチームかな」

 知道は男達のユニフォームの横文字に目を凝らすが、離れているのでよくわからない。

「Nモータースじゃない」

 昌代が目を細めてユニフォームを見ながら言う。Nモータースはこの近くの埋立地に大きな工場を建てている日本有数の自動車メーカーだ。

 フライを補給している男たちの一人がワラシの方に手を出して手招きしている。ワラシは立ち止まってその男の方を見ている。尾は振っているが動かないワラシを見て、男は近づいて来た。知道は少し気が重くなる。その男の顔付きに好感が持てない。しかし、二言三言、言葉を交わさなければならないだろう。ワラシの頭を撫ぜている男に知道は近づく。男は顔を上げ、

「これ、オス」

 とぞんざいな口調で知道に訊く。野球帽の庇の下から見上げる目は笑っていながら、どこか人を威圧するような光がある。やっぱりな、と知道は思う。

「いや、メスです」

「ふーん、可愛いね」

 知道は男の年齢を考える。自分より少し下だろうと思う。押しの強い男なのだろうと思う。彼が勤める学校にもよく見られるタイプの男だ。上司や力のある同僚には従順だが、そうでない者には威圧的に振舞う。たとえ相手が年上でも。他人を威圧することが自分の利益につながると考えるタイプだ。押しが強いだけで、自分自身に思想や信念があるわけではない。知道の嫌いなタイプだ。

「Nモータースのチームですか」

「そう。でも、もちろん都市対抗に出る会社の正式チームじゃないよ。職場の同好会のようなもんで」

 男は苦笑を浮かべてそう答えたが、世間に知られた一流企業の一員であることを誇る気持が口調には漂う。

「今日は何があってるんですか」

 遅れて側に来た昌代が問いかけた。男は昌代の顔を見上げて、

「この付近の草野球のチームとの試合があってね」

 と面倒臭そうな調子で答えた。

「何チーム来てるんですか」

 昌代が問いを重ねる。

「八チームくらいかな」

 男はそう言って仲間の男達の方に顔を向けた。そこから一人の男が近づいて来た。これは無帽の、髪の長い若い男だ。

「可愛いっすね」

 彼は男にそう声をかけ、隣にしゃがみこんでワラシの頭を撫でた。知道達には挨拶がない。

「これ、菅原が飼っている犬と同じだろ」

 男が若い男に問う。

「そうっすね。でもこっちの方が可愛いな」

 若い男はワラシの背中を撫ぜながら答えた。その様子を見ながら野球帽の男は立ち上がった。すると若い男も立ち上がり、ワラシにバイバイと手を振った。

「お前、今晩打ち上げで行く店、芋焼酎の手配してるやろうな」

「大丈夫ですよ」

「俺は芋しか飲まんのやからな」

 去っていく二人の会話が知道の耳に聞こえた。

 職場の同僚と野球チームを作っている男もいる―。知道は自分との落差を思った。あの男にとって人生とは何なのだろう。おそらく会社なのだろう。休日も一日会社の同僚と過ごす。毎日が会社で埋められているのだ。あの若者もああして日本的な人間関係を身に付けていくのだろう。職場での関係がそのまま平常の人間関係に移行してしまう。そもそも日本人にとって人間関係は仕事の線上にあるもので、個人と個人のつながりではない。そんな空疎な人間関係を俺は拒否したいのだ。知道はそんな思いを抱く。

 知道の前を昌代とワラシが歩いて行く。リードは再び昌代が持った。傍らでは草野球の試合が行われている。申し分のない穏やかな休日の朝だ。知道にはこの穏やかさは確かに有り難かった。しかしいつまで続くだろうか。彼には前途に、周囲の人間と敵対し孤立する自分しか見えなかった。これまでと同じように。散歩する間も気分の底を流れている漠然としたもの寂しい感情はその辺から立ち昇ってくるようだった。孤立している職場で何らかのトラブルが起きれば、カバーしてくれる人もおらず、職を失うことになるかも知れないと彼は思った。

 知道が理想とする個人と個人とが真に結びつく社会は、実現するとしてもはるか彼方の未来だ。それまでは、ということは死ぬまで、敵対と孤立の中を生きてゆく他はないと知道は思った。前を行く昌代とワラシが彼のかけがえのない家族だった。知道はその家族の小さな輪を荒海を行く小舟のように感じた。



 


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