スイカズラ、香り立つ金と銀の花、外では蛙が鳴いている。
晴れれば草青い地面から立ち昇る湿気と、雲から落ちた雨粒が空気に溶け込み残った世界は、ざわざわと風が吹いても、涼しさとは皆無。蒸される様に重く感じる日中。深山の奥からは、思ってた通りカッコウが響く。
夜になり、稲が伸び別れて増える田んぼから蛙の合唱。それが殊更、賑やかになり、宿の窓から入る頃。色を変えた様な風はひんやりと冷たく、薄手の着物だと少しばかり肌寒い。
上着を持ってくればよかったですわね。町だとこの時期になれば、夜でも暑いのに。
卓の上に用意されている、茶器で熱い緑茶を淹れながら、話している君は涼やかで甘い香りを放っていた。
「熱いですわよ」
猫舌の私を気遣い差し出すと、ころんと丸い形の湯呑を、両の手で包み込むように持つ君。しばらくそのままで、少しばかり寒いけれど、聴いていたいですわ。と開け放した窓から入り込む、蛙の合唱に耳を傾けている。
ゲコゲコ、ケロケロ、グェグェ、けけけけ、げげげけ。
私も共にそれを聴く。静かな山間の村の宿の部屋で。
君から放たれる花の香は、ふたりきりの部屋に薄らと満ちる。
しばらく。
「せんせ。ご覧になって、ほら……、お菓子入れが変わってますわ。中を見ても良いかしら?」
気が済んだのかふと気が付き、問いかけてきた君。軽く頷き応じると、いそいそと柿色した菓子器の蓋を開けた君。
袖口が触れぬ様、片手で抑えると、華奢な手首と艶めかしく白い腕が、少しばかり顕になる。
白い懐紙が敷かれたそれの中には、茶菓子がいくつか。
馴染みの女将は夜中に小腹が減る私の為に、何時も好む物をとりどりに、用意してくれている。
ちいさなおひねりの中には黒糖をまぶした花林糖。いちごに黒砂糖、飴玉の小袋、煎餅、ひとくち羊羹……。駄菓子屋に行けばどれも売っている、どこにでもある色々。
宿によくある、お土産にひとつ、味見的な、ご当地名物まんじゅう等は、無かったはずなのだが、君は上品ぶった、こぶりなそれの包みを、柔らかな掌に乗せると、かさりと開いていた。
妻を伴って来たことにより、老舗の名物饅頭も、そこにちゃっかりと仲間入りをしている様子。
「このおまんじゅう、皮が西洋の焼き菓子みたい。中の小豆と合って、とても美味しいですわ。お土産に丁度良い感じ。ね。帰りに買って帰りましょう」
ころんと。椀を伏せたような薄茶色のまんじゅう。ちいさなそれを、ふたつに割り、口にする君。動く口元をじっと見ていると、
ひとくちいかが?
いたずらっぽく笑い、湯呑みを傍らに退けると、真向かいから身を乗り出し、残りを私に差し出して来る。
ゲコゲコ、ケロケロ、グェグェ、けけけけ、げげげけ。
蛙がメスを求めて鳴いている。
私も君を求めて、血潮が騒ぐ。
ずい。私も卓の上に乗り出した。差し出す手には、饅頭の半分が、指先三本で摘まれている。
くっ。君の細い手首を握る。強引に私に引き寄せ、手にしたそれを、そのままに口に入れた。軽く驚き、手を引こうとした君だったが、時は既に遅し。
君の細く白い指先は、私の口の中に入り込んでいる。ほろりと崩れる外皮と餡。そして共に君の指先も味わう。
軽くまとめ上げた結髪、うしろに挿している金銀花。匂い立つ君によく似合う。
「そんな事、なさらないでくださいな」
宿の人が来たら、困りますわ。小さく、異議を唱える君。ここは大人しく引きに入らなければならない。むくれられると、ひと晩中、カクカク、四角い原稿用紙のマス目と過ごす事になる。それは何としてでも、避けたいところ。
笑いながら君の指先を解放する。鼻孔に届く、甘く涼やかな香り。それは、蛙の声と共に入り込む、水気をたっぷり含んだ、夜風の中にも混ざり込んでいる気がした。
問うてみる。良い香りがするね。と。座り直し濡れた指先をハンカチで軽く拭う君は、小首を傾げ髪に手を当て答える。
「え?ああ。露天風呂の帰りに、女将さんが髪に挿してくださったの。スイカズラの花ですわ、良い香りですわね。お庭の垣根に絡ましてあるそうですよ」
スイカズラ。黄色と、白の花。金銀花。そう言われてみれば、この季節にここの部屋で過ごせば、微かに花の香が届いていたっけ……。
それが見たくなった。それを君に提案。
「外は、肌寒くありません?身体が、冷えてしまわれますわ」
お仕事があるのに。風邪でも引いたら担当さんに、夫婦して叱られましてよ。子どもを諭す様に、君は私を諌める。
「花は夜のほうが香りが強い。梅を筆頭に、薔薇も百合も、山梔子も、桜でさえ、夜には匂い立つ」
闇に浮かぶ金銀花は、水滴が混じった様な空気に忍び込み、涼やかで甘い香りを強くしているだろう。君の黒髪にある、小枝ひとつでさえこんなに香るのだから。
黄色と白の花だから、夜目にはえて綺麗だよ。と立ち上がりながら手を差し出し誘う。
「見たいのは山々ですけど……」
私の身体を案じ、腰が重い君は立ち上がろうとはしない。卓をぐるりと周り、君の傍らに立ち、さあ行こうと手首を持ち腕を引き上げた。
「寄り添い見れば、寒くはない。それに」
下心を隠して笑顔を作る。
「それに?」
あどけなく聞く君は、とてもながら人妻とは見えない、乙女の様な顔。
「露天風呂が近い。入って帰ればいい、ここの外風呂は何時でも入れるのが、ウリだから」
ゲコゲコ、ケロケロ、グェグェ、けけけけ、げげげけ。
蛙が声を揃えて鳴いている。
私の企みの背を押す様に。
君はきっとこう言う。
それならば大丈夫ですわね。と。夜遅く温泉に入るのは、初めてでしてよ。と。少女の様にはしゃいで話す。
コチコチ、コチコチ、カチ!
ボーン、ボーン、ボーン、ボーン………。部屋の時計が、十時を打つ。
フフフフ。
夕刻に入ったときは、男湯と女湯に別れているそこは、十時を過ぎると、簡易的な目隠しの簾が巻き上げられる。広々とひとつの湯。混浴となる風呂。
初めてここに来た君は知らない。
そして今、宿に逗留しているのは、私達夫婦だけ。夏場の避暑には、まだ少しばかり早い季節。
スイカズラが咲く宿の庭。昼は深山でカッコウが鳴いていた。そして私達はこれから、二人寄り添い、咲き誇る金銀花を見る。
「さあ、遅くならないうちに行こう」
「はい」
私を見上げる君は笑顔。素直に立ちあがる、君の香に混じり立ち昇るスイカズラ。
「私、こんなに遅く露天風呂に入るのは、初めてでしてよ、うふふ。お星さま見れるかしら……」
思ってた通りの答えが帰ってきた。
ゲコゲコ、ケロケロ、グェグェ、けけけけ、げげげけ。
外では蛙がメスを求めて鳴いている……。
終。