くじら(2)
記憶は決して消えたりしない。失われた時が紅茶を浸したママレードで甦ったように、何かきっかけさえあれば意識の上に浮かび上がる。現実は現実である限り消えることは無く、過去は決して洗い流されず、静かに、思い出されるその時を待っているのだ。
僕は居ても立っても居られなくなって、鞄をひっつかんで劇場を後にした。あのまま座っていれば、とめどなくあふれだす記憶の濁流に、押し潰されてしまいそうだったのだ。
既に走りだしていたとはいえ、行き先が定まっているわけではなかった。その候補ならいくつかあったが、未だ決めかねていた、と言った方が正しいだろう。大通りの赤信号で足止めを喰らって、少しづつ頭が冷えてきたあたりで、追いかけてきた安曇に背中を小突かれた。
「挙動不審か」
振り返ると、彼女はパソコンを差し出してきた。どうやら机に置いていってしまっていたらしい。
「…………悪い」
僕は素直に受け取り礼を言うと、鞄に無造作に突っ込んだ。信号が青になる。人の流れに誘われるがまま、僕らは横断歩道を渡り始めた。
「で、何が始まるの」
「わからない」
「あのメールの差出人は?」
「…………わからない」
期待外れの返答に、安曇はなーんだと口を尖らせた。
とはいえ、わからないなりに見当はついていた。そのカギは、夕焼けに包まれた高校時代の記憶。あのとき僕と話していた彼。名前も顔も思い出せないが、その声は、その言葉だけは思い出したのだ。
「宇宙の彼方から宇宙人が攻めてきたら---」
僕はふと、安曇に問うた。
「どうする?」
「それって、さっきのメールの?」
黙って頷く。冬にしてはやけに日差しが強い日だったが、冷ややかな風も心地よく、薄くにじんだ汗はすぐに乾いていく。安曇は愛用のキャップを深くかぶりなおした。
「そりゃあ……やっぱりメールの言う通りなのかな。上を見るでしょ。ほら、はじめて東京に行った時もさ、ビルが高いのなんので上ばっかり見てたけど……」
僕と彼女が東京に行ったのは、中学校の時の行事か何かだったか。だがその思い出話を聞く僕は上の空。なにかに押し返されたかのように立ち止まっていた。安曇がそれに気付いた時には、彼女はすでに横断歩道を渡り終えており、対する僕はまだ途中の安全島の上。信号はもう点滅を始めている。
「…………昴?」
「僕は、違う。僕は------」
信号が切り替わり、トラックは走り出す。僕らの視線は続く車に遮られ、轟轟と走るその音で、僕を一気に現実に引き戻す。今や声も何も届くまい。
「しないと、いけないことがあるんだ」
だからこれは、自分に言い聞かせる言葉だった。
**
電車に乗った後は、僕らの間に交わされた言葉は少なかった。安曇も僕の様子がおかしいことに気付いていたし、僕も僕が正常な判断をしているとは思えなかった。たった一通---いや、正確には何通も届いているのだが---メールを受け取っただけでこうも心を乱され、現実のものかもわからない記憶にすがって、あるかもわからないタイムカプセルを開けようとしているのだ。正気ではないだろう。だから安曇が付いてくると言い張った時には、彼女の方の正気も疑ったくらいだ。
馬鹿なことをしている、という自覚は二人ともにあった。
「で、どこの神社なの?」
「無在神社。学校の裏手の山にあったとこ」
「あった?」
「廃れたんだよ。だいぶ前に」
不可思議なことに、幼稚園かそこらの時分、僕はそこで遊んだ記憶があるのだ。
当然この記憶は、僕が越してきたのは小学生の時だという母親の話と真っ向から矛盾するし、そもそも高校に上がった時には、その神社はもう棄てられた後だったように思う。この記憶はきっと正しくない。僕がそこで遊び、タイムカプセルを埋めることなど、あり得ないのだ。物理的に。
「……なんか、夢みたいな話だね」
「夢?」
「矛盾だらけなのに、中途半端に現実的なとことか、特にそっくり。ねえ昴、もし本当に神社にタイムカプセルが埋まってたら……」
陽は少しずつ傾き始め、間延びした影が車内に落ちる。この時期の妙に早い日の入りに、妙な胸騒ぎを覚える。
「……そしたら、どこまで現実なのかな。どこまでが------」
夢なのか、という言葉は省略された。言うべきではないという直感があった。言ったとして、何になるというのだ。
なにか返事を探したが、結局なにも答えられずに終わった。でもただ一つ確かなのは、僕はあのメールを受け取ったのだということ。それだけが、まごうことなき事実として、矛盾する記憶を吐き捨てるのを阻むのだ。であるのなら、きっと何かが始まる。それだけは信じられた。
電車を降りる頃には、空は一面の群青色だった。青い薔薇がちょうどこんな色だったか。閉店間近のホームセンターに立ち寄り、スコップを二つ購入した。
せっかく近くまで来たのだが、懐かしの母校に立ち寄るのはまたの機会にして、裏手に回る。山の入り口にはパイロンが立っていて、生徒の立ち入りは原則禁止されている。といっても、在学中に忍び込むような生徒は殆どいない。安曇がそうであったように、無在神社跡地の存在すら知らない者も少なくないのが現状だ。
「足元、気をつけて」
昨晩を通して降り続けた雨のせいで、地面はぬかるんでいた。土砂崩れが起こらないことを祈りつつ、雑草まみれの旧参道を進む。放置されて久しい常夜燈を辿っていくと、やはりこの道のりには見覚えがある。
「この分かれ道はたしか右に曲がると…………そう、ここだ」
振り返り、安曇がついてきているか確認すると、僕の歩みは自然と速まった。廃れて久しい神社の鳥居が見える。
「ここが…………無在神社?」
「そう。じゃあ、行こうか」
一礼し、鳥居をくぐる。打ち棄てられたこの社に今でも神様がいるのかは判らないが、いつもの癖だ。
「目印か何かあるの?」
「いや、それはどうだったか……」
手水鉢に足が向いたが、今日は参拝しに来たわけでは無い。暗くなりきらないうちに下山したいということもあり、一直線に社の裏手に向かった。そこには------
「…………無さそうね、目印」
そこも例に漏れず、雑草で覆われた地面が広がっているばかりだった。杭か何かが立っているわけでもなく、僕らは途方に暮れるしかなかった。
「これはいったん出直し---」
そこまで言いかけた時、僕と安曇の携帯が同時に振動した。思わず顔を見合わせ、お互い携帯電話を取り出す。
僕のロック画面には、新着メールの文字。慌てて開く。
「もしもし千歳? どしたん」
横ではといえば、安曇が電話をとっていた。どうやら先ほど劇場で別れた、千歳からかかってきたものらしい。
「今どこ、って……」
安曇は僕の顔をちらっと見て、言葉を濁す。
「昴と遊びに行ってるだけだけど…………え、いや違うよ、屋外…………」
新着メールは、先ほどの不審メールと同じ差出人から来たものだった。件名はなし。本文は簡潔な文字列が一行、『そこから十歩前に』。
心臓を掴まれたような気がして、僕ははっと振り返る。メールが言う『そこ』とは、僕が今まさに立っている『ここ』だ。つまり、僕は今、このメールの主に見られている。おそらく、彼に------
とり憑かれたように歩みを進める。十歩進むとまた携帯が振動した。件名はなし。『左に十四歩』
一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。
十一、十二、十三。
十四、
『そこ』
僕は迷うことなく、携えたスコップを突き立てた。
駆け寄った安曇が、携帯電話を耳に当てたまま駆け寄って、不思議そうに僕の顔を覗き込む。大声を上げる千歳の声が、安曇の携帯越しに聞こえてきた。
『いますぐ空見て空。ねえこれ何が起きてるの-----』
釣られて安曇が空を見上げた。僕も思わず、顔を上げる。
空には先ほどと変わらず、群青が一面に塗りたくられている。それはまるで冷たく昏い深海のよう。星々の瞬きは水泡だ。空は空でなく、今、海であった。そしてそこには、そう僕に思わせる理由があった。
いつそれが現れたのか、今となっては判らない。前兆などあっただろうか。音もなく現れたそれは、最初からそこが自分の居場所であると言わんばかりに、一欠けらのぎこちなさも見せずに大空を遊泳する。
その光景に目が眩む。本能が理解を拒む。
「くじらが、飛んでる」
街に悠然と巨影が落ちる。その数は、ひとつではない。