あの日から、五年前
どうして鳥は空を飛ぶのだろう。空を見上げる人ならだれでも、抱いて当然の疑問だ。
それは翼があるからだ、と誰かが云った。だがその人は、今ごろ空を見上げて呆然としているだろう。
またある者は、彼らは自由であるが故に空を飛ぶのだと云った。その人もまた、ぽかんと口を開けているに違いない。自分の答えが、まったくの誤りであったと気付きながら。
彼はこう言った。鳥が飛ぶのは、神様がそう願ったからだと。
彼は今こそ、その答えに満足しているに違いない。いま彼がどこでなにをしているのか、僕には皆目見当がつかないが。それでもあの、心の奥底までを見透かすような笑みを浮かべているのは容易に想像がつく。
くじらが潮を吹くと、空には大きな虹がかかった。その虹のアーチを潜り抜けるように、その巨体は新たな住処を、大空を、悠々と泳ぐ。
その光景は絵本の一ページのようで、幻想的ですらあった。そのとき、大空をゆっくりと旋回するくじらと目が合ったような気がして、僕は目を背ける。そうだ。僕には空を見上げている暇はなどない。額を流れる汗をぬぐい、スコップを地面に突き立てる。
この世界にいま何が起きているのか、誰一人として分かってはいないだろう。僕だってその一人だ。訳も分からず、ただ約束を果たすべく、黙々と地面を掘っている。
いや、もしかしたら彼は、彼だけは判っているのかもしれない。僕は一心に地面にスコップを突き立てながら、ある会話を思い出していた。五年前。高校の教室での、ある日------。
**
水族館に行ったのは数えるほどしかない。もっと言うなら好きではない、なんて言うと、たいてい驚かれる。魚の類は好きじゃないと言うと、もっと驚かれる。可愛いのに、とか、綺麗なのに、とか、そういう反応が返ってくるのがお決まりだ。
もっとも彼の場合は驚いたというより、僕の話に興味を示したという方が近いのだろう。この話題を口にするのはもう何度目になるか判らないが、いつだって興味津津に食いついてくるのだから。
「まあ、魚は好物だけどね」
これまたお決まりの補足を入れる。食べるのは好きなのだが、僕が嫌いなのは、その目だ。水の中の生き物は総じて、何を考えているのか読めない不気味な目をしているように思う。ぎょろぎょろしていて、ちょっと怖い。
「じゃあお造りとかは無理なわけだ」
制服をだらしなく着崩した彼は、なるほどなァと合点を打った。
確かに彼の言う通り、お造りはちょっと抵抗がある。活きが良いのは美味しい証拠なのだろうが、まだ動いたりするのは勘弁願いたい。自分の身体に箸を伸ばす人間に、魚たちが目で何かを訴えているような気がして気味が悪い。それは恨み節か、はたまた嘲笑か。
「まあ、魚介が嫌いな人間というのは一定数いるからね。かの小説家ラヴクラフトだってそうだったらしいじゃないか。……ちなみに貝の類は、どうだったかな?」
「アサリだとかシジミだとか、味噌汁の具としては好きだよ。牡蠣も食べたことがあるし、食材としては好きだな。でももし目がある貝がいるっていうのなら…………それならやっぱり嫌いかもしれない。イカもタコも、生きているのは好きになれないし」
魚介類に対して僕が抱いている感情は、嫌悪というよりも不信感に近いかもしれない。イカやタコはイヌと同じレベルの知性を持つという話も聞くが、本当はもっと頭がいいかもしれない。ひょっとしたら、僕達ヒトと大して変わりないなんてことだって……。
「ほう。ではクジラは? あれは魚類ではなくほ乳類なわけだが…………やっぱり嫌いか」
僕の机の上で足を組む彼は、にやりと笑って僕の顔を覗き込む。僕が首を縦に振ったのを見届けると、満足したように喉を鳴らした。
「ふむ、そうか、そうか」
とん、と軽快な音を立て、彼は地面に降り立った。冬の早い夕暮れで、冷えて澄んだ教室の空気は橙一色に染まっている。
「では、ここらでお別れだな」
「もう、帰るのか?」
「ああ。そして残念だが、これが、今生の別れになる」
学生二人の下校の挨拶には、今生の別れなんて言い回しは不適切だろう。だが僕は特に疑念を抱くことは無かった。そういうものなのだろうと納得した。彼の言葉には、そういう不思議な説得力があった。
「……なぁ昴。約束、覚えてるか?」
昴というのは、僕の名前である。
「ああ、覚えてるよ。『世界中が空を見上げる時、お社の裏に埋めたタイムカプセルを掘り返す』だろ。でも僕が開ける役で、本当に良いのか?」
「良いも何も、そういう約束だと何度も言っているじゃないか。俺が埋めて、お前が掘り出す。いいか、絶対忘れるなよ」
なんでも幼稚園の時、僕たちは一緒にタイムカプセルを埋めていたらしい。らしい、というのは僕がその事実をすっかり忘れてしまっているからで、幼馴染である彼はことあるごとにその話を持ち出しては、覚えておくよう僕に念を押すのだった。
世界中が空を見上げる時、なるタイミングはいつ来るのか。肝心のそこについては、彼はついに教えてはくれなかった。そのなんとも詩的な表現について尋ねると、彼は決まってこうはぐらかすのだ。
------宇宙の彼方から宇宙人が攻めてきたら、みんな空に釘付けだろう。
「…………じゃあ、幸運を」
彼はしばらく僕の目を見ていたが、やがて教室から立ち去った。こつ、こつと廊下に響く足音は、すぐに聞こえなくなった。
彼の言葉は的中していた。次の日から、僕が彼と会うことは二度と無かった。クラスの名簿にも座席表にも、どこにも彼の名前はなく、僕がここに引っ越してきたのは小学生の時だという話を母親から聞いたあたりで、僕は彼の顔すら思い出せなくなっていた。でも彼の言葉は、妙に記憶に残り続けていた。
そうして五年の月日が流れた。僕は大学生になった。
そして、その日がやってきた。