シュゼット
何かを求めるように、フラフラと歩きキッチンに辿り着く。
ちょうど午後二時。料理に集中しているうちに気持ちが固まってくるから。気持ちを宥めて心を癒すには甘い物がいい。
「卵、グラニュー、薄力粉、溶かしバター、オレンジ、ホットミルクにリキュール、全部あるな」
“おやつだ! 何作るの?”
「さて、この一般的な材料から何が出来上がるでしょう? すりおろしたオレンジ皮と材料を混ぜ、ダマにならないように……フライパンにバターをひき、混ぜた液を少しいれ低温で薄く焼きまーす。どう、分かった?」
“ずいぶん薄焼きだね。クレープだ。チョコバナナがいいなぁ”
「惜しいな。クレープシュゼット」
“それもクレープだから当たりだ”
生クリームやフルーツを入れて包まないし。シュゼットはオレンジ入りで、フランスでは少し煮るのが伝統。陽翔の想像とは違うものができてしまう。
「チョコバナナは今度な」
“一翔の作るのは高級なんだよな”
「俺のシュゼットも美味いよ」
“期待してる!”
オレンジ皮を細切りにした甘いソースにクレープとオレンジの角切りをいれ、軽く煮る。カラメルの甘さと柑橘の酸味と香り。レトロだけれど、今日は基本に忠実に作りたい。しっとり柔らかく、甘さの中に広がるオレンジ。
誰にだって基本になるものはある。俺が料理をして自分を顧みるように、勉強好きな陽翔に学生時代は必要だ。
――なぁ陽翔、宿屋にいたら料理もいっぱいできるよな? それに俺たちもともとは旅館の息子だしさ……そろそろ落ち着いたほうがいいと思う。
“うん。いいよ。学校か、楽しみだなぁ”
――いつまでも放浪してちゃダメだよな。でも俺、皆とずっと一緒にいたかったよ
“今の俺たちに必要なのは冒険ではなくて、安全と将来性だよ”
――そうだよな。
“きっとまた会えるよ。兄さん、学校ってどんなところ?”
俺はボディブローを食らった気分だ。二回目だから、子供の集まりに行く理由も魅力も感じない。そんなこと言えないし、悟らせたくない。病弱だった陽翔には今度こそちゃんと学校に通って笑ってほしい。
「それは一言では言えないな。思いっきり体感しろよ。俺はその間、昼寝ができるから大満足さ。――さぁ、仕上げるよ」
リキュールを入れてアルコールを飛ばす。盛りつけたフライパンから炎が上がる。
“せっかくのデザートが……燃えた”
俺の、魔法並みにな(笑)
「世界三大フランベ・デセール。超古典的クレープシュゼットでございます。さぁできた……(はると交代だ)」
俺は食卓の正面に鏡を置いた。鏡に魔力を込め、自分だけ陽翔を可視化する。
――陽翔、交代の時間だぞ~。どう美味そうだろ
“オッケー。いただきますっ!”
俺たちは二人でひとつの身体だ。でも料理を作ったら、やっぱり自分ではない誰かに食べてほしい。でも陽翔は半分食べると、すぐに交代を要求してくる。
“本当に美味しかったからシェアしたいんだよ”
「わかった」
俺は一口食べると悩んだ。こんな平凡は味ではなかったはず。
――もういらない。
“嘘。遠慮しちゃダメだよ。食いしん坊のくせに”
いいのだ。どうせ何を食べても美味しく感じない。小太郎と別れてから料理するのを避けてきた。やはり俺は味覚を失ってしまったようだ。
“兄さんってば! ――おい、かける!! 皿の上で泣くな。俺が食べるからぁ!! ――遅かったか”
俺は鏡を見て苦笑いした。酷い顔だ。
「あー、ごめん。入っちゃったから俺が食う。新しいの作るよ」
さぁナフキンで顔を拭くんだ。もう一度作ろう。味は分からなくても勘はまだ残っている。今度はもっと美味しく!
「……。」
ナフキンで顔を隠しまま、俺は硬直した。
嗚咽の止め方が思いだせないし、こんな状態で交代できない。
もう一度。
もう一度だけ、チャンスが欲しかった。別れる前に、できる限りの感謝を込めて料理したかった。
こんな別れってあるか?
たくさん世話になって、礼のひとつも伝えられない。明るくて横暴で雑な男だけれど、慎重でこの上なく愛してくれて……俺の料理を一度だって残さなかった。
“一翔、俺がいる。俺がいるんだから”
「大丈夫だよ。ちょっと昔のこと思いだしただけ」
“もう。そうじゃなくて!”
――分かってる。陽翔といると心強いよ。
でも違うんだ。この穴は陽翔に埋められない。
料理は俺の唯一の救いだった。俺がフランスで修行したのは陽翔と別れて自立するためだった。俺の料理で、たくさんの人々が笑顔になる。それが俺を支えていた。
でも今は、何もない。
食べさせるべき相手も、作るべき場所も、出会うべき料理もない。
学校という狭い空間に押し込まれて、ただ寝るだけ。
あと十年近く、俺は黙って我慢できるだろうか。
陽翔に新しいクレープを作りながら呟いた。
「実はクレープシュゼットって、あまり好きじゃなかった。陽翔と同じように、生クリームたっぷりのほうが本物だと思っていたから、違うものが皿にのっていいてがっかりした」
四つ折りにして皿に載せたクレープは完成形ではない。まだこれはカラメルソースと添え物のオレンジがあるだけ。先ほどとは別の手順で作る。
「でも作ってみると楽しいんだ。甘味とジューシーさと酸味のバランスが大事でね、見た目はシンプルだけど、味は単純じゃない。料理人の真価が問われる。
だから単に甘いだけのシュゼットもあれば、もちふわでオレンジの効いたシュゼットもある。作り手の想いが現れやすいデザートだ」
決め手はグランマニエ。リキュールを振りかけ、皿の上で直接料理する。
一翔は皿に手を翳してイメージする。
ごく弱く、ものすごく軽く。ちょっと引火させるだけ。アルコール分を飛ばして濃厚なソースに仕上げる。
魔力をコントロールする。燃やしすぎるな。それが俺の課題だ。
「フランベ!」
思い通りの炎が上がった。
“兄さん、すごい上手!”
そう言われるように、昔、たくさん作った。伝統を守りつつ、誰よりも美味しいと褒められるために工夫を重ねた。でも、無駄だった。メニューの最後のデザートにするにはやっぱり生クリームたっぷりのロール型を期待していて、見た目も平凡で古くさいシュゼットでは難しかった。
「俺、パティシエじゃないから、これが限界だな」
その時、後方から歓声が上がった。ディスカスが拍手していた。
「腕は確かと聞いていたが、デザートまでできるとは! 見た目も綺麗で美味そうだ。身長さえあれば即戦力だ」
ぐわしぐわし!
めちゃくちゃに頭を撫でられるのは、そこがちょうど良い位置だから?
「やめてください。コック帽がずれます。ディスカスさんの分も今、作りますね。どうぞお掛けになってお待ちください」
「宿屋のオヤジと同居してディスカスさんはないだろう。敬語もいらんよ」
「お世話になっている方に失礼な態度は取れません」
ディスカスがバンと背中を叩く。
「敬語を使われるほうが失礼だ。私のことは第二の親父だと思ってフレンドリーに接してくれないかな」
「いいんですか? ならば……言葉使いだけではなくて、魔法の使い方も教えてくれないかな。小太郎は全部話したって言っていたし、正体も知っているんだろ? とにかく早く強い魔法を覚えて、戦えるようになりたい」
「あぁ。聞いたよ。でも駄目だな」
「何故!」
「言っただろう。成長期だからだ。結局体力がなければ強い魔法を唱えることはできない。――三日も寝込んでまだ分からないのかい?」
「もうすっかり元気になったよ!」
「私の下手な回復魔法と、陽翔くんの我慢のおかげでね?」
俺は何も言えなくなって、黙々と片付けを始めた。カチャカチャとフォークとナイフの音がする。
顔をあげると、クレープの皿が消えていた。
「美味しい?」
「うん、美味い。これも鼻水入り?」
「最初から入ってないよ! 鼻水は!」
「小太郎はずるいなぁ、こんな美味いものを毎日食べていたのか。あいつ、私に全部押し付けて、宿代も払わないんだぞ。君が働いてくれなきゃ元が取れない。どうせ暇しているんだ。毎日夕方三時間手伝ってくれるかい?」
ディスカスが頭を撫でたので、自然に頷く形になった。
「いい腕しているんだから、ちゃんと使わないとダメだ。代わりに、魔法を教えてあげよう」
「本当!?」
「下手にキッチンで使われて、全焼されてはたまらないからね? あくまで魔力コントロールのためだ。弱い呪文と、弱い呪文を有効的に利用して敵から逃げる策だけは教えてあげよう」
ディスカスは快活に笑う。彼は腹も太ければ、気持ちも図太い。
「ありがとう! ディスカス!!」