おだやかな午後
ハルトの鼻先に吐息がかかった。驚いて目覚めると、すぐ隣でキンタが眠っている。
――二人そろって仲良く一緒に“おねんね”かよ!
ハルトは恥ずかしさのあまり、飛び起きた。
「この家には客間と寝室が必要ですね」
エストワールがすぐ隣のダイニングテーブルで紅茶を楽しんでいた。アフタヌーンティーセットが出されているが、妙な酒のツマミがテーブルに並んでいる。ジェットが見よう見まねで用意したものだ。
そこにエストワールがいることが不思議だが、よく思い出すと自分が手紙を出して巻き込んだ結果だった。
「迅速な対応でした。モンスターにキンタを運ばせるのは助かりましたが、嘴から吐き出させるというのはどうかと思いますよ」
「溶けなければ体内が一番安全です。ジェット以外で事情を知っていてキンタを預けられるのは先生以外に思いつかなかったもので」
ハルトの声にジェットが駆け寄ってきた。怒られると思ってハルトは身を固くしたが、逆に抱きしめられた。
「よく頑張った」
「怒ってない? 同じこと繰り返すなって言われたのに、心配かけてごめんなさい」
「生き残っただけで奇跡だ。あの魔法使い、ただ者ではなかった。ファイアウォールどころか、輝く壁を無詠唱だ」
ハルトは言葉が出ない。
「輝く壁って……メタフレアよりも温度高い防御壁だよ」
「そうだ。しかもかなり制御が上手い。今のハルトの実力ではとても太刀打ちできない相手だ。大魔法使いか魔王クラスに匹敵する」
「魔王!?」
「まぁ、俺の敵ではないけどな!」
「そんなのが、どうして結界内にいるんだよ。おっかしいだろ」
「アブソルティスにも、その程度の実力者はいる。マグワイアがそうだった以上、その可能性が一番高い」
ハルトは目を瞑り、深呼吸した。
「わかった。気を付ける」
ジェットは感心した。以前なら体調を崩すぐらいに動揺していた。今でも恐怖していることに変わりないだろう。それでも冷静でいられるのは、戦う覚悟が決まったからだ。
――少しずつ、成長しているんだな
ジェットは微笑ましく思いながらも、敵わぬ相手と戦うことになったことが心配でならない。
「仮面の戦士に刺されるようでは実力不足だ。再び出会ったとしても、誰とも戦うな。分かったな?」
「……。最善を尽くすよ」
ハルトは左手の調子を確かめていると、ぐらぐらと眩暈がした。完全に血が足りない。それに腹が減った。こういう時は筋肉に良いものを身体に入れたい。
「鉄分とタンパク質……卵と豆のスープとステーキにしよう。野菜採ってこなきゃ。エストワール先生も食べていきます?」
棚を探るハルトを見てジェットが不安そうな顔をしている。
「無理するな。そんな腕で料理できるわけないだろう」
「こんな傷、食べれば治るよ」
言っている傍から床が血だらけになった。
「あれ」
ジェットは憤慨し、止血に躍起になる。ジェットが聖女の力を借りたので腕が無くならずに済んだが、傷は深い。
「あれじゃない! 痛みを我慢するな」
「こんなの我慢のうちに入らないよ」
「限度ってものがある。誰だって痛いものを、何故隠す!」
ハルトは言葉に詰まった。
兄のプライドなんて、ちっぽけなものだと分かっている。痛いとかやりたくないとか心の底にあっても、陽翔とは以心伝心だからなるべく抑えたい。
「別にいいじゃないか。そのうちシェラが治してくれるよ」
しかし傍で見守る側は心配だ。今まさに、顔色は真っ青で余裕がない。きっと無理をして、また倒れる。
エストワールはため息まじりに近づいた。
「シェヘラザールはしばらく無理です。見せてみなさい」
エストワールは赤黒い穴に動じることもなく、軽く手を翳した。目を瞑り、神を称えている。
ハルトの肩に暖かい力が満ちていく。キンタの時と同じような感覚だが、傷の部分に限定され、安心して任せることができる。
初めて気を許し、ハルトは柔らかに微笑んだ。
「ありがとうございます。エストワール先生」
ふいの笑顔に、エストワールも微笑む。二人で笑い合うのはこれが初めてだ。
たぶん、お互いに隠していることがいろいろあるからだろう。ハルトは想像しかできないが、エストワールはこの国でかなり権力を握っている。
RBCの校長だけでなく神官としても上位であり公爵。血縁では遠いが王家の血筋だ。かなりの財力と権力があるのに、学校の校長で収まっていることにはきっと理由がある。
これからは歩み寄る必要がある。魔王として自分が成長する間には、今日のような事件や事故がたくさん起こりうる。そのたびにエストワールの顔色を窺うより、味方に引き入れたいところである