旅の始まり
ジータ国歴2018年 秋。
月の美しい夜である。満月は円環が見えるほど輝いている。青白い光は大草原に降り注ぎ、草の波が揺れている。そこに見え隠れする、大きめで丸みを帯びた岩のようなもの。
近づくと小さな焚火が見える。一匹の獣とひとりの青年が身を寄せ合い、丸くなって寝ている。
そして青年は少しうなされていた。
――あぁ、またこの悪夢。
難関ダンジョンの最深部だ。大きなドーム状の壁は全てが水晶で覆われ、光を放っている。尖った壁に激突すれば即死、美しく恐ろしいラストステージ。
俺は王の涙と呼ばれる高級魔法石に目もくれず、仁王立ちしている。紫色の液体をどっぷり浴び、血と汗をダラダラと流して、荒い呼吸を整えていた。
肩から力が抜け、硬く握った手からスルスルと剣が落ちていく。
ガン! ゴトッ
「勝っ――たぁぁ……」
倒れた剣の先には、大きく黒い山のような存在。醜くも人の形をした、角の生えた魔物。黒き魔王は他の魔族とは別格で強かった。
――最後の一撃が外れたら危なかった
地鳴りのような笑い声が轟いた。
「実に愉快。名実共に素晴らしい狂戦士ぶりだった。褒美を与えてやろう」
魔王の指先から光が生まれ、ふい討ちのように一直線に胸へ刺さった。
「!」
膝をついて胸の中心を押さえた。酷い痛みだ。血の巡りがおかしい。勝利目前だったのに、これで終わるのか?
「う……クソッ」
黒き魔王は笑った。
「我が宝、覇者の鎧だ」
鎧というには何も無かったが、胸が異常に熱い。シャツを破り、傷を見ると胸に拳ほどの大きさの珠が埋め込まれていた。珠に絡むように施されたのは魔王の金色の装飾金具が、皮膚や血管と癒着して、ドクドクと魔力が流れている。
しばらくして矛盾に気が付いた。これはもうかなり前の話で、今ではすっかり魔王の核と自分の魂は馴染んでいる。なのに、今さらなんでこんな夢を見て思いだしている?
――これ夢だよな? 夢で死にそうになったことはたくさんあるけれど、これは単なる夢だよな?
「ノースデルタに行け。極夜が待っているぞ」
意味深い笑みのまま、黒き魔王は塵のように消えた。
俺は唇を噛んだ。ちょっと腹が立った。いくら魔法の世界が謎と不思議だらけでも、上から目線で旅の行き先を指示してほしくない。
――お節介な黒き魔王め。今さらどんな危機があるというんだ? 俺は宿屋になりたいだけなのに
※ ※ ※
ずり落ちた腕のせいで、手袋が半分脱げている。右手の甲から青白い光が漏れ、青年の無邪気な寝顔を照らしていた。
俺は目覚めるなり、右手を睨みつけ、きっちりと手袋をはめ直した。
「アッぶねぇ」
また魔力が洩れてしまった。最近は手袋無しでいると、魔力が膨大すぎて隠しきれない。やっと世間では片足バーサクの名前を忘れてきたというのに、見つかったら問題だ。
「へっ……くしょ!」
夜風が冷たい。弱くなった焚火に薪をくべる。
――野宿がきつくなってきたな。
雪が降る前にどうにかしたい。けれど次の村までは遠い。魔法が使える自由な世界で移動手段が徒歩とは酷いものだが、一般市民ならば甘んじて受けるしかない。
右足を撫で、鉄の冷えた温度に皮肉っぽく笑った。昔ならば一瞬で隣村まで走れたが、今は老人や子供にも劣る。
ベルが欠伸ひとつ、そして心配そうにこちらを見ていた。
その夜目に光る瞳の美しいこと。野性味を帯びた筋肉質の身体は上品で、青みを帯びた灰色の獣毛は艶やか。頬をよせると柔らかく温かい。ベルの姿は虎に似て可愛いし、犬のように忠実だ。
「大丈夫だよ。ありがとう」
ベルは警戒しながらも目を瞑る。
俺は火を熾し、茶褐色の豆を焙煎して挽き、湯を足す。香り良く、大人の苦さに懐かしさを感じながら、身体を温める。
また冬が来る。エルフの村を出たのは一年前のことだ。
宿屋は皆が泊まるためのものなのに、最強になった段階で、一般人の常識や感覚を失った。普通の人間の感覚が理解できなければ、宿屋の主として失格だ。どんなに苦労して旅をしてきたか分からないままで、真のおもてなしはできない。
最強の実力があっても、最弱の立場でいる。世界のすべて手に入れられるとしても、世界は俺だけのものではないからだ。こうして徒歩で旅をしているのは傲慢な俺にとって、リハビリテーションなのだ。
エルフの村で、傲慢さを右足と共に破壊された。片足でも日常生活に支障はないが、わずかな体幹の狂いや、速攻ができないと魔王戦は苦しい。
今まで世界中にいる有能な魔工技師を訪ねた。そして次の村の魔工技師が最後の望みだ。田舎に引っ込んだ魔工技師だから期待できない。むしろ次の村に寄る理由はベルと一緒にいられるのもそこまでだからだ。
ベルと一緒の旅は楽しかった。
夜空を眺めるように上を向いて、自身を諭す。泣いちゃだめだ。最後まで、仲良く笑って旅をしよう。
旅となれば出逢いと別れ。
「これも冒険だ」
だから楽しもう。さぁ、宿屋ライフの始まりだ!




