07
「いらっしゃいませー」
ホールにはいないけど声を出してみた。
一応いまはこのお店で働いている一員なのだから遠慮する必要はない。
もしくれるのであればお金を胸を張って受け取れるようになれるよう、一生懸命に。
「莉子さん莉子さん」
「なに?」
「智紗さんが来てくれましたよ」
出てみると確かに彼女はそこにいた。
働かせてもらっていることは言っていなかったため、彼女はどこか驚いている様子だったが。
「いらっしゃいませ」
「は、はい……え、いつからですか?」
「昨日です。こちらへどうぞ」
おぉ、友達相手でも自然と敬語ができた。
練習した甲斐があったというものだな、自然にできると。
「ちょ、調子が狂いますね……あなたに敬語を使われていると」
「それなら智紗さんがやめてみたらどうですか?」
「え? ……分かりました」
彼女はあたしを席に無理やり座らせて微笑んでくる。
その笑顔はこちらの心を実にざわつかせるものだった。
けれど嫌というわけでもない、なにをしてくれるんだろうという期待とちょっとの不安が自分を襲う。
「ふぅ……そのエプロン、似合っているわね」
「え」
「どうしたの? 褒められ慣れていないのかしら? それとも、あまり聞こえなかったのならこうして」
こちらの耳元に顔を近づけて「よく聞こえるように言ってあげるけれど?」なんて囁いてくれた。
その瞬間にあたしを襲ったのはよく分からない感情。
決して耳が弱いというわけでもないのに、ザワザワゾクゾクドキドキモヤモヤ、分からないことのオンパレードだった。
「ふふ、なんて少し調子に乗りすぎてしまいましたかね?」
「あ、あんた……やりすぎよ」
「これが素かどうかは莉子さんが判断してくださいね」
さらっと名前呼びになっている。
先程までにこにこと笑みを浮かべていた咲はすっかりそれを消して、智紗を睨みつけていた。
「鳴海くん、ちょっとお皿を洗ってくれるかい?」
「あ、はい! すみません、まだ働いている時間なのに」
「大丈夫だよ、よろしくね」
「はい!」
智紗に挨拶をしてこちらは皿洗い開始。
このお店のいい点は基本的に同じ形が揃っているということだ。
故に洗うのもやりやすい、それでも夜は結構料理も出るためこびりついて大変だけど。
「そうだ鳴海くん」
「莉子でいいですよ」
「今日こそ受け取っておくれよ? 莉子くんは頑張ってくれているんだから、僕には渡さなければならない義務があるし、君には受け取る義務があるんだよ」
「……はい、それではありがたく……って、ださいですかね? たった1日で意見を変えて」
「そんなことないよ、寧ろ僕は嬉しいよ」
あまりに拒否し続けては庸一さんの時間を無駄にする。
迷惑をかけたくて働かせてもらっているわけではないのだから、柔軟な対応が必要だろうと判断した。
とにかくその後も一生懸命続けて、今日も終わりがやってくる。
「お疲れ様」
「お疲れ様でした」
ホールで頑張ってくれていた咲にもお疲れ様と忘れずに言う。
終わったら早く帰ってきてと言われているので早々に帰ろうとしたら当然止められ渡された。
だが、
「おかしいですよ、この薄さは」
嫌な予感がする、失礼を承知で確認させてもらったら案の定5000円も入れられていた。
「いまの時給で換算したらそれくらいだよ」
「いや……咲にはどれくらいあげているんですか?」
「身内に手伝ってもらうのと他所様の子に働いてもらうのは違うからね」
「納得いきません、これでは話が違うじゃないですか」
「少ないとゴネるのではなく多くて納得いかないって、君は面白い子だね」
咲に言われたことだが、あたしは1日500円でという条件で了承した。
1時間500円ではなく、20時まで働いてその値段のつもりであったのに……。
「悪いことばかりではないよ」
「なんでですか?」
「それなら君が多くこの店を利用してくれるだろう? 僕はこの店が好きなんだ、自分が死ぬまで続けていけたらいいなと考えている。だから君みたいに定期的に利用してくれるお客さんは重要なんだよ」
「あははっ、だったら最初から多く渡さなければいいのではっ?」
つまりその時まで紙幣をレンタルしているようなものだ。
他の物に使ったりなんかしたら殺されそう……。
「いいんだよ、受け取って欲しい」
「……それならいただきます、ありがとうございます」
ただ、このお金で家族になにか買ってあげたかった。
余程高いものでなければ余裕はある、りなになんかは寂しい思いをさせているから特に。
「お疲れ様です」
「えっ、あんたなにやってんの?」
「なにやってんのって……待っていただけですけど」
智紗とふたりきりになったらなにをされるか分からないから避けたかったのに。
というか、まだ20時とはいえ外で待ってなんかいたら危ないだろうに。
「送るよ」
「え、私が逆にあなたを送りますけど?」
「そこまで弱い人間じゃないから」
なにかあっても嫌だ、あたしを待っていたのなら待たせた義務がある。
無理やり腕を掴んで移動開始、こうなれば智紗は拒めない。
「……あそこは夜の方が人気なんですね」
「うん、働いてみてから分かった」
「……莉子さん」
なぜまだ握り続けていたのかという話ではあるが、彼女が足を止めたことで前に進めなくなった。
「あそこでなければならなかったのですか?」
「……他のところで働くのは距離的にも大変だからさ」
コミュ力があるというわけでもないし、テキパキと動ける有能でもないから。
確かに咲を贔屓しているように見えるかもしれないが、実際はそうじゃない。
こういう経験は自分を磨くのに必ず役立つ、おまけに将来のためにもなるわけで。
「ない……ですよね、咲さんを贔屓していたりとか」
「……社会に出た時のための練習だよ」
「莉子さん、私――」
「着いたよ」
「……ありがとうございました、気をつけてくださいね」
鍵を開けて中に入ろうとした彼女を「待って」となぜか呼び止めていた。
「なんですか?」
「その喋り方って作ってるの? どっちが素なの?」
実はあれからずっと気になっていること。
仮に無理やり敬語にしているのだとしたら、あたしにだったらやめてもいいと思う。
最初こそなにを言っているのか分からない的な表情を浮かべていた智紗だったが、質問の意図を理解したのか「ああ」と呟き笑みを浮かべた。
「あなたが私を選んでくれればあなたの好きな喋り方で接してあげますよ」
「なにそれ……まあ……それじゃあね」
「はい、おやすみなさい」
答えになってないじゃんか。
寧ろ嫌いなんじゃないかとすら思えてくるぞそれは。
「早く帰ろ」
このもやもやはりなに触れてふっ飛ばせばいい。
まあ、逆に癒やされててどうするんだって話だけどもね。
「莉子ちゃん……おはよぉ」
「うん、おはよ。あ、髪梳いてあげるよ」
「うん、お願い、ふぁぁ……」
いま起きたばかりであるはずなのにもう眠たそうなりな。
こちらは、今日は学校がないため12時から20時まで働かせてもらえることになっている。
だから妹に聞いてみることに。
「ねえりな、なにか欲しい物ってない?」
「欲しい物? あ、軍手」
「いやあの……もうちょっと女の子らしい物とかさ」
園芸部で使うだろうからそれも買うが……だからってそれをプレゼントと言うのは嫌だ。
「買ってくれるの?」
「そこまで高くなければね、2000円までなら可」
両親へは……後にさせてもらう。
あとのお金はあそこの自慢のコーヒーを飲むために利用しようと考えていた。
「じゃあ莉子ちゃんとの時間!」
「12時からまた働くからね」
「むぅ……それってもしかしてこれからずっと? お休みの日も?」
「うん、クビにされるまではずっとね」
でもいまのままでは確実に足手まとい。
それだけならまだいいが、お金まで貰っていたらただの迷惑な存在だ。
自信を持って受け取れるよう努力しなくては。
――それと、智紗と咲のことも考えないと。
「りな、あたしが智紗のことを好きだと言ったらどうする?」
「智紗さんのことを? それなら応援するよ?」
「逆に咲のことをって言ったら?」
「どっちでも応援するよ」
別に同級生だからって「咲ちゃんがいいかな」なんてことは言わないのか。
こういうことで決定権があるなんてなかなかないから困惑してしまう。
もういっそのこと相手の方から大胆な行動に出てくれればいいなとすら思う。
だってこっちは未経験なんだ、いままで誰からもモテたことがない、やる気がなくて魅力がない女。
なのにどうしてこうなったのかは知らないがふたりの子から求められている? というのが現状で。
「でもさ、慎重に考えてあげてね」
「うん、それはまあ当然ね」
「じゃあ、どちらかと付き合ったという報告でいいよ、それだけで私は幸せ。お家でのんびりしていて相手してくれる莉子ちゃんも好きだけど、好きな人と楽しそうにしている莉子ちゃんが見たいもん」
なんで最近の中学生はこうなのかね。
あたし達なんてぎゃはぎゃは楽しんでいることしかなかったのに。
少子化だからいまから生まれてくる子達に肉食系になるよう付与しているのかな、神様が。
「だけどね? 莉子ちゃんとだけいられる時は甘えるー」
「いやいや、あたしが甘えるよ、りなにね」
妹を抱きしめて少しだけ熱くなっていた全身を冷ましていく。
無理して答えを出そうとするとぎこちなくなる。
そんなのは咲や智紗だって望んでいないだろうから、いまはただ真面目に働くことだけに集中。
もちろん抱きしめるのはすぐにやめたが、お昼までりなと話して過ごして。
「おはようございます」
「おはよう、今日もよろしくね」
「はい」
さて、そろそろいい加減できることを増やしたい。
接客……は智紗にしかしたことがないし……。
「庸一さん」
「なんだい?」
「あの、なにか教えてくれませんか? 掃除やお皿洗いだけじゃ……無給ということなら別にそれでもいいんですが……」
「ははは、気にしなくていいんだよ。そのふたつだって本当に助かっているからね」
なによりも手強いのはこの人だな。
確かにこのふたつでも経験の浅い自分では大変だと感じる時もある。
でもなあ……立派になるためにやっているのに、こんなんでいいのだろうか。
……まあとにかく自分のできることを頑張ってやっていくしかない。
お客さんが来たら挨拶をして、帰る時はきちんとお礼を言って。
お客さんが途切れたらホールの掃除、今日もおやつ用のためにお買い物もする。
「いつもなら働き始めてる時間か」
「そうですね、お昼から働いてみてどうですか?」
「うーん、咲達と全然簡単なことしかしてないのに……足がちょっとね」
「あー、そうですよね、5時間とか立っているとやっぱり辛いですよね」
「ごめん……なんか頼りなくて」
「気にしないでください、こちらにだけ集中できて私も楽できていますから!」
労働時間が長くて早く帰りたいではなく、時間が経つ毎に申し訳なくなるからだ。
いやでも本当に少し前の自分からしたらこんなことするなんて思ってもいなかったけれど。
「莉子さん、この前のことなんですけど」
「それって出かけたいって話?」
「はい。それでいきなりで悪いんですけど、明日とかどうですか?」
「いいよ、どこに行く?」
「あなたのお家に」
咲にとってはどこかへ行くことよりもあたしとふたりきりになる方が重要なのか。
お金も無駄遣いはしたくないからありがたいけど、変にぎこちなくなりそう。
「だって早くしないと莉子さんが取られてしまいますから」
「まあ、咲がそうしたいなら」
「はい、ありがとうございます」
残りの時間も頑張ってやった。
それは当たり前のことだが、なんだか達成感があった。
初めて3時間以上働いたというのが自分にとってかなりいい影響があった気がする。
「お疲れ様でした」
きちんと挨拶をして上がらせてもらう。
するとなぜだか咲も付いてきた。
これじゃあまるで夜遅くまで粘って女子中学生をお持ち帰りしたみたい。
「えっと?」
「お泊りです」
「りなと?」
「あなたと」
まあ、そうだろうけど。
その前に彼女の家に寄って荷物を準備。
「お待たせしました」
「お店の2階が家だったら楽なのにね」
「それだと結構面倒くさいことがありますからね、別の場所で良かったと思いますよ」
智紗を呼ばないのはなんだかフェアではない気が。
そこら辺はどういう風に考えているのだろうか咲は。
「あの……智紗さんを呼んでもいいですか?」
「え? あ、うん、いいよ」
「ありがとうございます。やっぱり抜け駆けみたいな形になるのは良くないと思うんです」
良かった、ばれるとなんかチクチク攻められそうだし。
また「贔屓……していませんよね?」なんて言われたら嫌だ。
そういうつもりは一切ないんだから堂々と胸を張っておけばいいんだけどね。