緑山異聞
ふと目覚めると窓の外に雨が降っているのはいいものだ。
しかし、何という静けさだろうか雨の日は。音がない。
庭を見ると蹲や庭石の苔もしっとり濡れていて金魚を放っている火鉢に
も雨粒が落ちている。起き上がると縁側に座る。煙草盆はどこだろう。
-これでよござしンたかぇ
吸い付けたピースを渡された。「ああ」と咥えるが吸ってはいけない。
そうだ、俺は禁煙中なのだった。よしとこう、ピースを灰皿に置いた。
-よう来なすったね。ホンにお遙かぶりでンすね
雨は降り止まない。
「…ここはどこかね。先に来たことがあるが」と呟いた。
声のおんなは俺の斜め後ろにいるらしい。気配と匂い袋でわかる。
-嫌ですよ、ここはお前さまが拵えたところですよ
「…緑山か…ここがそうなのか」
-さいざんす。ああ驚いた。惚けるにゃまだ早ウござんすよ
喉渇いたでんしょ、どうぞ一杯。
汗をかいた江戸切子にビールが注がれている。「…赤星かい?」
-当然じゃ。お前さまの好みは知り尽くしておりんすよ
里言葉でおんなは得意げに笑った。
茄子の煮浸し。鯵の南蛮漬。甘い卵焼き。蛍烏賊。
ビールを干すと焼酎になり、おんなはパタパタと立ち働き、そのたび
に白檀の香りがたつ。雨は降り止まない。
「おまいもこっちで飲まないか?」
俺が言うと着物の衣擦れが止まり、-でも。と言った。
-でも、わっちには名前も顔をありんせん
「…どうして?」
-もう。お前さまが付けてくれンからじゃわいな
「これは俺が悪かった。名を付けよう。済まなかったな」
-本当ですか…嬉しい…
「多恵と言うのはどうかな」
-たえ…いい名前でござんすね、ありがたい
「気に入ってくれたかい」
-ありがたいナ…嬉しゅうございますよ
雨が上がり始めている。
「…また来るよ」
-ほんとにほんと? 必ずよ破ったら嫌でンすよ
「多恵さん」
-あい
「雨の日はおまいの日だ」
-あんナ、雨はけして同じところに降らないって。お前さまはわっち
のところにきっときっと来てくれなんし
…袖を引かれ、悩ましくも切なく。そうして緑山から戻った。
こちらでもやはり雨が降っている。
静かだ。
降る雨は、しかし、同じところへは降らないだろうか。
白檀の香りがしてふと振り返る。衣擦れの音がする。ふふ、と微か
に微笑む気配がする。
何百億の雨の粒。せめて一粒くらいは同じところに降れ。
たえずして。