第三話
――地下シェルター。
来るはずがなかった破滅に備えて作られた循環型シェルターからは空が見えず、海はない。
地表をインセイヴァーに譲り渡して文字通りの食用の家畜として生きる他、“天然の人間”は蟻のように地下の巣に生きるだけのものになっていた。
虫たちが地上を闊歩し、ヒトが地中を這う。そんな逆転した生活がどれほど続いているのか、記録すら、ない。
ワイヤーではなく空気の圧力でパイプの中を上下させるため、音もせず、壁面を磨きさえすれば半永久的に使えるという評判だったものは、耐用試験の限界を超えて機能し続けていた。
蟻の巣の中を走る、無音エレベーター。
そこに乗っていたのは、ふたりの兄妹。
鴉主と燕姫、荒廃した世界に生まれたふたりは顔付こそ似ていたが、表情は異なっていた。
鴉主は、左面に付いたキズに ▽ の刺青をふたつ足して鳥の足跡のような形にしている。
その遊び心と同じくらい余裕を浮かべる兄に比べて、妹の燕姫は胸の前で組んだ腕を緩めようとすらしない。爆発しそうな心臓を抑えつけるように。
妹も刺青をしているが、兄の▽だけをマネした小さな刺青が、どことなく、兄と妹の関係を象徴していた。
「燕姫、そんなに緊張するなって。無理はしない。俺も居る、大丈夫だって」
「――緊張してないし。ただ失敗せずに無理をするのが私たちの仕事だから集中してるだけ」
「それを緊張ってことだと思うがね」
以前から鴉主はこのシェルターの中では特に重要な仕事を担っていた。
左目に失明寸前のキズを負うような危険な仕事だが、今日からは同じ役割を担う妹には肩を上下させて首を回し、力を抜けとアピールする。
「何が不安だ、燕姫? 全部アタマに入っているだろ? 俺たちは何をするんだ?」
「水集めでしょ、でも、出来るだけキレイな水を……」
「飲むんじゃないんだから何でも良いんだよ。あれはマニュアル。マニュアルってのは無視するためにあるんだよ」
――全長二キロの蟻の巣をいくつか絡ませたような構造のコロニー・シェルターは、人糞から作るガスを用いる火力発電、並びに地熱によるタービン発電の併用によって電力を確保し、農耕を維持する半永久的に機能する密閉型シェルターとして五百人以上が暮らしている。
しかしながら、延々と使う内、設計時には想定されていないハプニングが起きた。
地熱を電気変換するときに僅かずつ水分が地面に溶けるように浸透してしまうのだ。
密閉型シェルターにおいて、循環の外に出た水は、宇宙に揮発した大気のように戻ることはない。
鴉主は、その損失を補うべく外へ出て給水する給水人だ。
そう、インセイヴァーの溢れる地上に出て、水を集める。このコロニー全体を守る心臓部だ。
「水より注意事項だ。色々驚いても良いが叫ばないこと。地上には土が重なって複雑な段差も有るから最初は急がない、その辺りが大事だな」
「分かってるわよ」
分かってるだけじゃな、と続けかけたところで、鴉主はエレベーターが止まっていることに気が付いた。
「地階だな、マスクを付けろ」
「分かってるってば。汚染でしょ」
「パーティ・タイムだ。バイキンは楽しいぜ?」
一切の露出の無い防護服を纏いながらゴーグル越しとはいえ鴉主が目を細めているのが燕姫にも分かった。
楽しい? 雑菌だらけの地表が? そう思いながら燕姫は肉眼で初めて“汚染された”地上を見た。
汚染源は、木々や草、動くものたちの糞尿に屍。
折り重なれば土となり、雑菌を育む。
雑菌が肥料となった土は野太い果花を付け、人類が絶滅させたかあるいは滅ぼしかけていた動くものたちの餌食となる。
濃い酸素濃度、ペーハーを図るまでもない光の透る雨。
地上は、インセイヴァーたちによる薬学的汚染や拘束的なアスファルトから解き放たれ、大自然を獲得していた。
――人間が地上の支配者として破壊した自然が、インセイヴァーによって取り戻されているのだ。
雄大な大自然とはいえ、シェルターで育った燕姫や鴉主は、ナノ秒ごとに進化する多様な雑菌に免疫を獲得できていない。
太古の人間が当たり前に出来ていたこと、それをいつの時代かに置き忘れているのだ。
「兄さん!? 地面がグニョグニョするよ!?」
「テキスト読んでただろ。ぬかるんでるだけだ。草の多いところを歩け」
シェルター内では訓練できない地表状態に、燕姫はひとりでは確実にパニックになっていただろう。
土に足を取られて転びそうになりながら、兄に支えてもらい歩く燕姫は、慎重すぎるほどにゆったりと歩いた。
「自然にはシャワーより強い雨が有って泥になるって聞いただろ」
「!? なんでこの土、流れないの? 海って大きい水槽があるんでしょ!?」
「全部流れたら、その流れた先が大陸になるんじゃないか?」
「なるほど!」
子供めいた理論展開をしながらも、鴉主の動きは老練を滲ませて何ヵ所かの行き付けの水場から、食べ残された死体の有る泉を選んだ。
死体は様々な情報を残している。
腐り方、致命傷の種類、残された部位。
鴉主は、この泉を狩場にする最大戦闘力を持つ狩猟者は空腹を満たされているが、次点以下の残飯整理は、未だ飢えていることを読み取っていた。
姿は見せないが近くに確実に存在する殺意が存在している。
――そして一瞬の交差。
「振り返っちゃいけない。
視線を向けると、獣は“自分のことに俺が気付いている”ことを察する。
雨で匂いが消えていると思っているのを熱感知で見付けて、飛び掛かってくるタイミングで電流掌でカウンター、簡単だろ?」
いつの間にか、少なくとも燕姫には全く分からないタイミングで、鴉主の腕の中にはピクビクンと痙攣するヤマネコが出現していた。
「これは水のついで。余裕がなければ良いよ」
鴉主は十リッターのタンクを三つ腰に吊り下げ、背には手足を縛って電撃で倒したヤマネコを担ぎ、燕姫にも同じように水だけ持たせた。
「ザリガニとかは捕らないの? 私、持てるし、捌けるよ」
水は蒸留すれば除菌できるが、食肉の加工は中に持ち込むまでにある程度しなければ汚れをシェルターに持ち込んでしまう。
給水士は水集めと共に、食肉の屠殺も兼任していた。
「欲張らない。アクシデントが有ればこのネコも捨てなきゃいけないだろ?
そうしたら、エレキスタンで付いた火傷をインセイヴァーが見付けたらどうなる?」
「インセイヴァーが見付けるより前に他のケモノが食べてくれるんじゃない?」
「九九パーセントな。だが一パーセントを百回繰り返したら? そんなことを続けたら、いつか百パーセントを超えちまう。
仮にインセイヴァーと遭遇したら、俺には一応“ジンキ”が有るが、お前はまだ使えないだろ?」
「すぐ、使えるようになるわ」
「なら、それまでガマンだ。“すぐ”なんだろ?」
自分を軽んじる慎重すぎる兄に、妹はエレベーターに戻る道中、ずっと不満を云い続けた。
懸命な兄だって、自分のようにバカなことをするはず、そんな不満と不平は、すぐに証明された。
賢愚の境が見えなくなった。シェルターの直上、出入り口のマンホール地点が視界に入った頃、“それ”は居た。
「兄さん、あれって!?」
「……“ヒト”だな」
倒れていた身体。他の獣とは異なり、無毛の白い肌を覆うものはない。
雨に晒され裸で横たわるそれは、紛れもなく人間の若い女だった。
「――燕姫、ヤマネコ頼む。俺はこの人を」
「兄さん、その人、インセイヴァーの人間牧場から逃げてきた人じゃないの!?」
「だろうな。見たことのない顔だ」
声を荒げる燕姫に対し、鴉主は冷静に女の白い肌の周りをさすり、外傷や脈を確認している。
賢愚が逆転しているようだった。
「発信器とかは?」
「――燕姫、サーモグラフを見てみろ」
「機械的なものに限らない! 熱探知なんか――」
「違う! 体温だ! 完全に三〇度を割ってる! 死にかけているんだ!」
「シェルター内の全員が危険になる! みんなの同意が必要な事案よ!」
「違う! この人は今、俺達が救わなければ死んでしまう人間で――俺達は人間だ!」
兄の力強い言葉に、妹はそれ以上何も云えなかった。
ただ自分たちが生き延びるのに必死な世界で、鴉主は、目の前のひとりを決して見捨てない男だった。